信仰とは従属することに非ず
自分の宗教観的なもの
ちょっと宗教関係の人と軽く言葉を交わす機会があって、信じる神が異なると言ったらどんな神を信仰しているのかと問われたので、(その時は一言で言い表せる神ではないと返した)考えてみたが、どもそも私と彼らでは神を信じるという行為の在り方、定義が違うのではないかと思い至った次第である。
私は神の実在を信仰しているが、その神の力、功徳なんかは信仰していない。神とは、人を救ったり罰したりすることはなく、ただ、許しを求めるものに許しを与えたり、精神的な肯定を与えたりする程度の存在である、という立場である。
神とは何をするわけでもなく、人の信仰心を以てそこに存在するものである。ただの岩であれ、創作のキャラクターであれ、何かの道具であれ、実在する人間であれ、それに信仰心を捧げる人間がいれば、そこに神は宿る。それを神と信じる人間がいれば、それは神となる。少なくとも、信仰する人間にとって、それは神である。
そもそもにおいて、私は神を信じてもそれに頼ってはならない、という信条を持っている。神頼みをしてはならない、ということである。神は人を見守り、投げかける言葉を肯定してくれる時がある、という程度のものである。神は人を助けない。神への信仰心、神が己を肯定してくれるという自信が人を支えてくれるのみである。
私の神は人を救うことはない。私を救うこともない。望めば私が救われるだけである、まあそもそも私は神に救いを求めていないのだが。私の神は気まぐれに私に言葉を投げかけるが、そこに意味は無い。私が意味を見出した時にのみ、意味が生まれる。
そうあれかしと望まれるのならば、神は全知全能である。全知全能であるのだから、失敗することもある。何でもできるのであるから、神にとって成功も失敗も等価である。何故なら、成功も失敗もそれを観測した人間の主観が貼り付けたラベルに過ぎないからだ。神にとってそれはただの現象である。そこに意味や価値を見出す人間がいるから、それは成功や失敗になる。
幸福も不幸も、本人の主観に由来する。その人間の善悪は幸不幸に干渉しない。そして、どんな人間にも例外なく幸福になる権利はあるし、他者を不幸にする権利はない。己以外の他者を罰する権利のある人間がいない。虐げられたものであれ、他者を虐げる権利はない。何故なら、どのような人間も、虐げてはならないものだからだ。どのような悪事も、悪事を肯定する理由にはならない。
己で己の悪事を反省し、自罰すること以外に正当な罰はない。他者から与えられる罰は全て、不当な罰である。何故なら、人間は罪に対して真に適当な罰を測ることができないからだ。それは大抵、軽すぎたり、重すぎたりする。悪人であれ、人間は人間である。全ての人間は己の幸福を得る権利があり、そして、他者を害する権利は存在しない。
勿論、神が人を罰することはないのだから、自省しない悪人を神が裁くこともない。悪人が悪人のまま幸福を謳歌することもあるだろう。世界は実際、そのようにできている。
それを不当と思うだろうか?しかし、それを憤るあなたは人を裁く権限を持っていないのである。己の持ちえない顕現を振りかざすことは悪であり、当然あなたも悪人である。普通の人間とは、大抵が程度の差はあれ悪人なのである。そう、だから神は、悪人であれ、肯定を望む人間は肯定してくれる。神は人を差別しない。
神は無責任なものだ。そこにただあるだけのものなのだから、当然である。責任は全て、決断し行動した人間に宿る。行動を唆した存在に責任を委ねるということは、己の意思を放棄するということである。己の意思を持たないものは人間ではなく、人形である。人形は幸福になれるだろうか?まあ、己が幸福だと思うなら幸福であろう。ただ、己の意思を放棄し他者に決断を委ねた上で己の不幸に不平を漏らすのであれば、それはただの怠惰である。決断を委ねたのであれば、その結果を唯々諾々と受け入れるべきだ。それが嫌なら己で決断し、己で責任を持たなければならない。
私は神の存在を信仰している。私は、神の救いや罰を信仰しない。それは、矛盾したことではないと、少なくとも、私は考えている。私の信仰心の宿る、やさしく、賑やかな神様たちは、ただ、そこに在るだけで意味のあるものである。神が私に与える気付きは、気まぐれに与えられる戯れのようなもので、それを活用するかしないか、どう使うかは私の意思に委ねられている。何故なら、神は私が望めば全てを肯定してくれるからである。勿論、否定を望めば、否定もしてくれる。