見知らぬ土地で・2
「さて」
ぽんぽんと頭を軽く叩かれ、見知らぬ人が傍にいたことを思い出した。
「この街は、初めてかい?」
「あ、えっと」
迷った挙句、とりあえず頷いておく。嘘は言っていない。
心細さからハンドバッグを引き寄せて、胸に抱いた。この世界においては、この持ち物だけが柚子の現実を繋ぎ止めるものだ。いつの間にかスカートの裾は汚れて、あちこちが擦り切れている。路地から出る時に何かを掠めたのか、あるいは馬に蹴られそうになった時にやられたのか。
何気なく手を地面に触れさせ、四角い石を敷き詰めてあるのだと分かった。
「何もかもが初めて、という顔だな。まあ、無理もない」
「そ、そんな所です」
「しかし、ここでこうしていてはまた馬車に轢かれてしまうぞ。お嬢さん、俺に付き合ってくれないか?」
「結構です。わたし、一人で歩けますから」
「では、送っていこう」
やっと警戒心が目覚め、じりじりと尻もちをついたまま後ずさる。
それではほとんど後退できない上に、とっても間抜けな格好だ。恥ずかしくなりながら立ち上がろうとすれば、声をかけてきた男が手を差し伸べてきた。
「どうぞ?」
「…………」
「無償の好意は、素直に受け取りなさい」
宥めるような口調に、しぶしぶ手を重ねる。
「わ、わあっ」
「はっはっは! 捕まえた」
ふわっと引っ張り上げられたかと思えば、柚子は知らない男の腕の中にいた。
じたばたと暴れても、相手はびくともしない。それに頭上で弾ける楽しげな笑い声が、悪戯を成功させた子供のようだから、本気で怒る気にもなれない。
「ちょ、放してくださいっ。どうして抱きしめるんですか」
「なあに大したことじゃない。君があんまりにも可憐で、儚くて」
「も、もういいですから!」
「こうして捕まえてみないと、消えてしまいそうだった」
顎に指がかかり、上を向かされた。
ここでようやく柚子は、男の顔をまともに見ることができる。だいたい父と同年代だろうか、とぼんやり思った。額を全開にして、全て後ろに撫でつけた髪はくすんだ金。瞳は青よりも深く、どこか緑がかっていた。だから、濃い色のコートを羽織っているのだろうか。
強い意志を秘めた眼差しは、どうしようもなく惹かれる。
(前世がライオンだって言われたら、信じるかも)
百獣の王、という呼称がとても似合う男だ。自身に満ち溢れ、たてがみのような髪も不思議と似合っている。胸襟を開けたラフな格好だが、粗野な印象は受けない。
見つめられていることに気付いた男は、ニッと笑った。
「惚れたか?」
「違います」
「なんだ、つまらん。俺の魅力は大陸を越えても通じるという、いい証明になると思ったんだがなあ」
呆然とした。
今、この男は「大陸」と言ったか。つまり、ここは過去の日本ですらない。本当にとんでもない場所へ来てしまったんじゃなかろうか。
二度目の眩暈は、倒れる前に支えてもらった。
「ぐぅ」
と聞こえたのは柚子の声ではなく、腹の虫だ。
未だに腕の中にいることと、腹の虫を聞かれたかもしれない恥ずかしさで、思いっきり腕を突っ張る。力で敵わないことはとうに承知の上だが、公衆の面前でいつまでもくっついていられるほど神経は太くない。
「もう、放してっ」
「ちょうどいい時間だ。そこに俺の行きつけの店がある。と、その前にお嬢さんの服も何とかしないといけないな」
「アレックス様、そろそろ戻りませんと」
柚子は羞恥で頭が沸騰するかと思った。
(そういえば、この人最初からいたー!!)
それならもっと前に口出してくれとか、むしろ軟派男を引っぺがしてほしいとか、口を挟むなら他に適した表現があるだろうとか言いたいことは山ほど浮かんだが、結局言えなかった。
アレックス様は従者らしき若者に、こう仰った。
「見知らぬ女性を放っておけと? 冗談じゃない。紳士としても、人間としても、道理に悖る行為だ。俺は彼女の服を用意し、共に食事をする義務がある」
「遠慮します。固持します」
「ほら、見ろ。レノが怖い顔をして睨むから、怯えきっているじゃないか」
分かった、この男は頭がおかしいのだ。
一応は助けてもらった恩がある。あまり悪く言うのは気が咎めるので我慢していたが、柚子もいい加減に頭がおかしくなってきた。見知らぬ世界の見知らぬ大通りで、見知らぬ男にずーっと抱きしめられても平然としていられる人間がいたら、是非お目にかかりたい。
(そうだ、気絶しよう)
柚子は手っ取り早く、現実からダッシュで逃げ出すことにした。