【1-3】邂逅と期待 あるいは フィンガーシェイクとポジティブシンカー
「あれ?」
気がつくと、僕は一人だった。
黒い書物から目を上げると、そこには誰もいなかった。
「吉田くん? 麻央?」
つい先刻までそこにいて、二人の息遣いさえはっきりと思い出せる。間違いなく二人は僕の部屋で、並んで本を読んでいたはずなのに。二人がいたはずの場所には、黒い影のようなものが漂っているのみで、そこには誰もいなかった。
「なんだよこれ」
おかしいのはそれだけではない。空気が重苦しく、澱んでいた。閉め切られた窓のせいではない。息をしても肺に空気が届かないような、奇妙な息苦しさだった。なんだか全身を虫が這いずり回るような嫌な感覚に、全身の毛が逆立った。
部屋から出よう。嫌な悪寒に身体が震える。なんだかわからないけど、ここから離れなければ。
焦りと恐怖で震える足に気合を込め、僕は出口へ向けて足を踏み出した。
「……え?」
しかし、その足が地面につくことは無かった。
僕の足は床があるはずの空間を踏み抜き、真っ黒に澱んだタールのような空間に飲み込まれていた。
「え? え?」
何が起きたのかわからなかった。真っ黒なその空間は、次の瞬間には僕の視界いっぱいに広がっていた。身体ごと飲み込まれたのだと理解するのに、数瞬かかった。
暗い。真っ暗だ。闇の中を、ただ落ちていく。つい先刻まで談笑していた僕の部屋が、どんどん小さく遠くなっていく。
ふと、耳に幼い吐息がかかった。甘い香りに脳が痺れる。振り返ると、見知らぬ少女が嗤っていた。少女の両目には眼球が無かった。
「なんだ……? 一体何がどうなって……」
少女は真っ黒な眼孔を歪ませ、その人形のような顔を近づけた。
「あなたはかぎ。わたしとせかいをつなぐかぎ」
そう言って少女は消えた。真っ黒な虚空へ溶けていった。
「何だ。何なんだよ……!」
僕はただ落ちていく。暗闇の底へと、ただ真っ直ぐに。頭上で輝く日常が、なぜだか酷く懐かしく思えた。
夢を見た。何だか酷くはっきりした夢だった。
僕の目の前には少女がいる。
少女は笑い、僕もつられて笑う。
少女はその金糸のような髪を揺らし、透き通った晴天の海を思わせる瞳で僕を見つめる。
少女はなぜか服を着ていなくて、僕は目のやり場に困っている。
「本当にいいの?」
僕は頷く。
少女は嬉しそうに顔をほころばせると、一歩ずつ僕に近づいてくる。少しだけ開いた口元からは、残酷なほどに尖った牙が顔を出していた。
「いただきまぁす」
少女が僕の腕をとり、口を開く。次の瞬間には、陶器のように白く美しい歯が僕の肌を食い破っていた。
ちぎり取られた肉と腕の間から生臭さと共に真っ赤な血が流れ落ちる。少女はそれを美味しそうに啜ると、うっとりとした表情で僕を見つめた。
痛みは無かった。それどころか、僕は不思議と幸せな気分で貪られる腕をただ眺めていた。
「おいしい。おいしいよぉ」
少女の声は震えていた。露出した腕の骨に液体が垂れる。それが彼女の涙であると、僕にはすぐにわかったが、何故彼女が泣いているのかは理解できなかった。
「泣かないで。ほら、いい子だから」
「うん……、うん」
赤ん坊をあやすように、少女の頭を撫でてやる。彼女は時々しゃくりあげながら、それでも僕の腕を食べるのをやめようとはしなかった。
「いい子……。いい子……」
だんだんと意識が薄くなっていく。足元を見ると、僕から流れ出たのであろう血の池が光を反射してキラキラと輝いていた。
「いい子……。大丈夫だから。僕なら、大丈夫だから……」
肉や血と共に、目には見えない何かが身体から流れていくような感覚。僕は夢見心地でそんな感覚に身を委ねた。
少女の咀嚼音を聞きながら、僕の意識は深い闇の底へと落ちていったーー。
@@@
突然、目が覚めた。同時に黴くさいような、泥臭いような臭いが鼻をつく。
「ーーっ!」
咄嗟に腕に手をやった。腕は、きちんと付いていた。痛みも、傷が付いている様子もない。僕はホッと息を吐いた。
妙に現実感のある夢だった。痛みは感じなかったが、僕の腕の咀嚼音や、少女の頭の感触や、真っ赤に吹き出した血の色は、はっきりと頭に焼き付いている。それが現実ではないことに心の底から安堵しつつも、その生々しい感覚を拭いきれずにいた。
僕は震える腕に力を込めて立ち上がった。すると、ガサガサと身体に何かがぶつかる。
「……葉っぱ?」
音の正体は何かの葉だった。何故葉っぱ?
「え? ていうか、ここどこ?」
そこで僕は初めて自分が見知らぬ土地に倒れていることに気がついた。自分の部屋ではない。まして近所でもない。
立ち上がり、辺りを見渡すと、薄紫色の靄がかかった視界の中に、無数の古木が目に映った。老婆のようにぐねぐねと折れ曲がった幹から、蛇と見紛う数本の白い枝が伸びている。生い茂るというほど密に葉は付いておらず、これらの木々が死んでいるのか生きているのかの区別もつかなかった。
後ろを振り向いても、やはり同じような古木がまばらに見えるのみで、人家などは全く見当たらない。
今、何時だろう。空を見上げると、どんよりと重苦しい雲が遠くに見える山の向こうまで伸びていた。夜ではないようだが、朝か昼か夕方かの区別はつかない。
「マジかよ。なんなんだよこれ」
僕は震える手で携帯を取り出した。
「は? なんだよ。なんでつかないんだ……!?」
しかしたっぷりと充電をしていたはずの携帯は、圏外どころか電源すら入らず、僕の引きつった顔をその暗い画面に映すのみだ。
途方に暮れるというのはこういうことなんだろう。いったい何をすべきなのか全く分からない。
まずは状況把握だ。そう思ってみるものの、自室にいたはずが気がついたら見知らぬ山林の中にいるなんて、こんな状況を受け入れられる気がしない。
僕はとりあえず辺りを歩いてみることにした。遭難した時はあまり動かない方がいいとも聞くが(そもそも遭難するようなことはしてないから気分的に除外したいし)、とてもじっとしてなどいられない。少しでも情報が欲しかった。
地面は枯葉や苔で埋め尽くされており、背の高い草は無いものの、気をつけて歩かなければ滑ってしまいそうだ。視界を遮るものは枯れかけた古木以外には無いが、それでも視界はいいとは言えない。どこからともなく漂ってくる霧が遠くの景色を薄めていた。
何も考えずに歩いていたら迷子になるかもしれない。そう思って何か目印を置いておこうかとも思ったが、そもそもが迷子のようなものだと気付き、そのまま歩くことにした。
「しかし……」
しかし、一体ここはどこなんだろうか。
一見すると、どこかの田舎の森の中という気がしないでもない。だが、その説明ではとても拭えない違和感がそこかしこに感じられた。
まず、先ほどからやたらと視界に入る、古木だ。
僕は木の種類なんて全く詳しくないが、それでもこんな木を今まで見たことがあっただろうか。幹は捻れ、枝は変形し、まるで前衛芸術家の描いた風景画のようだ。葉は葉脈が血管のように脈打ち、風もないのにドクドクと上下に揺れている。試しに一枚取ってみようと葉に触ると、木そのものに体温でもあるかのように、ほんのりと温かかった。そしてその葉の頑丈なことといったら、腕で引っ張るぐらいでは到底千切れず、全体重をかけてようやく葉の先っぽが剥がれた程だ。千切れた部分からは血液を思わせる赤黒い液体がこぼれ落ち、真っ白な樹体を赤い筋が汚していった。
そしてこの霧だ。
乳白色の濃い霧であれば僕も何度も目にしている。しかし、今僕の周りに漂っているこれには明らかに色が付いていて、僕の視界を薄紫色に染めている。そして不思議なことに霧の濃淡は場所によってコロコロ変わり、しばらく歩いて気がついたことは、霧の濃い場所では木や葉などの密度も高くなっているということだった。もしかしたら、霧はこの木が発しているのかもしれない。
そんなことを考えつつ変わらない景色の中を歩いていると、小さい、か細い、音のようなものが聞こえた。
「…………!」
「? 何だ?」
立ち止まり、耳をすませてみる。
「……て……!」
確かに聞こえる。
小さいが、確かに、これは誰かの声だ。僕は声のする方へ、必死に意識を集中させた。
声はすぐ先、進行方向から聞こえてくるようだった。
「助かったのか……?」
誰かいるならば、ここがどこだかわかるだろう。ほっとしたやら、ワケがわからないやら。僕は自然と息を吐いた。
とにかく、早く探し出そう。そうすれば何かしらの進展はあるはずだ。僕はそう判断して足を動かす。
「……れか……て……!」
進むにつれ、だんだんと声は大きく、聞き取りやすくなっていく。はやる気持ちを抑えつつ、転ばないように、しかし急いで声の主を探した。
「おーい! どこですか!? どこにいますか!?」
声を上げながら歩いていくと、こちらの声が聞こえたのか、一層大きな声が響いた。
「ここ! ここよ! 降ろして! 誰かここから降ろして!」
誰かの助けを求める声が聞こえる。同時に、何かもがくような衣摺れの音も聞こえてきた。
もうすぐそこ、その木の裏だ。
「もう! 何なのよ! 早く、誰でもいいから助けてよ!」
「今行きます!」
僕は急いで木の裏へ回り込んだ。そして、絶句した。
僕は誰かが木に登って降りられなくなっているとか、何者かによって木に吊るされているとか、そんな光景を思い浮かべていた。
そしてその想像は間違ってはいなかった。確かに人が木に吊るされている。
ビニール袋程度の大きさの網に包まって、だが。
「ああ! やっと誰か来てくれた! そこのあなた! お願い、わたしを助けて!」
手のひらに乗せられそうなサイズの女の子がきゃーきゃーと喚く。目の錯覚とか、あるいはマボロシとか、そんな感じのものを疑ってみたが、どんなに目を凝らしても、どんなに頭を振ってみても、目の前のミニチュアサイズの女の子は消えることはなかった。
「ちょっと、何よ。そんなにジロジロ見てないで、早く助けてよ」
「あ、ああ。うん。そうだね」
女の子はいかにも不満げに網を揺らした。僕も僕で考えをまとめる前に返事をしてしまったものだから、流されるままに小さな彼女を捕らえている罠に目を向けた。
網は僕にも手の届く低い枝にその先端を括り付けられているのみだった。僕はなるべく網を揺らさないように、慎重に結び目を解いていった。
「あ!」
結び目を解いた瞬間、網はスルスルと僕の手から滑り落ち、地面へと落下した。
しまったと思った。落としてしまうつもりはなかったのに。文句を言われることを覚悟して、僕は視線を下に落とす。
しかし、地面には空っぽの網が転がるばかりで、肝心の彼女がいない。
「あ、あれ?」
おかしいな。そう思ってあたりを見渡すと、不意に、肩に重さを感じた。
「助けてくれてありがとう。あなた、オズマールなの?」
「うわあ!」
突然耳元で声が響く。僕は驚いて反射的に身体を仰け反らせた。
「ひゃん!」
僕の肩に乗っていた何かが不思議な音を発して、地面に落下した。続いて枯れ草と腐葉土が鈍い音を立てる。僕はハッとしてすぐに足元に目をやった。
やはり、落ちていたのは先程のミニチュア少女だ。彼女は腐葉土に頭だけを突っ込み、ピクリとも動かないまま、その小さなお尻を僕に向けて倒れ伏していた。
「ごめん!」
僕は彼女を助けようと手を伸ばし、そして止めた。今更だとは思うけど、これは一体なんだろう? 僕は地面から生えているミニチュア少女の首から下に目を向ける。
真っ白で、純白の雪原を思わせるきめ細やかな肌と、泥の間から覗き見える銀色の髪の毛が何とも魅惑的だ。服装は淡い黄色を基調としたワンピースのようなドレスで、模様っ気はない。丈はやや長めにとってあるのか、無理な体勢でもうまくに身体にフィットしているようだ。やや寸胴で全体的に肉感の薄い身体付きではあるが、手足は見慣れたモノが普通に付いており、背格好に関しては、縮尺さえ合わせれば人間の小学生と大差はない。背中には胴体ほどはあろうかという羽根が二対生えており、ガラスのように透明で、薄い翠色をしている。それ自体が光を発しているかのように、幻想的に薄ぼんやりと輝いていた。
全体的には、羽根の生えた小学生。というか、もっと直接的に妖精という方がしっくりくる。
妖精。……妖精かぁ。
「むぇ、いつまへふつふついっへるの。はやふ、はふへへよ」
妖精(仮)がふがふがとお尻と羽根を動かして、助けを求めている。僕は何も言わずに彼女の足を掴み、引っ張り上げた。
「ぶへあ! あー! 死んじゃうかと思った!」
妖精は服と髪についた泥を払うと、背中の羽根をぷるっと震わせ、宙に舞った。やはり、この羽根は飾りではないらしい。彼女はくるっと空中で一回転すると、僕に目線を向け、ニッと笑った。
「改めて、ありがとう、見知らぬあなた。わたし、マリーベル」
妖精はそう名乗り、右手を差し出してきた。握手のつもりだろうか。僕は少し迷い、右手の人差し指を差し出した。するとマリーベルは嬉しそうに僕の指を両手で掴み、身体ごと上下に動かした。
「まさか泥の中に叩き込まれるとは思ってなかったけど」
マリーベルはハンドシェイク? フィンガーシェイク? ボディシェイク? を終えると、再び僕の肩に腰掛けた。
「あなた、名前は?」
マリーベルはその整った顔を僕に近づけて言った。肩には確かに、彼女の体温が感じられた。
「僕は、湊。相楽田、湊」
「サガラダ・ミナト? ふーん、珍しい名前ね? ニンゲンには珍しくないのかしら?」
彼女は少し思案するように空を仰ぐと、何かを思いついたのか、屈託のない眼差しを僕に向けた。
「ねぇ、ミナト! これも何かの縁だし、しばらくご一緒してもいいかしら?」
「ええ?」
「わたし、生まれたばっかりでこの辺のことよく知らないんだ。さっきみたく罠に引っかかるなんてもうい嫌だし、ミナトといればその心配もないかもでしょ? それに助けてもらったお礼もしたいし」
マリーベルはそこで一旦言葉を区切ると、僕を見つめた。どうやら僕の返答を待っているらしい。
「構わないよ。構わないけど、僕も土地勘はないんだ」
「そうなの?」
マリーベルは不思議そうに僕の顔を覗き込んでいる。僕はそれには何も言わずに、森の奥へ視線を移した。
どこまでも広がる、先の見えない霧と枯木。状況は何も変わっていない。一体ここはどこで、なんで僕はここにいるのだろう。
おかしな夢を見たと思えば、目覚めたら見知らぬ森の中にいて、発見した第一村人は妖精さん。しかもその妖精に同行を申し出られ、僕はどうすればいいのだろう。そしてなんだろう、この感情は。
「わたしはそれでもいいよ。わたしはミナトと一緒に行きたい。ダメ?」
マリーベルは再度、ねだるように僕を見つめた。
不安と、焦りと、恐怖とが交錯し、不可解で不可思議な、危険か安全かもわからない状況に突然放り込まれて、右も左も分からないのに、何故だろう。自然と頬が緩んだ。
自分の知らない世界に迷い込んでしまった。異世界に飛ばされてしまった。それでも僕の心は高鳴り、期待に震えていた。
何を期待していたのかなんてわからない。何をしたいのかもわからない。だけど。
「マリーベル。僕でよければ、もちろん、一緒に行こう」
「ほんと!?」
マリーベルは余程嬉しかったのか、僕の肩から降り、その喜びを宙を飛び回ることで表現した。
「これからよろしくね! ミナト!」
マリーベルの声を聞きながら、僕は異世界での生活について思いを馳せていた。
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