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戦国クラス転生  作者: 月本 一
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164 東伊予侵攻

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次回更新は10/22(日)

(1545 秋 22歳)

 伊予国守護は河野氏。河野氏もまた家督争いで混乱している家だった。現当主は河野通宣。2年前に兄晴通が急死して後を継いでいた。その兄晴通は父通直が娘婿の村上通康を後継にしようとしたことに反発し、家臣達と父通直を来島城へと追放し後継となった。来島とは村上氏、村上水軍の一派である。数年前に細川晴元の号令で阿波細川氏の細川持隆と三好義賢(実休)が攻め寄せてきた際は、豊後の大友義鑑に助けを求めて食い止めるなど統率力のある当主だった。河野晴通の”晴”は将軍である足利義晴からの偏諱を受けての”晴”である。その晴通が20歳になる前に急死したのはおそらく父通直が関与していたと思われる。後を継いだ若き新当主の後見には追放された父通直が就いた。兄を支えた重臣と父通直派とに割れた家中は不安定な状態だった。


 2年前に西伊予を平定し、大洲城を築城。大洲に作った足軽合宿所で伊予の兵を鍛え直していた。これらを東進させた。土佐からは梼原街道、松山街道を国境まで整備し、いつでも部隊を送り込める準備を整えていた。地理の話になるが、土佐は阿波、伊予とは国境を接しているが、讃岐とは隣接していない。四国山地が間にそびえているため讃岐に侵攻するには阿波を通るしかない。土佐から伊予へも険しい山越えルートになってしまう。山越えの複数のルートを使って土佐からも部隊を送り込む。


 大洲の東に隣接していた内子は事前に調略が済んでいて戦闘もなく通過する。その北に位置する砥部も抵抗せず降伏した。松山平野の手前にある松前港へ大洲や宇和島からの水軍衆を送り込み、部隊を上陸させていく。まだこの辺りの沿岸は村上水軍の勢力圏ではなく、どちらかと言えば周防大内の水軍衆の勢力下にあった。村上水軍は芸予諸島や尾道市から今治市を結ぶしまなみ海道が通るエリアを中心とした水軍であった。湯築城は高縄半島の西南、今治は東北、来島城はほぼ北端に位置している。東伊予の大まかな地形は高縄半島の西側の根元に松山平野があり、東側の根本、前世で言えば西条市に道前平野、その東に新居浜平野が広がる位置関係になる。


 村上水軍は芸予諸島を中心として活動している水軍衆だ。瀬戸内の通商を牛耳っていた。本州側を航行している船からの通行料が主な収入源となっている。四国側は経済活動が小さくうまみはない。広島沖から西側は大内水軍の勢力下である。大内水軍は何度も村上水軍を傘下にすべく攻め立ててきたが、その度にはねのけてきた歴史があった。村上水軍は大きく分けて3つの集団がある。それぞれ本拠としていた島の名前で能島村上氏、因島村上氏、来島村上氏だ。来島村上氏のみが河野氏に臣従していた。


 結局、河野氏の主城である湯築城まで大きな抵抗はないままであった。伊予大洲からの陸上部隊。宇和島から水軍で運ばれた部隊。土佐から四国カルストを越えてきた部隊が集結して湯築城を包囲。忍者衆によれば当主河野通宣の父通直は来島城へ逃げ出したらしい。湯築城を包囲し始めた頃、ようやく周防大内から大内水軍とともに大内晴持が到着した。そこで軍を再編成して半数は来島城へ向かって進軍させた。水軍衆も高縄半島沿いに来島城へ向かった。


 湯築城は山城でなく道後温泉のあった近くの丘の上にあった。松山城はまだこの時代には存在しない。最初の攻撃は迫撃砲部隊から始まった。花火師集団の腕も上がり、十発も撃てば着弾地点も集束し、着弾前後で爆発し始めた。背の高い物見櫓は初日に全て破壊された。翌朝、まだ暗いうちから試作中である二十匁大筒が火蓋を切った。3匁や十匁の火縄銃の実戦投入は見送った。二十匁ともなるとほぼ砲台に近い。複数人で運ぶほどの重量があり、銃架で固定して使った。撃ち降ろしの弓も届かない遠距離から城門を中心に十数発を撃ち込んだ。撃ち上げる角度になってしまうため後方にある建物にも被害が及ぶ。4丁のうちの1丁の砲身が破断した時点で砲撃を中止。強度と精度と連射訓練と耐久試験を兼ねての実戦投入だった。砲撃後、全ての大筒は部隊とともに土佐へ送り返し、記録とともに検証作業にかからせた。連日続いた経験したことのない得体の知れぬ攻撃により湯築城は半壊。河野通宣は降伏勧告を受け入れた。城の被害は甚大であったが、人員の被害は軽微であったらしい。


 降伏を受けて、当主河野通宣は家族ともども土佐へ移送させた。湯築城は修復作業に取り掛かり、麓には足軽合宿所と長屋の建設を始めた。大洲と違って湯築城は城として改築するつもりはなく、政務を行う支所として整備していく。一方、大洲城を建てたチームは今治に集めて今治城の築城をさせる。今治は平地であったこともあり城はなかった。来島村上氏の本拠地の目の前にある波止浜港でなく、今治港に水城を築くことにした。高縄半島西岸にある松前港は商業港として整備していく予定だ。


 河野通宣の父通直が逃げ込んだ来島は波止浜港の沖合にある小さな島である。大内と土佐の水軍衆は四国側にある複数の港に引きこもって荷止めを行う。村上水軍としても主な取引相手は本州側であり、四国側と取引できなくても大きな痛手ではなく、無理を押してまで攻め込んでくることはなかった。こちらは相手側を超える船団を組んで警護しつつ、大量の物資と人員を宇和島や宿毛から高縄半島西を回り込んで波止浜港と今治港へ運び込んだ。細川晴元との争いで、畿内に人員を運んだ船の多くが今度は四国の西側から瀬戸内側への流通を担っていた。そして、来島村上氏を無視して波止浜港に造船所を構築していった。宇和島の船大工のほとんどを波止浜港に移住させたのだ。ここで造る船は瀬戸内の水軍衆に販売していく。将来の商売相手と想定している村上水軍とは最初から争うつもりはなかった。


 高縄半島をほぼ制圧した段階で進軍を一時停止。東へ進んで西条、新居浜から讃岐まで進めると、戦線が長くなり過ぎるからだ。東への睨みを利かせるために松山と今治の中間地点に砦を1つ構築して、伊予の再開発に取り掛かることにした。

補足説明:

史実で最初に火縄銃が実戦で使われたのは1549年の薩摩島津が大隅国を攻めた時。1550年には細川晴元が三好長慶との戦いで使用。


来島村上氏の本拠地である来島は波止浜港沖にあります。その波止浜港には今治造船があります。国内最大。世界4位の造船会社です。


太閤検地が行われた際の土佐の石高は10万石。伊予は37万石。阿波18万石。讃岐12万石。西伊予平定で石高が2倍。東伊予平定で更に2倍になった勘定です。


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