165 伊予開発
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次回更新は10/29(日)
(1546 冬 23歳)
湯築城が落城し、今治城の築城や来島村上氏への対処の指示を出したところで土佐に戻った。土佐に戻ると今回の侵攻での論功行賞や伊予の国人衆への仕置など事務作業が待っていた。その前に昨年末に次女が誕生していた。長女の名前は椿。次女は蜜柑と名付けた。
伊予国守護河野氏の所領は一条家が接収。他の国人衆の所領は安堵とした。ただし5つの条件を飲むことが前提となる。1つ目は税の配分を国人:民:一条=4:4:2とすること。2つ目は検地を受け入れること。3つ目は戸籍の記録とその提出。4つ目は2年に1度、土佐に参観に来ること。5つ目は一条式目と一条法度の分国法の遵守。これらを受け入れ一条に降るのであれば初年度の税は徴収しない。六公四民でよい。
1つ目の税。多くが六公四民かそれ以上を搾り取っていたところの上前を撥ねる形を取る。伊予で徴収した税は伊予で集積し、災害などの非常時の備蓄とし、翌年に繰り越した分は交易で資産化していく。その資産は堤防や道路などの公共事業の原資の一部になる。
4つ目の参観とは参勤交代によく似た形の制度だ。2年に一度くらい挨拶に来い。ついでに最新の戸籍を届けるように、ということだ。伊予から土佐に移動すれば、その道中で貧富の格差を実感することになる。土佐での歓待で美味しい物を食べさせて、よい着物を与えることで領地を治める内政力の実力差を思い知らせる。2度も往復すれば、今の土佐の国人衆のように領地経営は一条の行政組織に任せて、禄を支給してもらう方が楽だと理解することになる。そのための参観なのだ。
5つめの分国法。最初に草案を作ってから9年になる。少しずつ増えて法令らしくなってきていた。国人衆同士の争いを認めていない。式目(立法司法)奉行の決定に逆らうのならば家ごと取り潰す強硬なことも行ってきた。争いが出来ないことで、今までのままの国人は飼い殺し宣言をされたようなものなのだ。兵や武器を持っていても使い道がない。そしてそれに気づいたときにはもう手遅れなのだ。
伊予をほぼ平定したことで、大規模な開発計画がいくつも進行を始めた。最初に侵攻した四国カルストには大規模な牧場を整備していく。次に侵攻した内子は適した農地が少ないので、土佐からロウソク産業を移す。水軍衆が上顧客であるし、博多や周防などの市場に近い立地は魅力的だ。次に侵攻した砥部では陶石を使った陶磁器の開発に着手してもらう。土佐では瓦製造、刀鍛冶、ガラス製作の現場で耐火レンガの窯の性能が向上した。土佐にも焼き物用の窯はあったが、良質な土がなくて木の器が主流だった。砥部焼を100年くらい前倒しで作れるようになれば、重要な地場産業が創出できるはずだ。
西伊予を平定した頃に調べてみたが、この時代まだ伊予でミカン栽培はされていないようであった。柑橘類として橘はあった。橙や金柑は実よりも皮が薬用として利用されていた。京で調べてもらうと肥後から献上されているミカンがあったので、京・堺・博多の商人達に入手を依頼。西伊予の実験農園で各種の柑橘類を試験栽培してもらっていた。ミカン栽培が成功すれば、山の斜面や、宇和島や宿毛沖の島々でミカン栽培が出来る。砂糖もあるから砂糖漬けなどの保存食も多様に作れる。遠距離航海にも持っていける。桃栗三年柿八年。果実栽培は商品化できるまでに長い時間が掛かる。伊予でなら柑橘類が必ず根付くと分かっているから、迷うことなくトップダウンで取り組める案件であった。
史実では次女は阿喜多。日向は伊東義益の正室。嫁に出す予定はない。
砥部焼は江戸時代中期に開発された陶磁器。
内子のロウソクも江戸時代
ミカンは中国→熊本→和歌山→静岡と伝来していった模様。
愛媛でミカン栽培が本格化したのは明治以降。
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