11 農機具開発と中村御所のこと
2022/01/10 年号・年齢を訂正
(1525 秋 3歳)
椎茸にも旬がある。季節的にこの事業はすぐに結果が出せるわけではなかった。
覚醒したのは秋口で、田の稲はまだ収穫前だった。
増収させるには手遅れだが、収穫時に楽をさせることはできる。
“千歯扱き(せんばこき)”
簡単にいえば稲穂から実をこそぎとる道具だ。
耐久力を考慮すれば金属製だが、金属は貴重なので竹や木材で試作させる。
とりあえず今回もてばよい。
“唐箕”
風力を利用した塵やゴミと籾を選別する装置
これにより大幅な作業の省力化が行える。
これらは昭和中期まで現役で使われていたものだ。
作業が楽になれば他に稼ぐ作業の時間も作れるし、
何より早い時期に兵を集めて戦ができることになる。
メリットを提示しやすい。
秋の取り入れが始まるまでに
千歯こきや唐箕を何パターンか試作し、
現場で改良を重ね、実用にたえうる形になった。
来年には大量に投入できるようになるだろう。
腕のよい職人たちが集まっていたことが成功につながった。
何故、四国の南西部にそんな職人たちがいるのかというと
土佐一条家の成り立ちにさかのぼる。
一条兼良(一条家8代)←実はとんでもない才人だった。
一条教房(一条家9代)兼良の長男。
一条冬良(一条家10代)教房の弟
一条房家(土佐一条家初代)教房の次男。長男は応仁の乱で戦死。
一条房冬(土佐一条家2代)房家の長男
一条房通(一条家11代)房家の次男
一条房基(土佐一条家3代予定)←私
故・ひいじいさんである教房が京都から所領のある
土佐中村(今の四万十市)に下向(避難)してきた。
この時に公家、武士、職人もいっしょに連れてきたのだ。
そして、京都を模した街が現在進行形で発展している最中なのだ。
戦国時代、高知県南部に土佐一条家があったという知識しか
なかったので、ここまで発展した街だとは思いもよらなかった。
宮大工も連れてきており多くの寺社が勧進・建立されている。
職人の中には水車大工まで移り住んでおり、
あちこちで水車も稼働していた。
彼らの協力があっての開発の成功だったわけだ。
実は〇〇の小京都と言われる場所は日本各地にあるが、
〇〇御所と名乗れる場所は少ない。
ここは中村御所と呼ばれ、当主である祖父房家は御所様と呼ばれていた。
話は戻って、秋の収穫後なのだが
高知県で行われていたイメージのある二期作、二毛作は行われていなかった。
これは農地が整備されていないこと、肥料が十分用意できていないなどから
土地の回復が追いつかないためと思われた。
肥料を用意する必要があるのだ。
山の民に協力してもらい、彼らが移り住んだ、農地には不向きな丘陵地帯を
牛馬の牧畜エリアとして整備することにする。
戦用の騎馬や糧食を運ぶための荷馬のための馬の飼育中心を想定している。
労働力としての牛は百姓が個別に所有・管理するのは
ハードルが高いので飼育するとしても貸し出し(レンタル)を考えている。
牛馬の糞尿と落ち葉や草木を肥料小屋に集積し、有機肥料を作成していく。
循環するようになるまでは年単位の時間がかかるだろう。
中村御所は1946年の南海地震で壊滅的な被害を受けました。
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