ロッキングチェア
僕の記憶にある限り、祖母はいつもロッキングチェアに揺られている。
僕は祖母が食事をしているところも、トイレに用を足しに行くところも見たことがない。
必要があるのかないのかわからない眼鏡を鼻に引っ掛け、ふんわりとパーマがかかった白髪を蓄えた頭をもたげて揺られているばかりだ。
特に手を動かすことも、瞬きをすることもない。
ロッキングチェアの揺れだけが彼女の心臓の鼓動のように、生きている証しとして存在しているのだ。
ロッキングチェアが揺れているということは、彼女がこの椅子を揺らしているということだ。
一度揺らせば永遠に揺れ続けるというものではない。
祖母は、僕が目の前に立っている時でさえ、手を動かし合図を送るでもなく、目線を動かして僕を見るでもなく、ただただロッキングチェアを前後に揺らしているのだ。
このことを友人に話したら、彼は非常に驚いた顔をした。
そして、
「君はそれでいいのかい?」
と、不思議そうな顔を僕に向けた。
「それでいいのか」
そんなこと、考えたこともなかった。
僕の家の祖母は常にロッキングチェアに揺られている、それが当たり前だった。
それは、夜が明けると朝が来ることと同じく、当然のこととしてそこにあるものだった。
彼の一言を受けてから、僕は様々な想像をするようになった。
幼少期の僕をあやしてくれる祖母。
笑顔でお話をしてくれる祖母。
怪我をした僕を心配してくれる祖母。
もしかしたら存在したかもしれない僕と祖母の思い出を空想するのは辛かった。
ベッドの上で赤子のように丸まり毛布をいくら噛んでも、流れる涙は止まらなかった。
そして僕は決心した。
――ロッキングチェアの揺れを止める。
なにも、走る自動車を人力で止めろとかそういう話ではない。
ただ老婆が動かす椅子の揺れを止める、それだけだ。
そうして僕は翌朝、祖母のもとへやってきた。
いつものようにロッキングチェアがゆらゆらと揺れている。
朝日が窓から差し込み、僕の何倍も生きたその体を光で温めている。
彫刻刀で掘ったように深く刻み込まれたしわが、その全てに立体感を生みだす。
僕は板張りの床が鳴るのを聞きながら、ゆっくりと祖母の後ろへと周った。
目の前で祖母の頭頂部が前後している。
そして、その後ろにある背もたれを僕が手で押さえれば、この揺れは止まる。
僕は両手を構えた。
心臓の鼓動が強くなる。
脈拍に合わせて指の先がぴくりと動く。
肺の奥底から押し出された息が祖母の髪を揺らす。
それらすべてが魂の存在を主張するかのように僕に訴えかける。
そして
――。
床を鳴らしながら揺れ続ける椅子を前に、僕は床にへたり込んでいた。
結果、僕は椅子を止めることはできなかった。
何よりも魂の存在の主張である、あの揺れる椅子を。
あの瞬間、僕は確かに狂気だった。
もしかしたら刃物を握っていたのかもしれないと、そう思えるほどに気持ちの悪いものが腕にまとわりついていた。
魂に殺しが通用するのなら、僕はその直前にまで足を踏み入れていたのであろう。
全身が鉛をかぶったように重い。
体が平常を取り戻すのを待ってから僕は立ちあがった。
膝についた埃を手で払ってから、祖母のもとを後にした。
途中、振り返って
「ご飯食べてくるから」
と声をかけた。
日の光はまだ、揺れる祖母の体を照らし続けていた。