行き場のない矢印
部活も終わり、マネージャーを引き連れて夜道をぞろぞろ歩く集団がいた。
その中には俺もしっかり含まれている。
男子は一人で帰っても自分で何とか出来る。でも女子はそうはいかない。
痴漢、ひったくり、ストーカー。男子よりもそうした悪人に狙われ易く、尚且つ彼らを簡単にはあしらえないのだから。
そういう訳で、毎日俺達部員のために貢献している彼女達を俺達が送り届けるのは、当然のこととも言える。
しかし、そうして連れて歩いているマネージャーの一人、上川月子の姿が横並びの集団の中には全く見当たらなくて、俺は小さく首を傾げた。
確かに、学校を出る時には一団の列の中にいたはずなのに。
彼女は決して目立つタイプではない。華やかさなどがある訳ではない。
けれど不思議なことに、はっきりと存在感のある子なのだ。
もしかしたらそのことで同意を求めても、賛同してくれる人は少ないかもしれない。
しかし、確かに俺にとって、彼女は無視出来ない存在だった。
首を傾げたまま、くるぅりと背後へ視線を転じると、そこには俺より頭一つ二つ分小さい、女子生徒の姿があった。
なんだ、そこにいたのか。
「何してるんだ? 置いてくぞ」
小さな溜息が漏れるのも無理はないだろう?
そう自分を正当化しながら、ためらいもせずに俺は白い息を吐いた。
「あ、神谷くん」
マフラーに口元を包んだ上川の声は、周囲に響き渡ることなく俺と彼女との間でひっそりと消えていく。
前の集団は、そっと列を抜けた俺に気づくこともなくお喋りに興じていた。
これは神がくれたチャンスだ、と思い、遠慮なく彼女との会話を楽しむことにする。
前の集団からは少し間が開いているが、その位の方が話を聞かれたり、余計な横槍を入れられたりする心配がなくていい。
「あ、じゃない。どうしてそんな後ろを歩くんだよ?
後ろに隠れてたら、もし上川に何かあっても、気づいてやれないだろ」
そう言って、彼女の額に小さくデコピンするふりをする。
あくまでふりであって、決して本当にはじく勇気などない。
上手く加減が出来るか自信がないことも理由の一つだ。
それに、彼女の額に触れるには、俺の気持ちの問題により、正直もうしばらく時間がかかりそうなのだ。
「……ん、うん。ちょっとね」
夕闇に慣れた目には、彼女が恥じらいに頬を赤く染めたところも見て取れた。
顔を紅色にしながら言いたくなさそうにされると、下衆かもしれないけれど、つい勘ぐりたくなってしまう。
「……俺には言えないことなのか?」
出来るだけ優しい声色で、探りを入れる。
……まぁ、きっと俺なんかに言える訳ないだろうけど。
でも彼女は、小さく、しかしはっきりとかぶりを振ってこう答えた。
「ううん、そんなことないよ。神谷くんならいいかな……うん」
――…神谷くんならいい。
その一言が持つ破壊力なんて、彼女はこれっぽっちも考えていない。
それがどれだけ俺の心を揺さぶるかなんてお構いなしに、いとも容易く言葉を放り投げてしまうのだ。
彼女の次の一言を待つ俺は、喜びとほんの少しの不安とで胸をざわめかせていた。
そんな俺の様子を知ってか知らずか(いいや、きっと知らない)、彼女は殊更可愛らしく微笑んで、俺の瞳をじっと見上げてみせる。
隣同士で歩いているというのに、うっかり立ち止まりそうになる程の威力を持った微笑だ。
立ち止まって、適当にその辺の木陰に彼女を押し付けて、いけないことをしたくなってしまう。
……落ち着け、まだ俺と彼女とはそんな関係じゃない。
何も始まってはいないし、終わってもいないはず――……
「あのね、遠野くんの影を踏んでたの。――…おまじない」
「おまじない?」
男の俺としてはあまり馴染みの薄い言葉で、つい自然とオウム返ししてしまう。
女の子はおまじないが好きだというのは知っている。
勉強、金銭、美容と、その項目が多岐に渡っているらしいことも周囲の女子の話に聞き耳を立てていれば大体はなんとなく分かる。
中でも取り分け多いのが、
「そ。遠野くんにね、振り向いてもらえたらいいなぁって思って」
――…恋愛のおまじない、だ。
「……好きなのか。遠野のこと」
俺が一瞬言葉に詰まったことなど微塵も気にすることなく、彼女は嬉しそうに笑う。
「うん」
語尾に星マークでも付いていそうな、殊更に明るい声音。
普段はおっとりとしていて控えめな立ち位置を崩さない彼女にしては珍しい。
珍しいものが見られたのは嬉しい。
でもそれが他の男によって生み出されたものならば話は別だ。
例えそれが、俺の最高のライバルである遠野であっても。
遠野に嫉妬しているのを知られたくなくて、彼の話からほんの少し軌道をそらそうと試す。
「でもいいのか? おまじないっていうと普通、人にばらすと効果がなくなるんじゃ……」
それ以上先程の件については問われたくなかったのか、彼女は話にすぐ乗ってくれた。
「うん。でもね、神谷くんなら、見なかったことにしてくれるような気がしたの」
「それって、どういう――…」
不思議がる俺に、彼女は小さく頷いてから言ってのけたのだ。
「簡単に告げ口したり、誰かに話して面白がるような子じゃないんじゃないかな、っていう期待と信頼があるってこと」
軽々しく俺を信用なんてしちゃいけない。
だって俺はついさっき、君にも言えないはしたないことを悶々と考えていたような男なのに。
そう言いたい気持ちも確かにあった。
けれど、それよりも遙かに、期待され信頼されているのだという嬉しさが勝った。
この事実に酔いしれている今の俺には、そんなこの場に水を差すような言動は出来っこなかったのだ。
「……」
それなので、ただひたすらだんまりを決め込むことにする。
困った時は口をつぐむのが一番妥当だ。変なことを言ってしまうより格段にましである。
そうして黙り込む俺を好意的に捉えたのか、彼女は優しげに言葉を紡いでいく。
「神谷くんがそうしてくれれば、このおまじないは誰にもばれなかったことになるでしょ。
そしたらきっと、大丈夫」
漆黒に近い景色の中、ほわほわと浮かんでは消えて行く彼女の吐息の色を眺めながら、俺は必死に彼女以外の何かを頭の中であげつらっていた。
それが彼女に関することでさえなければ何でもよかった。
例えば今日の夕食とか、明日の昼ご飯とか、来月に迫っている定期テストのことだとか。くだらなければくだらない程、いい。
だってそうでもしなければ、俺の緩い口は勝手に開いて、きっと彼女を困らせてしまう。
優しい雰囲気に、声につられてはいけない。
それは俺への好意からくるものではなくて、ただの隣人への親愛からくるものなのだから。
この、綺麗なだけではない感情の渦が彼女を襲わないように、俺はぎこちない笑顔の下で必死にそれをせき止めていた。
暗闇が助けとなって、きっとこのかりそめの笑みも彼女には気づかれることはないだろう。
「大丈夫、か」
ただ苦笑いしか出来ない俺の目に、
「うん」
そう言って笑う彼女が、闇夜を照らす星々のまたたきのように、ささやかだけれど無視出来ない鮮やかさを残していく。
「じゃ、やることも済んだみたいだし、行くぞ」
彼女の肩を一瞬だけ抱いて、そのまま左手一本の力でぐいっと俺の前に突き出し、その背中に両手を置いた。
すると幼い子がよくやる、列車ごっこのような並びになる。
「うわぁ、背中押さないでよー」
そういう彼女の語尾は、何処か楽しげだった。
無邪気な声。無邪気な可愛さ。
無防備に撒き散らされるそれに、また俺は軽く酔う。
細い背を押しながら、これ位はしてもバチは当たらないだろう、と密やかに歩を詰めた。
彼女の分身に、そっと足を乗せた。
そのまま、一歩、二歩、三歩、と続ける。
最後尾に位置しているからだろう。上川の影を俺が踏んでいることなんて、誰も気づいてはいなかった。
――…他ならぬ、彼女自身さえも。
(ほんの少し、少しだけでいいから、俺のことに気づいて)