第三十一話 崩壊の始まり
いつもと変わらない夕暮れの街、なんの変哲もない日常がみんな続くと思っていた。
だが日常は、ひどく不安定であっけなく崩れてしまうものであると知るだろう。
非日常は、どこから始まったわからないだが終わりの始まりが幕を開けたのは、間違いなくこの時、始まった。
夕暮れ時、街の中央通りは、無数の人間達であふれていた。
買い物や仕事帰りなど理由は、様々であるが誰もが穏やかな営みを送っていた。
すぐ近くに絶望がいることにも気が付くことなく。
一人の幼い少年が母親に連れられ、買い物をしていた。
夕食の献立について楽し気に話す様子は、周りからは微笑ましく見えたことだろう。
出店で野菜を売る男も、二人の様子を見て頬を緩ませていた。
「おじさん、これください」
少年が野菜を指さしながら、男に言った。
「銅貨三枚だよ」
男から値段を聞くと、少年は母親から銅貨を受けとり、それを男に手渡した。
「はい、どうぞ」
「はい、まいど……うあぁぁぁぁぁ」
男は急に叫び出した。
周りの人間達も何事かと一斉に振り返る。
男の様子を見ると、男は胸から血を流しながら倒れていた。
そして、男の前には、血の付いた刃物を持った少年がいた。
言葉にすれば簡単な出来事である。
幼い少年が男に銅貨を渡すふりをして、出店の主人を刃物で刺した。
直ぐにでも衛兵を呼び、刺された男の手当てをするべきだが、実際にその場面に出くわした人間達には、冷静な判断をすることができなかった。
なぜなら、刃物を持った幼い少年が次々に近くの人間達を襲っていったからだ。
「いやぁぁぁぁ」
「や、やめろぉぉ」
緋色に瞳を染めた少年を取り抑えようと、男たちが少年を取り囲み捕まえようとする。
だが、背後から少年の母親が同じく瞳を緋色に染め、男たちを包丁で刺していく。
「何が起こってるんだ?」
「男が刺されたらしいぞ」
「刺したのは、小さな男の子ですって」
通りでの騒ぎは、すぐに伝播し、人間達を混乱の渦に落としていく。
そして、混乱を加速させる様に事件は次々起こっていく。
「おい、どうした?」
「女が冒険者に刺されたらしいぞ」
「衛兵が子供を斬り殺したって——」
「向こうの家が火事に——」
「ま、魔物が街に——」
混乱は瞬く間に街全体に広がり、人間達から平穏を奪い壊していった。
夕暮れに染まる街は真っ赤に染まり、瞳を緋色に染めた人間達や魔物達が人間を襲う。
街のあちらこちらで火の手があがり、悲鳴や怒号が飛び交う。
獣たちは、人間達の臓腑を引きずり出し、隷属化された人間達は獣の如く人間を喰らう。
街が地獄と化すまでそれほど時間はかからなかった。
緋色の瞳を持つ者たちが起こした惨劇に人間達は、みなパニックに陥った。
ある者は、家の隅で蹲るように身を隠し、またある者は、緋色の瞳を持つ者に戦いを挑む。
中には、錯乱し周りの人間にも所かまわず襲いかかる者までいた。
地獄と化した街の中、私達は街の騒動に紛れる様に貴族の屋敷に向かった。
魔物達を陽動に混乱に乗じ少しでも貴族の隙ができるように緋色に染まった街の中を駆ける。
貴族の屋敷は街の中央にあり、そこへ通じる道は一つしかない。
屋敷の周りは城壁と同じ様に高い壁と結界で守られ、容易に突破することはできない。
唯一の入り口である門には、当然の如く貴族の私兵たちが門番をしている。
だが、街が炎で包まれ、住人たちが死闘をしている今なら話は違うであろう。
貴族はおそらく、自分の私兵を街へ送り出し、事態の鎮静化に向かうはずだと私達は考えたのだ。
私兵とは、街の治安を守る衛兵とは別の貴族個人の兵隊である。
貴族ほど強くはないが、それでも脅威となりえる者たちである。
私達は、もぬけの殻と化した屋敷に侵入し、貴族を殺し、囚われている者たちを開放する。
これが今、私達がやるべきことで達成しなくてはいけないことである。
私達は、燃え上がる街を背に屋敷への道を駆けあがっていく。
そして貴族の屋敷へ続く城門が見えてきた。
予想した通り私兵達の姿は見当たらず、門は閉ざされているだけであった。
「ノアお願い」
「任せて『水晶の杭』」
ノアの魔法で生み出された水晶の杭が閉ざされた門に轟音と共に激突し貫いた。
杭は門に大きな穴を開け勢い絶やさず地面にめり込み砕けた。
辺りは砂ぼこりで覆われ視界を塞ぐ。
「二人とも行くよ——」
私達は大穴の開いた門から屋敷に侵入した。
砂ぼこりが徐々に落ち着き、視界がはっきりしてくる。
そして目の前に現れたのは、大きな屋敷の庭と二十人以上の私兵達であった。
「貴様らだな。我らが主ドレファス様に刃を向ける不届き者たちは。生憎だが貴様らは、ここで始末させてもらう。主の手を煩わせるまでもない」
私兵達は各々が武器を構え、斬りかかるタイミングを計っている。
「チッ……なんでここに私兵が——」
私は刀を抜こうと手をかけた。しかし——。
「ここは任せて。私一人で十分。先に行って」
「ノ、ノアあなた一人でこの人数は……」
ルナはノアに一人では無茶だというかの様に、ノアを止めようとした。
私もノアを止めようとして、やめた。
「ノア……任せるからね」
「任せて」
「ア、アリス正気なの!この人数は流石に——」
私はルナの言葉を途中で遮る様に『不可視の新月』を使った。
魔法で私達の身体は空間に溶ける様に消えていった。
「逃すか。『火球』」
私達が先ほどまでいた場所に私兵の一人が魔法を飛ばしてきた。
「させない」
ノアは右手を一振りし、水晶の壁を生み出し、火の球を防ぐ。
「あなた達は私が殺す」
戦闘を開始したノアを背に私達は屋敷へ向かった。
『ルナ行くよ!』
『でも、ノアが一人じゃ死んじゃ——』
『死なない。絶対死なない!』
正直、あの人数差に対してノアが無事で済む可能性は低い。
しかし、ノアは一人でいいと言った。
それが私達を先に行かせるための強がりだということくらい、簡単にわかる。
背後で聞こえる轟音に思わず引き返そうとしてしまう。
『アリス私やっぱり——』
『ルナは屋敷の中の人間を殺して。私は真っ直ぐ地下室に向かうから——』
涙目に訴えてくるルナの懇願を私は跳ね返す様に指示をだした。
私の指示にルナは、何も言わずにその場に立ち尽くしていた。
『ルナ?』
『……アリスはノアが死んでもいいの?心配じゃないの?』
ルナはノアが死ぬ光景を想像したのか悲痛な表情で再度私に訴える。
ノアを助けに行こう。三人で戦おうと。
しかし、私達の魔力も体力も有限である。
こんなところで消費していたら、勝ち目の薄い貴族との戦いが余計に勝ちの目を潰してしまう。
ノアは、そこまで判断した上で自分が残るのが最善と考え後を私達に託した。
ルナも理解していないわけでもない。ただ一人で戦うノアが心配なのだ。
私だって胸が張り裂けそうなくらい心配で助けに行きたくて仕方がない。
私は後ろを振り向くことなく、言葉を紡ぐ。
『死んで欲しくないし、心配だよ。でもノアは一人でいいって言ったんだよ。私達のために……無謀だと私も思う』
『だったら今からでも助けに——』
私は自分自身に言い聞かせるように言った。
『行かないよ。ノアにあそこは任せたの。ノアが責任を持って、文字通り命を賭して、覚悟を決めて、ノアは戦っている。だから私達は先に行かないといけないの。仲間が体張って先に行かせてくれた道なのに引き返せるわけない。私達は前だけ見て走るしかないんだよ』
私の頬からも雫が零れる。
『……アリス……ごめんなさい』
ルナはアリスの涙を見て、自分の至らなさを謝罪した。
アリスがノアのことを心配ないはずがない。
自分以上に心配しながら、アリスは必死に助けに行くことを堪えている。
ノアの考えは理解してはいたが、感情のまま言葉をぶつけた自分が恥ずかしくなった。
アリスは、そんなルナの感情を見透かしたように優しく手を引く。
『それじゃあ。ルナ行こう』
『わかったわ』
私達は屋敷の庭を駆け屋敷のドアを蹴破った。
『それじゃあルナ任せたからね』
『ええ。任せて頂戴。アリスも任せたからね』
『うん。任された』
私達はそれぞれの目的地に向かっていった。
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