170 ●木下藤吉郎は土佐で夢見る
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次回更新は12/3(日)
(1547 ●木下藤吉郎(10)視点)
武田信玄殿に護衛の武士をつけてもらい家族を迎えに戻った。見どころがあるから土佐の医学校に派遣させる。身の回りの世話は母親にさせる為に一緒に土佐に行ってもらう、という建前の説明を護衛の武士にしてもらった。義父には藤吉郎は見どころのある子どもであり、その親であれば一廉の人物であろうから武士として取り立てるつもりだと甘い話を向けてもらう。支度金の見せ金の効果もあって義父は簡単に騙された。義父は今川の一兵卒となり、俺は母と弟妹の4人で駿府から船で土佐へ向かった。信玄殿に何故ここまで援助してくれるのか、と問えば、自らが助けられた恩義を私に繋ぐことで返しているのだと言われた。また会えるかどうか分からないから、恩を返すのではなく誰かを助けて欲しい、と。
家族を迎えに戻っている間に武田信玄殿から一条房基殿には手紙が送られており、土佐に着いた時には受け入れ態勢が整えられていた。御所のある土佐中村は慌ただしい雰囲気であった。伊予を統一した勢いで讃岐に侵攻し、半国を切り取ったことで行政機能を道後に移す準備が始まったというのだ。立法司法行政の各奉行所は道後に移り、中村には支所が残るだけになるらしい。最初に作られた医学校は残るが、より高度な医術は土佐中央部に作られた高智大学が中核となるという。中村はこの先、音楽と芸能、それらを支える木工技術の街になると説明された。
中村御所で短い面談が終わると高智大学のある土佐中央部へ移った。前世で美術と英語が得意であったことから、高智大学では英和、和英、国語の辞典の監修の仕事を与えられた。転生者である千利休が書き起こした膨大な英語資料を基に辞典が作られていた。そもそも国語辞典が存在していなかった。英和辞典を作ることと並行して国語辞典の編纂も行われていたのだ。1年や2年で成せる事業ではない。専用の建物が用意され、多くの人員が取り組んでいた。10歳の少年であっても御所様(一条房基)の推挙というだけで最上級の敬意を持って対応してもらっていた。アメリカ大陸が発見されたばかりでアメリカという国はまだ無い。イギリスよりもスペインやポルトガルが強国だった時代だ。英語の辞典を編纂する意義は薄い。電気も蒸気機関も無い時代だから、3割以上は存在しない単語だ。これらは和訳表記の無いまま収録されるという。それでも前世の知識を形として残しておきたいという我儘を通しているのだという。ここで辞典の編纂を行うことで、この先のポルトガル語辞典、スペイン語辞典を作るノウハウを蓄積しているのも理由の一つらしい。
屋敷も用意され、下男下女もいた。弟と妹は高智大学関係者の子女と共に学校に通うことになった。学友には(姫若子)長宗我部"基"親がいるらしい。母は何かしらの仕事をしたがったので、屋敷の半分を機織の作業場に改装してもらった。近所の女性達と仲良く機織りとお喋りの日々を過ごしている。土佐の中央部は絹・綿・麻の紡績産業が集積するエリアだった。土佐以外から届いた綿花からの製糸作業や糸から布を作る作業、染色する作業。一つ一つは家庭内手工業の規模とはいえ工業地帯なのだ。屋敷にしても畳表や障子があった。これまでは板張りの床と板張りの戸しか見たことがなかった。畳も障子も高額な工芸品であり、背景にはこれらを作るための素材が生産され、職人がいるということだ。土佐にはいくらでも仕事があるというのは本当のことだった。
辞典の編纂作業が一区切りしたところで堺へ行き、千利休と内容のすり合わせを行った。転生者同士でなければ分かり合えない文言や表現について深く語り合うことになった。まさか千利休が英語教師であったとは思ってもいなかった。性別が変わることをも受け入れて、好きだった茶道を極める道を楽しんでいると語った笑顔が眩しかった。振り返ってみて自分の夢は何だったのだろうか? 英語が得意だったのは小学・中学と海外生活が多かったからだ。好きだったのは美術。イギリスのナショナル・ギャラリーにもアメリカのメトロポリタンにも行ったことがある。いつかルーブル美術館やエルミタージュ美術館に行ってみたかった。今この時はイタリア・ルネサンスの時代だ。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロが生きていた時代。会うことは叶わぬまでも絵画や彫刻の技術や手法を広めることは出来るかもしれない。御所様(一条房基)が中村を音楽と芸能の都にするならば、芸術に特化した街だって別途作ることができるかもしれない。コツコツ収集すれば徳島にあった大塚国際美術館みたいな美術館が作れるかもしれない。夢が膨らんでワクワクが止まらない。
日本初の近代的国語辞典は1889年に”自費”出版で刊行された「言海」
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)、ミケランジェロ(1475-1564)、ラファエロ(1483-1520)。残念ながら生きているのはダヴィデ像の作者ミケランジェロだけ。1547年にはシスティーナ礼拝堂の壁画を製作していた。
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