見知らぬ土地で・6 (残酷表現有り)
こめかみから頬へ、したたり落ちる透明な雫。
(汗?)
無意識に手を伸ばそうとして、急に距離がひらいた。
背に庇われて、驚愕に目を瞠る。コートから細長いものが生えていた。さっきまで、こんなものはなかったはずだ。
「この娘は関係ない。無辜の民をも巻き込むのが、貴様らの信念か!」
「アレックスさんっ」
見えない敵に怒る彼は、まるで別人だ。しかし、アレックスだ。
どこからか飛んできた矢を受けながら、柚子を庇ってくれる。しわができるくらいにコートを掴んで、名を呼ぶ。ひどく安心できてしまう背だ。でも、左肩は矢が刺さっている。
こういうのは、毒が塗られていたりするものだ。
「お覚悟」
「言い訳はなし、か。その意気だけは認めてやる」
いきなり現れた黒装束たちを見やり、アレックスは不遜に笑った。
百獣の王。
傷を負いながらも、誇り高い姿は見る者を圧倒する。
わずかに下がった足元で、ジャリッと音がした。全部で、五人はいるだろうか。目の周り以外は全て黒布で覆っている。忍者というよりは、文字通りの暗殺者だ。それぞれの持つ得物が、薄暗がりに鈍く浮き上がる。
「く、そ」
アレックスが突然、がくんとバランスを崩した。
「やっぱり、毒が」
「さすがお嬢さん、よく分かっているな。間違いなく、将来は聡明で美人の」
「ふざけてないで、逃げましょう。殺されちゃうっ」
庇われた背から前に回れば、さっきよりも多くの脂汗が滴っている。無駄だと知りながら、ハンカチで拭き取った。泣きたかった。
お店から逃げようとしなければ、こんなことは起きなかったかもしれない。
「アレックスさん、わたしっ」
「下がっているんだ」
「でも!」
「これしきの相手、毒を受けているくらいがちょうどいい。殺してしまっては、黒幕まで辿り着けないからな」
腕に自信があることをほのめかしつつ、アレックスは腰に手をやった。
「く、くくくっ」
「どっ、どうしたんですか?」
「やられた。さすがだ、流石は俺の見込んだ」
どふ、と何かが音を立てた。
台詞も途中にして、アレックスの体が揺らぐ。黒装束たちが次々と襲いかかった。柚子は何かを叫んだつもりだったが、それは何の役にも立たなかった。
緋が、降り注ぐ。
それはあの、まばゆい光ではなかった。
柚子の世界を塗りつぶし、一人の命を連れていく。崩れていく体を、がむしゃらに掴んだ。支えようとしても耐えきれず、そのまま諸共に倒れ込む。痛みは確かに感じたが、そんなのはアレックスに比べれば何でもない。
彼の方が、ずっとずっと痛いはず。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「何を、謝る」
「アレックスさん!」
「巻き込んで、しまった。謝るのは、俺の方……だぞ」
「そんなことっ」
首を振って否定する柚子は、中途半端に持ち上げられたアレックスの手を握った。血まみれの肌にも構わず、頬にくっつける。
病床の祖父は、こうしてやると嬉しそうに微笑むのだ。
「ミリエランダ」
「え?」
「俺の娘だ。この世で一番、可愛い……俺の宝」
そういえば、娘がいると言っていた。
では「ミア」というのは、彼女の愛称か。あの場面で娘の名前が飛び出した理由は分からなかったが、柚子は言葉の続きを待った。
「城を、目指せ。そして、ミリエランダに……」
「何? アレックスさん、ごめん。もう一度言って!!」
呼吸が浅い。
どんどん小さくなっていく声を聞き取ろうと、柚子は耳を近づけた。しかし掠れた声はどうしてか、よく分からない単語ばかりに聞こえる。逃したくないのに、焦りばかりが募った。
「ひだ、りの」
「左?」
目が動いて、頬に触れさせていない方の手が何やら動いた。胸の辺りを探ろうとしているらしい。だが切り裂かれ、傷だらけの場所は更に血をあふれさせる。
「鍵、ね」
「…………」
「それがほしいの? アレックスさん」
鳥を捌く話よりもずっと、吐き気をもよおす状況だ。本当なら、手を突っ込みたくない。しかし、死にゆくアレックスの力では「鍵」を取り出すのは困難なのだ。
柚子は泣いていた。
目をこすりつつ、アレックスの手に己のそれを重ねた。こぼれた涙が傷を洗い流すとは思わなかったが、ぼたぼたと零れていく雫が何かを光らせた。反射的に光を掴む。次の瞬間に傷のことを思ったが、構っていられない。アレックスの時間はもうわずかだ。
「取ったよ。鍵が見える? アレックス、これ?」
頷いたと思ったのは、柚子の願望だろうか。
「すま、ない」
ミリエランダではない、誰かの名前を呟いた。
それがアレックスの最期の言葉になった。
途中で呼び捨てになっているのは仕様です。