緊張
10分ほど歩きビビりが指差したのは、3階建の集合住宅だった。
駅から近く、綺麗な外観の割りには家賃が手頃らしい。
外の階段を上り、3階の角部屋に行くと鍵を取り出してドアを開けた。
「狭いけど、どうぞ。」
部屋に入るよう促す。
外で待っているとは言えず、好奇心も相まって入ることにした。
「お邪魔します。」
玄関で靴を脱ぎ小声で言う。
「はいはーい。」
気楽なものだ。
廊下の右側にキッチン、冷蔵庫の上に電子レンジ、左側に手前から順に洗濯機、風呂、トイレ。
曇りガラスが張られたドアを抜けると、大きな窓があり水色のカーテンが引いてあった。
後ろを見る。ドアの隣に白いウォークインクローゼット。
クローゼットを背にして、左の壁沿いに目線を1周させる。
洋服箪笥、2人用ソファー、ベッド、エアコン、先ほどの窓。
テーブルにキャスター付きの椅子、掛け時計、本棚、小さな出窓、その下にテレビとDVDレコーダー、スタンドミラー。
そして部屋の中央にはローテーブルと座布団が敷いてある。
良く言えばシンプル。悪く言えば女らしくない。
「女の部屋に入るのは初めて?」
箪笥から洋服を出しながら尋ねた。
「ん?ああ……。」
返事もならない受け答えをしてしまう。
姉の部屋には何度も踏み入れたことがあるが、服と本、書類で散らかっていて比較にもならない。
よいしょ とビビりは俺の目の前で服を脱ごうとした。
「何してんだよ!」
「何って着替えるんだけど?」
「お前女だろ!」
「女って認めてくれるんだー。心配しないで。自分の弟より年下の男を襲ったりしないから。」
からかうように言う。
「当たり前だ!いいから廊下で着替えろよ!」
「ふふん。ついでに軽くシャワー浴びてくるね。適当に座って待ってて。」
ドアを開けて浴室に入ったようだ。
年上の余裕というやつか?ムカつく。
こっちだって姉より年上の女を女として見れねぇよ。
そこまで時間はかからないだろうからスマホは見ないようにしよう。
床に敷いてある座布団に座り、さらに部屋の周りを見渡した。
ホコリ1つなく掃除されている。
綺麗好きなのか?
視界の端に本棚があった。
どんな本を読むんだろう という軽い気持ちだった。
歩を進め、並んだ背表紙を辿っていく。
これ面白かった、これはまだ読んでいないから貸してくれるだろうかなど、様々な思いを巡らせている中、ある本に目が止まった。
え?
嘘だろ?
ガチャッという音と共にビビりが入ってきた。
無地の紺色のシャツを着ている。
「おまたせ。今日で3回目だけど。」
俺が言わんとしていることがわかっているようで微笑んでいる。
「見た?見たよね?」
本棚の前で身をかがめ、その本を手に取った。
「ゴメンねー。『無性愛の研究』だなんてビックリしちゃうよねー。」
隠すわけでもなく、いつもの調子だ。
「大丈夫。言うから。」
廊下からお茶のペットボトルを2本持ってきて、そのうちの1本を俺に渡した。
2人が座布団に座り、沈黙が流れる。
するとビビりは堰を切ったように話し始めた。
「私ね、人を恋愛で好きになれないんだ。
学生のころから女の子は男の子に告白したり、バレンタインデーにチョコレートをあげたり。
今日あなたと一緒にいて、『カッコいい』とか聞こえたけど、最近じゃそういうの『胸キュン』っていうんでしょ?
そういうのがわからないの。
そりゃ、家族は大事だし、テレビや漫画で好みの男性や女性がいれば『いいな。』と思う。
だけどね、それだけ。
他の女の子が言うように、好きな人に触れたいとか抱かれたいとか本当にわからない。
高校卒業したあと、こっちに引っ越してたくさんの人と友だちになったけど、やっぱりその先に進めなくて。
ゴメンね。こんな話して。
いずれ恋に落ちて、結婚して、身体を重ねて、子どもを産んで、見守られながら人生を終えられたらどんなに幸せだろう。
あの日、歩道橋で『生きていても楽しくない』ってぐるぐる考えていて、気づいたらあんなことしちゃっていたの。
本当にゴメンね。
でも、あなたと会って希望は捨てたくないって思えたんだ。
『今は』恋愛できないだけで、『これからもしかしたら』できるかもしれない。
だから、こんな変な私だけど友だちでいてほしいんだ。ダメかな?」
答えは決まっていた。
「驚いていないと言えば嘘になるけれど、お前はお前だろ?だから変なんかじゃない。」
彼女はホッとした表情をした。
「最近ホームページで私と同じ境遇の人が集まるサークルで意見交換したりしている。悩んでいるのは自分だけじゃないんだって安心したよ。」
「恋愛するのは多数派だけれど、こっち側から見れば男と女が一緒になった。それだけのこと。幸せのものさしは自分でしか測れないんだ。」
「今、自分で良いこと言ったって思ったでしょ。」
「うるせぇ。」
「で?友だちになってくれるの?なってくれないの?」
「そりゃあ、こうだろ。」
彼女に手を差し伸べた。
「素直じゃないなぁ。さすが悪魔。」
「悪魔じゃねぇ!」
俺たちは初めて握手をした。
彼女の手は冷たく、震えていた。
怖かっただろうな。
「アカシくん、ありがとう……!」
ビビり、いや、ゆりは涙を流しながら、今までで1番の笑顔を俺に向けた。