166 ●伊予守大内晴持
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次回更新は11/5(日)。
(1546 春 ●大内晴持視点)
昨年の夏、土佐の兄上(一条房基)から周防に細川晴元死亡の知らせが届いた。あわせて伊予河野氏攻めを始めるので準備を整えて来て欲しいという内容であった。養父大内義隆宛の手紙には父の妹がそれぞれ嫁いだ阿波細川持隆と足利義維が上洛するべく動いているとの情報が書かれてあった。大内ではこれを受けて家臣達を集めて評定を行うことになった。伊予侵攻は以前から計画されていたことであったので、私は評定が始まる前には伊予に渡った。周防の対岸にある伊予長島港から川を遡った先には出来たばかりで勇壮な大洲城があった。伊予攻めは既に始まっており、大洲から道後に向かった。
道後までの街道は制圧済みで、中継地点となる街々には陣が敷かれ、替え馬が用意されており、包囲されている湯築城までは大洲城から3日で着いた。尼子攻めで月山富田城にたどり着くまでに1年以上かかったことと比べると驚くべき早さであった。湯築城に着いた時には既に城の包囲が済んでいた。攻め落とせなかった月山富田城の山城とは違い湯築城は低い丘の上にあり、攻め始めてまだ3日目だと言うが、既に多くの櫓が破壊され、城門も半壊状態であった。
到着して翌日には何もすることなく伊予守護河野通宣が降伏。兄一条房基は河野一族と共に土佐へ戻ることになり、総大将を引き継ぐことになってしまった。伊予長浜港に駐留していた大内水軍が湯築城の外港である三津浜港から伊予の西側の海域を制圧している間に今治に進軍した。伊予の国府は今治であり、海上交通の要衝でもある今治を落とすことが必須であった。守護である河野氏を下したことで他の国人達も恭順し、抵抗らしい抵抗もなく道後・道前を平定してしまった。西伊予と土佐から多くの物資が搬入され、物量で押し切ってしまった感があった。何より土佐の兵は速かった。家や一族単位で編成されている周防の軍と違い、土佐の軍は兵の種類毎に編成されている。統率されている部隊毎の移動速度が段違いだったし、分割する時も早く、合流しての再編も早かった。平素の鍛錬の練度が深く高い気がした。
年が明ける前には土佐中村に入った。周防大内家に養子に入って以来、20年ぶりの土佐であった。幼少時の記憶もない土佐中村は周防山口よりも小さい街ではあったが、整然とした作りで活気のある街だった。皆に御所様と呼ばれている兄一条房基に挨拶をすると、正五位上への昇叙と伊予守の官位の手筈を整えているので京へ行くように指示されることになった。湯築城を中心に道後の街を整備し、伊予大内家を興す準備の一手だそうだ。
土佐から上洛する途中で阿波にいる2人の叔母を訪ねることとなる。1人目は足利義維の正室。2人目は阿波守護細川持隆の正室である。足利義維は細川持隆の庇護を受け、阿波平島荘にいたが、三好氏が細川晴元を討ったことで将軍となるべく細川持隆とともに京へ向かっていた。2人の叔母には布や細工物など多くの贈り物を届けた。そしてその周囲には多くの米を届けた。細川晴元が討たれてもまだまだ戦は続く、兵糧はいくらあっても喜ばれた。もちろん全ては一条家からの物資であった。
御所様(一条房基)には伊予の街づくりをするつもりで、それぞれの街をよく見て回るように言われていた。これまで周防山口しか知らなかったから、土佐中村→土佐浦戸→阿波平島→堺→京までそれぞれの街を見ながらの旅はとても楽しいものであった。
京で無事に正五位上と伊予守となる。実父一条房冬、養父大内義隆、従弟が足利義維と細川持隆という後ろ盾は大きいものだったのだろう。足利義維と細川持隆へはそれぞれに挨拶を済ませ、堺で調達されていた物資を贈るととても感謝された。一条家が調達したものであることは承知しているだろうが、伊予大内家からの贈答という形が大事なのだそうだ。
周防を出立して目まぐるしい半年ではあったが、伊予に戻る。養父大内義隆には2人目の男子が誕生していた。周防大内に戻ることなく、これから伊予で伊予大内の街づくりが始まるのだ。
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