内紛勃発・2
「縄、痛くない?」
「ちょっと面倒なことになっててな。まだ外してやれないんだ、悪い」
そう言って傍についてくれるのは、ユリウスとエンゲルヘイトだ。
王女の護衛として何度か顔を合わせているので、初対面というわけではない。だが、ちゃんと言葉を交わしたのはこれが初めてだった。ユリウスが申し訳なさそうに言うと、やんちゃ坊主が抜けきっていないエンゲルヘイトも気遣う素振りを見せる。どちらも優しい性格をしているのだろう。
不安と緊張も少しだけ解れる。
「あの」
「なんだい」
「面倒なことって、何ですか?」
思いきって訊ねると、二人は顔を見合わせる。
プライムは他の騎士を連れて、どこかへ行ってしまった。王女所有の部屋と医療室、それ以外は牢獄しか知らない柚子には、この部屋がどんな用途なのかが分からない。ベッドがなくて、ソファやテーブルがあるということは応接室か何かだろうか。
座らされた椅子も、かなり上質の生地が使われている。
調度品の価値はともかく、騎士団が詰めるような部屋ではないのも確かだ。そして最も気になるのは、外が何やら騒がしいということだった。声も近かったり、遠かったり、怒鳴り声に悲鳴が入り混じって不穏極まりない。
嫌な予感しか、しなかった。
「王女……さま、は無事なんですか?」
「クラインが一緒のはずだし、殿下も相当な使い手だからね。まあ、命の心配はしなくていいと思うよ」
「心配するなら、相手の方だな」
「エンゲルヘイト……」
「んだよ、おかしなこと言ってないぞ」
「そういう問題じゃないよ。全く」
やれやれとユリウスが溜息を吐き、よく分からないといった風でエンゲルヘイトが首を捻る。彼らもまた幼馴染か何かかもしれない。たわいないやり取りに親密さが窺える。
ほのぼのとした雰囲気は、長く続かなかった。
扉が開いて、王子が顔を見せたのである。しかも彼一人で来たらしく、思わず身構えたユリウスたちも拍子抜けした模様だ。
「ミリィ! 良かった、無事だったんだ」
「マルセル様」
目が合うと顔を輝かせ、そのまま抱きついてくる。王子と会うのは『王女』の時だけだったので、戸惑う柚子はされるがままだ。
「どうして、縄が」
「あ、いや…………それは」
「お前たち」
今日はよくよく、人が変わる様を見る日だ。
縛られた両手は前向きだったため、王子にあっさり見つかってしまった。流麗な眉をしかめた後で、このひんやりした声音だ。あの姉にして、この弟ありと思うべきか。まだ幼い少年だと思っていたのが軽く裏切られてショックだと思うべきか。
「この人の縄を解け」
「し、しかし」
「ぼくの命令が聞けないの?」
「マルセル様、これは理由があるみたいで」
「どんな理由があっても、大事な君を傷つけるのは我慢できないよ。こんなことをされて辛いよね、すぐに自由にしてあげるから」
話が通じない。
ユリウスが先に動いて、柚子の縄を丁寧に解いてくれた。痛みはなかったのに、ちょっとだけ赤くなっている。王子はまた眉を寄せ、無造作に片腕を振るった。
縄を解くために膝をついていたユリウスが、そのまま横倒しに転がる。
「ユリウス!」
「だ、いじょうぶだ……」
「やめてください。何でこんなことをするんですかっ」
「なんで? 理由はさっき言ったよ?」
王子はとても不思議そうに、首を傾げる。
かつて天使のようだと思った通りに、今も同じ印象を抱く。しかし同時に、恐れもあった。柚子が「やめてほしい」と言ったことを、本気で不思議がっているのだ。
(まだ子供なのに)
王子は頭が良いのだと、あちこちで聞いた。
帝王学を始めとした難しい学問も、教育係が舌を巻くほどだとか。どんな内容かは想像もつかないし、噂には尾ひれがつきものだ。それでもマルセル王子が凡庸でないことは、さすがに分かる。背伸びしているというか、年相応ではないのだ。
無理をしている、とも思えない。
王族だから、育ち方が違うのかもと納得させていた。それでもこれは違うと分かる。正しいかそうでないかは置いておいても、柚子自身が嫌だ。
ぱん、と乾いた音がした。
「え」
「な……」
「わたしはマルセル様を叩きました。でも、謝りません」
呆然とする王子を正面から見つめた。
なんだか泣きそうな気分だが、必死に堪える。涙を流したところで、この子供に伝わることはひどく少ない。分かってほしいのは、伝わってほしいと願うのは、一言でまとめられるようなものではない。
それでも言わなければならない。
「わたしは、説明しようとしましたよね。縄をかけるほどの理由があったんです。マルセル様が嫌な思いをしたのは申し訳ないですけど、一方的に殴るのは駄目です」
「だ、だって」
「言い訳しない」
「……う」
しょんぼりとする王子に向かって、厳しい顔を努める。
本当は抱きしめたくてたまらないのだが、うやむやにするのはいけないと教わった。叱り方は祖母の仕草を思い出して、正座をする代わりに膝へ両手を揃えた。
「マルセル様」
「うん」
「マルセル様は王子です。王族なので、偉いです。だから、何をしてもいい……ってことはありません。王族だからこそ、ちゃんと筋を通すべきだと思います。自分の感情だけで、一方的な意見だけで判断していたら、いつか大事なものを失ってしまうかもしれません」
最初の言葉でぱあっと顔を明るくした王子は、柚子が続けていくうちにどんどん頭を垂れていった。今まで誰にも、こんな風に怒られたことはなかった。腹が立って、不満が募って、ついには「無礼者」と叩かれるかもしれない。
その覚悟をしながら、柚子は真剣に言葉を考えた。
「わたし、この城に来てから時間もそう経っていないですけど…………マルセル様を褒める言葉を、いっぱい聞きました。次の王様として、期待されているんです。だからマルセル様、誰かに優しく出来る王様になってください。限られた人じゃなくて、もっとたくさんの人を大切にできる人になってください」
「ミリィのことは、大切にするよ?」
「わたし以外の人もです」
「…………母様とか……」
「全然足りません。マルセル様は王様になるんですよ」
「うん、だから偉いんだ」
分かってない。
何のためにミリエランダがあんなに頑張っているのか、この子供は知らないのだ。柚子も直接そういったことを話してもらったわけではない。それでも言えることくらいはある。これでも普通の国民だったから、願うことは同じはず。
「偉い人はどうして偉いか知ってますか」
王子は瞬きをして、すぐに答えた。
「えっと、偉いから?」
「答えになっていません。問いかけと答えが同じであるのは、ちょっと変だと思いませんか」
「うん」
まだ納得していないが、柚子の言うことを理解しようとしている。
子供だからこその柔軟さが、今はありがたい。それに好意を持ってくれている分、できるだけ素直に受け止めようとしているのだ。つい嬉しくなって、表情を少しだけ緩めた。
「偉い人は、偉い分だけたくさんのことができます。たくさんのことができるというのは、その分だけ多くの人に影響を与えるということです。多くの人に影響を与えるというのは、一つ間違えれば……」
一つの死が、多くの国を滅ぼした。
本当に竜が王女を殺したのか、別の理由があったのか。それを知る術はない。だが、誰かが言い伝えとして残していたらどうだろう。二つの塔に何があるのかを記す文献はないが、カーラたちが口を閉ざす理由はどこかにある。
レノ執政官は、塔にまつわる何かを知っていたのではないか。
「ミリィ?」
「…………たくさんの人が、死ぬんです」
竜は、どうして怒った。
王女の死が、竜の所為ではなかったからではないのか。
親しくしていた人々が竜を悪者扱いしたから、怒りを抑えきれなくなったのではないのか。人間である柚子が想像するだけでも哀しくて、辛い。竜はどれほどの怒りを持て余しただろう。
「どうして泣いてるの、ミリィ。何が哀しいの?」
泣いているのは竜だ。
哀しいのは、アークドラゴンと呼ばれていた孤独な竜だ。
「ぼく、ちゃんと考えるよ。もう誰かを殴ったりしない。傷つけない。だからミリィ、泣かないで。頑張って父様みたいに、いい王様になるから」
「は、い」
まだ成長過程の腕をいっぱいに伸ばして、涙が止まらない柚子を包もうとする。長さが足りなくて、ほとんど抱きついているようなものだったが。
彼らしい優しさに、また涙がこぼれた。