167 ●伊予守護河野通宣
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(1546 春 ●河野通宣視点)
父通直が隠居したのは娘婿である来島村上氏の村上通康に家督を譲ろうとしたことに、兄晴通を含めて多くの国人達が反発したことで内紛が激しくなったことによる。最終的に豊後の大友義鑑に仲介に入ってもらって、兄晴通が家督を継いだ。大友義鑑の娘を私の正室として迎え入れていた縁だ。大友氏との縁もあってその後の阿波細川氏の侵攻も跳ねのけることができた。当主であった兄晴通が3年前に急逝した。後継としてまだ10代であった私が38代目の当主となったが、兄が追放した父通直が再び力を振るうようになった。父もしくは父の一派が兄を暗殺したウワサが広まる中、父が出戻ってきたことで兄を支えてきた重臣たちと父の一派の権力争いが激しくなっていた。
土佐一条家が南伊予の西園寺氏、西伊予の宇都宮氏を降したのは5年前になる。その勢いのままこちらへ攻め寄せて来るかと思っていたが、国境での小競り合いも無いままであった。それが昨年の秋に突然攻め寄せてきた。豊後の大友氏に支援を願いたくとも一条房基の正室もまた大友義鑑の娘。私の正室の姉である。足利将軍家に仲裁してもらいたくても細川晴元が三好氏に討ち取られて、将軍は京から近江へ逃げ出したという話が聞こえてきていた。一条房基もそれを受けて攻め寄せてきたのだろう。気付いた時には我が領地に侵攻されていた。間にあった内子も砥部も素通りしてきたかのようであった。国人達が寝返っていたのか簡単に降伏してしまったのか、突然に城の手前まで押し寄せてきたのだった。秋の収穫期であったこともあり、農兵を集める暇も無く、声が掛けられる者共や親族のみを辛うじて湯築城に収容し、籠城の準備をした。兵糧も武器も心許ない有様だった。父通直は城が包囲される前に来島村上氏を頼って逃げ出していた。
入念に下調べを行っていたのだろう、城の包囲は的確だった。城の麓の多くの木々が切り出され、いくつもの櫓が並び、砦のような陣地が瞬く間に構築されていた。一当てもせずに降伏する訳にも行かなかったが、最初の攻撃は何かしら爆裂する玉が飛んできた。見たことも聞いたことも無い攻撃だった。何十発もの爆裂で櫓のほとんどが破壊された。次の攻撃はもっと恐ろしいものであった。相手方の櫓から雷のような大きな音と共に鉄の玉(二十匁砲の鉛玉)が城門や城壁を破壊し始めた。櫓の上にある筒から火が吹き出し、真っ黒な煙が見える。その度にどこからか大きな破壊音がするのだ。弓矢などではとても届かぬ距離からの見えざる攻撃にただ震えるしかなかった。戦のやりようがあまりに違っていた。
戦意も失せた頃、相手方に大内家の旗印が上がっていた。大内家が来たということは三津浜の港が落ちたということだ。制海権を押さえられ、大内家が上陸してきたとなると、伊予の国人衆が集まる可能性は無くなったと言ってよい。皆、保身に走るだろう伊予の国人達はそんな奴らばかりだ。もはやここまでと降伏するしかなかった。後で知ったことだが、この時の大内家の旗印は大内晴持が陸路で僅かな供回りと共に到着していただけで、港も海上も大内水軍が来ていた訳ではなかった。
我らの降伏を受け入れた一条房基は総大将を大内晴持に任せて、河野家の家臣団を根こそぎ土佐へ移送した。大洲城と河川や道路の整備現場を見せ、宇和島では西伊予・南伊予の国人衆を集めた武家屋敷群を見せ、土佐宿毛では各地との貿易で集まる様々な商人と商品を見せ、土佐中村では行政の中心となる奉行所と議事堂を見せられた。伊予の中の道後の狭い場所でそれぞれの家が持つ小さな利権に固執している国人衆とは見ている世界が違っていた。
御所様(一条房基)は河野家は伊予守護のままでよいと言う。守護は今では幕府が決めているだけの役職にすぎない。土佐守護は細川京兆家だそうだが会ったこともない。土佐の守護代にも会ったことがないという。反乱したり、反抗したりする国人達は一条家がまとめて面倒を看てやる。父通直も引きずり出して隠居させてやる。伊予に縛られずに自分が何者なのか自由に決めればよいと言う。私は敗者であるのに何故?と問えば、義弟だからな、と笑った。泣けた。ただ泣けた。
堺と京も見て来い、と言われ上洛することになった。従五位下に叙位されるように働き掛けていると言われ上洛した。京では後から来た大内晴持と合流し土佐へ戻ることになる。勝者と敗者ではあったが妙に馬が合った。大内晴持には王者の風格があった。新しい伊予を創り出すその思いを受けて共に熱く語り合った。初めて伊予を恋しく思った。
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