最強の男の最悪な目覚め。
目覚めると、股間が浸水していた。
カーテンの隙間から差し込んだ太陽のスポットライトが、物語の始まりを告げるように布団の上の俺を照らす。
眩しさで目を開けた時刻は午後十二時。
鳥のさえずりが耳に届き、すぐそばの道を通り過ぎる自動車の音がする。
そんな平穏な一日の始まり。俺は腰周りの不快感と部屋に漂う異臭で目を覚ました。
「いやいや、ないないないない」
だって、俺三十のおっさんだぞ? 大の大人が、今更こんなミスするわけないだろ。
うん、そうだ。きっと寝汗だな。
寝汗が酷すぎてあたかも“そう”であるかのように感じるだけだ。
十分に言い聞かせた後。真実を確かめるため、意を決して寝そべる布団へと視線を向ける。
「……ないわ~」
○
「んー」
とりあえず今見たことは忘れよう。
俺はなんとか立ち直った体を伸ばし、敷きっぱなしの最悪な感触の布団の上で座る。
懐かしい夢を見ていた。
当たり前の平和がずっと続くと思っていた夢のような日々の夢だ。
「あー頭いてぇ」
懐かしさに目を細める俺の思考は、唐突な頭痛に遮られる。
どうやら昨日は飲みすぎたようで、二日酔いなのか頭を割れそうな痛みが襲う。
寝起きのうまく働かない頭で、昨夜の事を思い出しながら辺りを見渡す。
部屋には空のビール缶が机や床に所狭しと置かれた概ねいつも通りの光景が目に映る。
うん。クソ汚い。
広がる汚部屋を眺め、自分のだらしなさに引いていると再び響くような頭痛に襲われた。
けど、お陰で目が覚めてきた。
そうだ。昨日は、助けた子とのお礼のデート中にガラの悪い奴らに絡まれたのだった。
まあそれ自体は問題じゃない。そんな不届き者は軽く小突いて追い払えばいいからな。
しかし、昨日は少しやり過ぎた。
デートを再会しようと振り向いた俺に、見ていた女の子は青ざめた顔で震えて、その場から逃げ去ってしまう。
やっぱ、男でテーブルを叩き割るのはやりすぎたかなぁ……
それから酒を買って、一人寂しい我が家へと帰宅した俺は、嫌な事ごと飲み干して今に至る。
今思い出しても、あの女の子の圧倒的な力で男達をぶっ飛ばした俺を見つめる恐怖で歪んだ顔は、まあまあキツいものがあったなぁ。
それを差っ引いても、良い笑顔をする女の子だったとは思うけどな。
「とりあえず風呂入るか」
靄がかかっていた出来事を思い出してすっきりしたので、そろそろ身体の方もすっきりしたい頃合いだった。
身体が汗やらなんやらで、ベタついて気持ちの悪いことこの上ない。
俺はすぐにシャワーを浴びるため、着ていた衣服を全て脱ぎ。
シャツと今まさに海から上がったばかりの水着のようなトランクスを洗濯機へと放り投げる。
投じられたシャツとトランクスは綺麗な放物線を描き、洗濯機……を通り過ぎて後ろの壁にビタン! と、張り付いてからゆっくりと床に落下。
「はあ、やっぱしょうもない事やるもんじゃねえか」
一糸纏わぬ姿で洗濯機の隣に立ち。拾い上げた衣服を真上から思い切り振りかぶった。
が、今度は投げる直前で踏み止まり。
大切な手紙をポストに入れるような丁重な手つきで、洗濯機の口へとそっと送り出す。
そして浴室に入り、自分の適温で降り注いでくる熱湯の雨を全身で浴びる。
この時間が俺の心と、今日に限っては共に他の”汗以外“も洗い流してくれた。
不快感から解放され脱衣所に出る。
すると、鏡の中に立っている無駄に引き締まった身体つきの黒髪の男と目が合う。
最近、床屋にも行っていないため前髪が伸びてきて鬱陶しい。
左に流れる前髪はわずかにつり上がった目を覆ってしまいそうだ。
真面目な顔すると「怒っているみたい」って、よく言われたっけな。
俺はとりあえず洗面台に置いてあった工作用のはさみで、毛先を数ミリ切って視界の応急処置をしておく。
「まあ、このくらいでいいだろ」
またしばらくの間切る必要が無くなった髪を見てスッキリした気分の俺は、そこである違和感に気づいた。
「ん、あれっ?」
それは……いくら脱衣所を見渡してもタオル以外の布が見当たらないのだ。
どうやら気持ちの良い湯加減で自分を綺麗に洗っている間に、着替えを用意していない事すら忘れてしまっていたらしい。
我ながらアホすぎて、流石に笑えてすらくる。
何故、放り投げた汚れた衣服を拾うよりも先に、着替える為の清潔な衣服を拾って行かなかったのか。
まあそんな過去の自分の失敗をここで責めていても、現在の俺が風邪を引いてしまいそうだからやめておこう。
俺は急いで身体を隅々まで拭き、着替えのあるタンスまでの短い距離を小走りで向かった。
その無様な姿は、起きた時の自分と間違いなく同一人物で。
色んな意味で残念すぎる姿だった。
やはり心の頑固汚れはシャワーの優しい水圧では少しも落とせはしないらしい。
服を着て、今しがた洗濯の終わった敷布団を持ってベランダへ向かう。
室内の有様など嘘のように、空は青く澄み渡り、まばらに漂う雲が日差しを遮っている。
少し離れた公園のある方角からは子供達のはしゃぐ声が届いてきて、灯京の町は今日も平和そのもの。
その声を耳を傾けていると、自分の荒んだ心に針がチクリと刺さるかのような身に覚えのない罪悪感が押し寄せてしまう。
やっぱこの歳で起きてすぐにシミのできていた布団を干すというのは、流石に精神的ダメージの大きい出来事だなぁ。
「はあぁぁぁぁ」
俺は洗濯した布団を掛けたベランダの手すりに肘を置き、一息ついて煙草に火をつける。
それから息を吐いて、ぼーっと口から出ている白い煙を眺めながら、ふと思う。
子供の頃の自分が見たら泣いて嫌がりそうな現在の俺は、あの頃の自分に自慢できる何かを見つけられただろうか?
……いや、これじゃあまだ自慢はできないな。
いつか、愛する人との平凡な暮らしを手に入れるまでは。
ふと頭によぎった漠然とした不安も一本目の煙草を吸い終わる頃には、吐いた煙と共に宙に浮かんで儚く消えた。
そしてもう一本。煙草に火をつけようとした、その時。
「離してっ! だ、誰か助けてぇ!」
眼下の通りから助けを呼ぶ女性の声が、俺の平和な午後に終わりを告げる。
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