託されたもの・1
食事のにおいだ。
柚子は軋む体に無理をかけないよう、時間をかけて体を起こした。
木製の台に毛布を重ねただけの簡易ベッドだが、石の床で寝るよりはずっと居心地が良い。食事は一日に二回、メニューは代わり映えしないパンとスープの二種類だけ。元の世界では考えられない生活だ。
こうなると分かっていたら、祖父から届いた手紙を開封しなかっただろう。
かといって捨てるわけにもいかないので、机の奥へしまい込んでいたに違いない。怪我の治療だって、学校にいる保健医よりひどい。臭いし、痛いし、治りも遅い。相変わらず時間の経過が分からないので、もう長いこと牢獄にいるような気がしていた。
「しょ食事、食べられる? か」
「ありがとう」
「い、いや」
鍵マニアの牢番は喋り方が独特だ。独り言は普通で、鍵のことになると饒舌になる。たぶん、相手がいる状態の会話が苦手なのだろう。
歯の抜けた口が歪んで、ちょっと笑っている。
「よか、よかった」
「何が?」
「元気そ、だ」
カンテラが揺れる。
中は蝋燭だろうか。こういう元の世界でも存在していたものを見つけると、ほんの少しだけ心が落ち着く。鍵マニアの牢番は他の牢番と違って、食事が終わるまで待っていてくれるからいい。
灯があると、食事をしやすい。
「このパン」
「えっ」
「いつもより、あったかいね。どうしたの?」
「ご、ごごごめんなさっ」
「怒ってるんじゃなくて! えっと、その嬉しいから?」
「こ攻撃、し、しな? い」
「しないしない。できないし」
「あ、ああ。繋がれてる、から」
明らかにほっとした様子に、柚子は苦い気持ちになった。
鍵のことで、わずかでも親しくなれた気がしたのに。
この暗くて何もない場所では、たまにやってくる牢番たちだけが「変化」そのものだ。他に音を立てるものといったら、天井から落ちてくる水くらいか。最初は暇つぶしに数えていたが、痛みがやってくるとそれどころではない。今は熱がひいたもの、傷の所為で高熱を出していた頃は特にひどかった。
どうやら、ここで死ぬことは許されないらしい。
だが、いつかは殺される。
(どうでもいい、けど)
柚子は考えることが億劫になっていた。
食事が終われば、牢番と一緒にカンテラも去っていく。足音も聞こえなくなって、ぴちゃんぴちゃんと床を穿つ水滴だけになる。
眠気を感じて、ベッドに戻ることにした。
あと何回眠ったら、死が迎えにきてくれるのだろう。死んだら、アレックスに謝らなくては。それから祖父には恨み言をたくさんぶつけてやる。そうだ、祖母にも会えたらいい。あれだけ仲良しだったんだから、きっと一緒にいるはず。
柚子は微笑んでいた。
目を閉じれば、幸せな夢を見られるような気がした。
「起きろ!」
水をかけられたと分かったのは、顔が濡れていたからだ。
鉄格子の向こう側からぶっかけられたらしい。せっかくの毛布も水を吸って、やや重くなった。こんな湿った地下空間では乾くこともないだろう。
「ああ」
「う、動くなっ。化け物め!」
久しぶりにその呼び名を聞いた。いや、違うか。よく分からない。
眠りから戻りきらない頭は、いつに増して動きが緩慢だ。不思議とあまり体が痛くならないのはいいことだが、手足が重いので動きづらい。
「弱っていますね」
「ち、治療はしました! 熱も下がり、傷は」
「傷は?」
「最低限の処置はしましたよ、ええ。少なくとも血は止まっています。どうせ殺すのに、そんなもの気にしたって仕方がないでしょうぶ!?」
何かが落ちた。
「その騎士に命じられたはずですね。ちゃんと治療しろ、と」
「そ、それは」
「相手は神聖騎士。その指示に従わなかったとなれば、神に背いたことになるかもしれませんね。困りました。そうなってくると、私も考えを改めねば」
「ちゃんとやったんだ! 私だって医師だ。仕事は、した」
「なるほど」
この声、聞き覚えがある。
柚子はカンテラの明かりを頼らずに目を向けた。闇に慣れたから、かすかな光でも十分に見える。鈍った感覚でも、鉄格子の向こう側にいる人間は分かる。
「あの、時……の」
「捕らえられた時のことを、覚えていましたか。まあ、それなら」
棒のようなもので胸を突かれた。
「あ、ぐっ」
「レノ様!」
「大丈夫ですよ、力は入れていません。さあ、来なさい。いずれ死ぬ身でも、痛いのは嫌でしょう?」
冷たくて硬質な声音は、金属を思わせる。
それも銀色ではなく、真っ黒の方だ。触れたが最後、熱という熱を奪われる。この男の指示に従いたくなかったが、確かに痛いのは嫌だ。高熱にうかされるのも嫌だし、新しい痛みはここぞとばかりに主張してくる。
結局立ち上がることはできなくて、柚子は石の床を這った。
やっと鉄格子へ触れられるようになると、待ち構えていた熱が上から被さる。それが人の手だと、一瞬遅れて理解した。咄嗟に逃れようとしても、溶接されたかのように外れない。
「は、離し……」
「言う通りにすれば、命だけは助けてやる」
吐息に紛れ、早口で耳へ流し込まれる言葉。
「陛下に何を託された?」
「な、に」
「知らないとは言わせない。あの時、貴様しかいなかった」
「…………」
「陛下のご遺体にはなかった。つまり、貴様が受け取ったはずだ!」
どうやら、後ろの人間には聞かれたくない内容らしい。
あくまでも小声で、急くように詰問を重ねていく。柚子が戸惑い、答えられずにいる間もどんどん台詞は増えていった。頭の中がパンクしそうだ。
「私に渡せ。それで、貴様の命は助かる」
「しにたい」
「……っ」
「どうせ、殺されるんでしょう。その後、探せばいい」
バシッと頬が鳴った。
叩かれた勢いで、柚子は石の上に転がる。その冷たさはもう慣れっこだったが、腫れた頬に気持ち良く感じられた。
「もう、いい。……たくさんよ」
今度こそ寝てしまおう。
深い眠りに落ちてしまえば、誰も邪魔はできない。柚子は安息を求めて、ずぶずぶと闇の褥へと沈んでいった。