不滅の怪物。その七
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流れの激しい水路を見下ろす紗世に、背後に立つ尾上が不安を煽るように尋ねる。
「どうだ、取り残されてしまった気分はァ?」
「うーん。わたしがついて来てもやることないなぁ、とかですかね」
凄む尾上の問いに、紗世は全く空気を読まない回答を返す。
「なかなかどうして、肝の据わった女のようだな」
「剣の隣に居るなら、このくらい普通ですよ」
「据わりすぎて腹立たしいくらいだよ」
「え、なんかごめんなさい」
ぺこりと、素直に頭を下げる彼女に調子を狂わされる尾上は溜息をつく。
「まあいい。その余裕もすぐに消えるだろうからなァ」
そう言って、水路を背負う紗世へと黒狼は一歩一歩。
恐怖を募らせるように重々しく足音を起こして近づく。
「そういえばわたし、あなたに聞きたいことがあります」
「?」
しかし、それでも全く動じている素振りの無い彼女は、突然に目の前の怪物へ勝手に質問を始める。
「あなたの瞳はどうしてそんなに大きいんですか?」
「ハッ! なんだそれはお伽話の真似事か? そんなものはお前の苦しむ様をよく見るためだ」
「じゃあ、どうしてそんなに手や足がギザギザしているんですか?」
「お前を八つ裂きにするためだ」
「じゃあ、どうしてそんなに耳が大きいんですか?」
紗世が|最後〈三つ目〉の質問をした。
「それはなァ! お前の悲鳴を聞き逃さぬためだァァァァッ!」
それを合図に、尾上が地を蹴りつけて剝き出しの爪牙で彼女の白い肌を血で彩るべく襲いかかる。
女性の小さな体と怪物の巨躯。
対格差で覆い被さるように迫る猛威を、紗世は両手を突き出し、自分の身体を半永久的に巡り続ける魔力で空気を凝固させた壁で拒む。
「御魔守り(みまもり)〈空壁〉!」
「こんなもので時間を稼いだところで、お前の狩人が間に合うことはない! 駆けつけた奴の本気を引き出すための材料として、さっさと悲鳴を上げて死ねェ!」
空気の壁を叩きながら語った敵の推察は正しかった。
紗世が空壁を維持できるのは魔力を放出している間のみ。
この世の生物は魔力を使用しながらでは、体で魔力に換わる空気中の魔素を吸収できない。
いくら瞬時に魔力を満たす魔力循環率が並外れた彼女でも、空壁は保てて数秒だった。
(ああ、そろそろ限界かも……)
何度も叩く黒拳に、目の前の空壁が悲鳴を上げる。
「っ! そんなにわたしに声をあげてほしいんですか?」
「ああ欲しいねェ! 精々、俺の注文が届く前に盛大な絶叫を上げてくれたまえ!」
「わかりました。じゃあ叫んでっあげます」
紗世が大きく息を吸い込み。精一杯の大声を吐き出す。
「剣っ!」
どこに居ても届くように。
彼女の英雄の名を。
「それが遺言でいいのだな!」
尾上が空壁への粉砕の一撃を構え、彼女の声の反響が止む間際。
「――ゴッ!?」
「紗世、待たせた!」
嘲笑う尾上の相貌へ膝を突き刺した彼女の英雄が飛来した。
飛び込んできた膝頭が頬に突き刺さった尾上はその場で踏ん張ろうとして力む。
しかし、その勢いは遥かに強力で彼を足元ごと引きずりコンクリートの床に電車道を作って、逆側の通路口の真横の壁面に半身を埋められてしまう。
「まだまだ死んじゃいねえだろ?」
剣の攻撃はまだ終わらず、頬から膝を離した剣が器用に空中で尾上の首元に脚を回す。
「俺のターンはここからだ!」
脚で掴んだ首を引っ張り壁に埋まった胴体を力任せに引きずり出して持ち上げる。
そこから地に手をつき。
逆立ちの姿勢で敵の頭部をコンクリート床に叩きつけた。
大きくなった人狼の肉体が仇となり、全体重で圧し潰してしまう。
剣は後転を数回。大きく跳躍して、紗世の隣に着地する。
「無事か、紗世」
「うん。全然大丈夫だよっ」
間に合ったとはいえ不安そうな剣に、紗世は自分の出来る限りの爛漫な笑顔で答えた。
剣は安堵で息をつく前方。
起き上がった尾上がおかしな方向に曲がった首をゴリゴリと惨い音を立てて、微調整をして元に戻す。
「どうやら人間を辞めているのは俺だけでは無かったみたいだなァ」
「いやいやこんな見た目でも、俺はただのおっさんだよ」
「だがな……この肉体は片手で守れるほど容易くはないぞォ!」
紗世を背でかばい立つ剣。
その男を破壊するべく、尾上はその場から軽やかに飛び退き壁の高い位置を蹴る。
そして蝙蝠の羽を広げて滑空。
右手の巨拳に文字通りの全体重を乗せて飛び込む。
「別に左腕を使わなかったのは痛むからじゃねえ!」
黒腕を右手で受け止めた剣は、怪物に大声を叩きつけて紗世の方を振り返る。
「――怒られるからだっ!!」
先ほど診てもらった医師には念のため数日様子を見てから取ってくださいと言われいた。
だから彼は心配する彼女の手前。余程のことがない限り包帯で固定された左腕の使用を躊躇っていたのだ。
「しょうがないなぁ、剣は。こんな状況だし、痛くないなら取ってもいいよ」
「おっしゃあぁぁぁぁ!」
歓喜の声とともに左腕の包帯が弾け飛ぶ。
帯電する腕が青く瞬く。
「おらぁっ!」
蓄えていた渾身は、尾上の真下から腹部に叩き込まれた。
「ガァッ!!!!」
迸る一撃が突き刺さり、ミシミシと尾上の腹筋が嫌な音を鳴らした一瞬後。
背骨が盛り上がった黒狼の大きな図体が爆発的に加速して真上に打ち上がる。
黒狼は激突する天井も、その上に重なる灯京の地盤も容易く砕き。
上に建つビルの全ての階層の床と、屋上をもぶち抜いて灯京の雨空へと吹き飛んでいく。
「……念のため、それを着といてくれ」
敵の空けた穴を見上げたあと大刀を拾い上げる剣が、上着を脱ぎ振り返りざまに紗世に投げ渡す。
突然のことに、取り落としそうになる紗世がなんとか受け取る。
「え、それって?」
「紗世、行こう」
それは闘いの中で、初めて彼から伸ばされた手。
「っ……うん!」
慌てて彼の戦闘服を羽織り、紗世は迷いなく握って彼の首に両腕を回した。
ずぶ濡れた薄いTシャツ一枚の背中からは彼の体温が伝わってくる。
「剣、あったかい?」
「……」
それは、きっと剣も同じだろう。
彼は何も答えず、背中の紗世を確認してから、地上へ穿たれた出口に飛び込む。
瓦礫を蹴って跳躍を繰り返し、屋上に到着した剣はそこで最後の警告する。
「こっからは少し衝撃がくるから、しっかり掴まっててくれ」
「了解だよ。わたしに遠慮せず思いっきりジャンプして!」
「おう!」
返事をとともに紗世の下に椅子代わりの大刀を添え、屋上の一角を踏み砕いて跳躍する。
二人の目に映るのは、手を伸ばせば触れてしまえそうなほど急接近した降りしきる雨空だけ。
上空に仰ぐ二人の直下。崩れた建物付近で爆音が轟いた。
「なっ!?」
「なにあれ!? さっきの場所が、燃えてる?」
建物に空いた穴から、全てを焼き尽くすような爆炎が上空の二人を照らす。
剣は通信機に手を伸ばしかけて……思いとどまる。
(いち早く秘書に状況を確認をしたいところだが、今は尾上の討伐が最優先だ。ここで逃がせば、あの怪物は必ず俺達の平和を脅かす存在になる)
頭上を覆う群青の群雲の中。羽を広げた怪物はその身を翻して夜空を泳ぐ。
斉藤剣は跳躍はできても、飛行はできない。
(大空を自由に移動する奴を追うには、もう一度何所かに着地しねえと)
「<抜刀術・一刀召喚>」
――だから剣は足場を生んだ。
足元の魔法陣から出現した愛刀の柄を蹴り、空中で直角に方向転換して、加速!
勢いよく全身を襲う雨粒の中を突破して、敵の元へと突っ込む。
「<抜刀術・四刀連召喚>!」
喚びだした四振りの柄を右手の指の間に挟んで掴み取る。
握った手から獣の爪のように広がった愛刀で数回、滑らかな軌道を描く。
一瞬にして細かく斬り裂いた尾上の肉体を、刀同士の間を電流が血も残さず焦がし尽くす。
「ふっ!」
とどめの一振り。
摩天楼の並び立つ灯京の上空で、重なる四本の斬閃が燃え滓を風に舞う塵へと変えた。
それから、灯京の上空をしばらく進み。
勢いが衰え始めた所で元の姿に戻った剣が少し申し訳なさそうに口を開く。
「そういえば、言い忘れてた事があるんだが……」
「うん。それ今まさにわたしも疑問に思ってた」
彼の声に背中の紗世が頷く。
「当機は有人で飛び立つ想定がないため、そもそも安全な着陸方法なんて用意してないんだ」
「でも、聞きたくはなかったかも~~!」
紗世の悲鳴とともに急降下していく二人。
急降下する体があおられる。六月にもかかわらず上空で感じる夜風は凍えるほど冷たい。
そんな身が凍り付きそうな間にも地上は今か今かと迫っており、紗世は恐怖で息が止まりそうになる。
「きゃっ!?」
最悪の着地が数秒後に迫る中。
剣は、空中で抱えた紗世を真上に手放し一足先に、地に片膝を着き、もう一方の膝を立て、右の拳を突き立てた姿勢で着地。
その後、遅れて落っこちてきた最愛の人を両手で大事そうに抱える。
「怪我は……ないな」
「剣が守ってくれたからね」
腕の中に紗世を抱いたまま剣は耳に付けた小型の通信機に呼びかける。
「おーい。そっちはくたばってねえか?」
応答は、すぐに返ってきた。
「それはこちらの台詞です。少し前に複種合人間の拠点に数人の火護りの騎士団が向かいましたから」
(やっぱ地下の炎は奴らの仕業だったのか)
「ですが、貴方からの連絡があったということは尾上の討伐は完了してくださったと思っていいのですね?」
「ああ、あいつは形も残らねえくらい粉々だよ」
「そうですか。尾上の部下の複種合人間から被検体を得られなかったのは残念ですが、今回はその成果だけで良し致しますわ」
「お褒めに預かり光栄だ」
「それでは任務完了。報酬のご相談は後日ということでお疲れ様です、オーバー」
音の聞こえなくなった通信機から意識を離し、剣は考える。
(尾上を見つけた時、なんらかの到着を急かしていたがまさかそれが火護りの騎士団ってことか。だとすれば、なんで複種合人間が一番会いたくないはずの奴らを自ら呼び出したんだ?)
「……」
「剣」
「?」
雨空に晒され、難しい顔で考え込む剣が腕の中で呼びかける紗世の声に首を向ける。
「んー」
すると、彼女は抱えられたまま剣の首に手を回し、そっと瞳を閉じて唇をそっと近づけてきた。
「――いたっ!?」
「三十にもなって、外でなんて顔してんだよ?」
支えていた手を意図的に放した剣が半眼で見下ろす。
その視線に紗世は猛然と抗議を唱える。
「いいじゃん周りに人なんていないんだし、それにわたしはまだ二十代っ!」
「いや俺が言いたいのは人がいるとか、そういうことじゃなくてだな」
「ちなみに、精神年齢なら二十五歳くらいだよ」
そこで挙げる年齢が、十七歳などではなく五年前というのが実にクリティカルな嫌味となっていた。
「……ったくよぉ」
(まあ尾上の狙いが何であろうともう奴は居ない。この件をこれ以上考えても仕方ないだろう)
可能性の余地を脱する事のない思考が急に馬鹿らしくなり、剣は呆れた笑いとともに考えるのをやめた。
多大な疲労感を覚える彼が時刻をケータイで確認すると、時刻は深夜二時を少し過ぎた頃。
ここから二人で歩くと、家に着くのに一時間ほどかかってしまうだろう。
「剣?」
背中を向けて黙る剣に、紗世は待ってきていた水玉模様の傘の下に入れながら声をかける。
「さっさと帰ろうぜ。このままだと俺たちが眠りにつく前に日が昇っちまいそうだ」
首だけで振り向く彼は、恋人の喜ぶ顔を見たい男の顔で照れくさそうに笑う。
「! うんうん早く帰ろっ! これ以上濡れた服で居たら風邪引いちゃうしね!」
「ちょっ、あんま外でくっつくなって!」
濡れてしまうから、という口実で剣の腕を抱き寄せる紗世に文句をいいつつ。
彼は渋々といった様子でそのまま歩き出す。
六月も下旬に差しかかる雨空の下。
二人は戦いの後の帰路を同じ歩幅で歩いていた。
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後日談。
その後、俺は帰ってきたウォロフに頼んで人狼に成ってしまった青年を無事彼らの群れに加わ得てもらうことになった。
とはいっても、一人で遠方の地に暮らす人狼群れに合流させるわけにも行かず、当面はアシュリーの高層マンションに一室を借りて住むことになったらしい。
まあ地下の檻に比べれば贅沢すぎると、本人も涙を流して喜んでいたのでそれでよかったのだろう。
そしてお待ちかねの報酬はというと、後日モンスターバスター社に「出勤したら、うちのビルが倒壊していたぞ!!」という怒りのクレームが飛び込んだらしく。
秘書からの報酬はもとより、盾石のオッサンが賢者からの依頼で受け取っていた報酬まで丸々吹っ飛んでしまうといういつも通りと言えばいつも通りな悲劇で幕を閉じのであった。
こんなことならバレにくい下水道をぶっ壊すべきだったのかもしれないなあ、なんてな。