牢獄にて・2
その男は鍵が大好きだった。
たくさんの鍵を持つことができて、尚且つ使用も許可される牢番は天職ともいえた。自ら志願することの少ない牢番になるために、男は兵士になったのだ。
「まあったく、何やったか知らねえが」
ぶつぶつと一人で喋りながら、牢番はいつもの見回りをする。
時折、苛立った声が鉄格子ごしにがなり立てるが、そんなものはいつものこと。一々気にしていたら、気がどうにかなってしまう。だから、咎人たちの荒れた声を背後に聞き流し、更に奥へと歩を進めていくのだ。
ちゃり、ちゃりと鍵が鳴る。
男はこの音がとても好きだった。見せつけるつもりはないのだが、ぎらぎらと欲望にまみれた目が追いかけてくるのも好きだった。もう少し、あとちょっと、掴むことができたら牢から出られる。もちろん、そんなわけはない。
だが、長らく牢に閉じ込められた彼らは気がふれている。
光がほとんど射さない場所だ。当然ながら、風もない。緑が芽生えるはずもなく、牢番が持っているカンテラが唯一の光源だった。それでも奥へ行けば、そのカンテラですら頼りにならなくなる。
ぴちゃん、と水の音。
それ以外に聞こえるものはなく、それ以外が滅多に存在しない空間。牢番ですら、数えるほどしか足を運んだことがない。城の一部に作られた地下牢の、最奥に用意された部屋。そこは一番罪深い者が入れられる場所。
恐るべき力を振るうと云われた化け物が、閉じ込められている牢獄。
「あんな、年若い女が……ねえ?」
ほとんど子供じゃないか、と牢番は独り言を続ける。
本音を言えば、行きたくない。あらゆる手段で封じてあるというが、あの剣聖と呼ばれた国王をズタボロにしたのだ。武器らしいものは何もないというから、素手だろう。あるいは鋭い牙が生えているのかもしれない。全身真っ赤だったが、あれは国王の血だ。
ああ恐ろしい、恐ろしい。
「うるせえぞ!!」
「今日はやけに元気だ。いいことだ」
「黙れ、このクソがっ」
怒鳴ったのと悪態を吐いたのは別の囚人だ。
かたや連続殺人の凶悪犯、かたや村一つを焼き滅ぼした狂人で、捕らえられてから早数年の月日が経っている。片方は国王陛下自らが捕縛したというが、もう一人ははて――。
「誰だったか」
足を止め、ちゃりんと鍵が鳴った。
牢番は再び歩き出す。ぢゃりぢゃりと濁った音をさせながら、歪んだ口元をカンテラの明かりに照らして、闇に慣れた目でも判別しづらい最奥を見やった。
行きたくない。
「だが、まあ……仕事だからな」
何もしなければ、何もしてこないだろう。
少なくとも今まではそうだったし、これからもそう願いたい。何のために牢番になったのか分からなくなってしまう。いや、もちろん鍵を愛でる為に決まっているのだが。
「ん?」
今、何か光らなかっただろうか。いいや、光った。間違いない。
化け物の目かもしれない。違うかもしれない。確かめてみなければ分からない。だって牢番だから。牢獄の異変は真っ先に把握しておくのは、仕事の一環だ。
「あ、う」
掠れた声がする。
姿は見えなくても、それが女だと分かった。
あれは、昨日のことだ。牢番はここへ連れてこられる姿を見ていたし、それはもう恐ろしい奴だったと記憶している。大人しく牢獄に繋がれたが、何がきっかけで暴れ出すか分からない。
だって、あの能面みたいな若者が言ったのだ。
『なるべく近づかないように。何が起きるか、分かりませんから』
牢番は牢番であるために牢番を続けなければならない。
とっても行きたくないのだが、牢番は牢獄のことを誰よりも知っているべきだ。異変が起きたなら、真っ先に知らせる必要もある。そうしたら、ちょっとくらいは金も貰えるだろう。それで酒を買って、いい気分になる。最高だ。
幸せな夢を脳裏に描きながら、牢番はことさらゆっくりと近づいた。
「さい」
「んん?」
「ごめんな、さい」
化け物が泣いている。
そっとカンテラをかざしてみたが、動く気配はない。
真っ赤だったドレスは血が乾いて、ひどい色になっていた。俯いているのか、黒い髪のせいで何も分からない。くぐもった声が何度も謝っていた。国王を殺したことを、後悔しているのだろうか。
「じゃあ、あの光は何だったんだ」
それっぽいものはどこにも見当たらない。化け物は泣いてばかりで面白くないし、牢番はだんだん飽きてきた。とりあえず様子を見たわけだから、これで仕事を果たしたことにはなる。
「戻ろう。戻るのがいい」
「あ」
「ひいっ」
小さな声で飛び上がった牢番は、へっぴり腰で振り向いた。
これが唯一の武器とばかりにカンテラを突き出す。ゆらゆらと頼りない光が白い面を浮かび上がらせた。普通の人間はそれで震えあがり、一目散に逃げ出すかもしれない。だが牢番は鍵にしか興味がなく、恐ろしい顔なら見慣れていた。
そして牢番が気になったのは顔ではなく、もっと下の方だった。
「んんんっ?」
「な、なんですか」
戸惑う声なんか耳に入っていない。
濡れた床をバタバタと踏み鳴らし、鉄格子のすぐ近くまで駆け寄った。そうっとカンテラを掲げてみる。近づいて、腰を落としてもう一度――。
「鍵だ!」
「あっ」
「そ、それを寄越せ。いや、寄越さなくていいから見せろ。見せてくれるだけでいい。もう一度だけでいいんです見せてくださいこの通り!」
むくんだ両手を叩き合わせ、その隙間へ頭をねじ込んだ。
牢番は神を信じていない。だからお祈りの仕方を知らない。文字も読めない。そして、鍵の種類だけは誰よりも知っている。
化け物の持っている鍵は、見たことのない形をしていた。
小さすぎて、鍵としての用途をなしていない気もする。だが鍵という形をしている限り、それは鍵以外の何物でもないのだろう。たとえ単なる装飾品に過ぎなくても、鍵は鍵なのだ。
「見る、だけですか?」
「もちろんっ」
牢番は今年一番の歓喜に震えた。