ワンモアシング
産業貿易センターで行われていた合同内見会の帰り道。いただいた名刺を名前順にさっと並び替えてゴムバンドでぱちんと止める。ほんの数年前までは比野文具の事務係としてやっていた美香さんの手際に野原さんが感嘆していた。
「流れるようなあざやかさでしたねー」
「いやいや、比野文具の事務の仕事って何年か前まで全部伝票だったから。手が覚えてるだけだよ」
伝票を数える手つきを再現してみせる様子は手品師のようだった。
「今は伝票ってほとんどないですよね。ネットはメールを流し込んでるし。電話でも受けながらパソコンに打ち込んでますもん」
「伝票が必要な相手もいるよ。ご注文をお受けしましたってだけで、その控えを渡さなきゃなんないの。たとえば文化堂さん」
「ああ、そういえば来週から研修においでになるんでしたね。やっぱり若い人でしょうか」
「うーん。あのお店に若い人がいるイメージって、あんまりないんだよね」
文化堂から研修に来た棚田さんは70歳のやや手前。パソコンもインターネットもまったく知らないネット通販の素人さん。だけど商売の達人として知られたこともあったという。当初は番頭さんと呼ばれていたけれど、本人が自分はただの産業スパイですなどというので、無難に棚田さんという呼び名に収まった。
棚田さんは出店話を聞いて志願をしたそうだ。今までやったことのない新しい商売なんて、そんな面白そうなことを若い人に譲るのはもったいない。そうして初日から掃除や工場の手伝いを嫌がることなく行っていた。社長には全部見せろと言われたものの、他社の人に顧客情報を見せるなんてとんでもないと、美香さんの腰が引けていた。本人も見るべきでないと言っていたので意見は一致。だけど忙しさは岩をも流す。だんだん商品情報の整理や受注入力もやるようになっていった。終業後は本棚のコウモリの表紙の HTML本を読んでいた。予備機として机の上にあった IBM ThinkPad 345C も自由に使っていいことになっていた。
話題が豊富で若い人の心を簡単につかんでしまう。野原さんとは外国のスポーツ選手の話で盛り上がっていたし、今川君や山代君には、SR400を所有していて最近までよく乗っていたものだと自慢していた。
そういえば、前の社長が文化堂の翁と話をしたと棚田さんから聞かされた。しっかり面倒を見るつもりだから安心しなさいと文化堂が言ったそうだ。面倒を見るのはお互いさまだ。同盟関係なのだから。
落ち着いた静かな喫茶店で仕事の話をする無粋な人たちがいた。まずは注文。炭火珈琲、珈琲館ブレンド、炭火珈琲ゼリーふたつ。
「ネット限定品のこと、神楽さんは何か言ってた」
「限定品が買える場所って認知されたら強いから、継続的にやるべきだって。またセールとか広告のことしつこく言ってましたよ。新商品の広告を出すだけなら安売りにはならないでしょうって」
「あの人は集客ばかりだ。楽々自体が人を集めたり囲い込んだりする機能のない場所貸しだから、店に販促させないと食べられないんだ。広告を出すのが嫌なわけじゃないけど、効果が見えにくい。自社サイトでも限定品は動いてるね」
社長がやれやれという顔を真子ちゃんのほうに向けた。
「ウェブサイトで買われるお客様はうちのファンです。気が付いたら買うと思ってました」
横に座っている島田君は忙しくなる一方なのに笑顔が増えた。仕事が楽しいのだろう。
「ショッピングカートのことだけど、改造はうまくできそう」
「じゃあ受注処理も楽になるんですね」
「そうしたいです。またスクリプトの改修です」
島田君作の楽々受注メール一括CSV変換スクリプトは動かしながら改良するツールである。
まずデスクトップに置きっぱなしになっていた parse.pl が見えないところに再配置された。受注用のメールソフトは Outlook Express からAL-Mail32に変更され、スクリプトがメールボックスを直接読むようになった。この際に jcode.pl が文字コードを変換する。そして生成されたCSVはその場で FileMaker Pro にインポートされる。
次に楽々市場では備考欄を使っていなかったのを使うことにした。それも変換スクリプトを手直しして簡単に対応した。
公式サイトの受注はほとんど手作業のままだった。カートが楽々の受注メールと同じ構造でメール送信できるようになれば、同じ仕組みで処理が可能になる。これが今回の改修だ。備考欄はいずれ顧客番号欄に用途変更したいと考えている。どうすれば顧客番号を書いてもらえるか、その方法はまだ見つかっていないのだが。
サンクスメールの返信にはあいかわらずJavaScriptのツールを使っているが、ここも自動化できないかと社長と島田君が話し合っている。具体的にはメーラーをBecky!に変更してスクリプトを書き直す。検討は始まったばかりで、どうするかはまだ見えていない。
「ver.5ですね」
「そうです。小数点以下の修正もいっぱいありましたが」
「次にカード決済についてなんだけど」
「ご注文お待たせいたしました」
「ああはい、ゼリーはそちら。私は炭火珈琲」
コーヒーにクリームを落としながら話を続ける。
「決済業者さんね、そろそろ再申請が通るかもしれない。話してみたら悪い反応じゃなかった。楽々での実績作りはやはり正解だったね。まだはっきりわからないけど、楽々の決済には使えるようになると思う」
「自社サイトでは使えないですか」
「やっぱりSSLが難しい。リニューアルはカード抜きでやろう」
「わかりました」
「それとレンタルサーバーiSLEさんのサポートから返信が来た。面倒な移転作業なしでスタンダードプランに移れるって。そうしたらサーバー容量は100MBになる。今の5倍だからやれることが増える」
「はい」
「ついでに話しとくと、ケーブル回線は来年早々に対応エリアになる予定。だからそれまではOCNエコノミーで耐える」
OCNエコノミーをもう1回線契約して受注専用にするとか、OCNスタンダードにするべきかとか、何度も話し合われてきた。今はウェブサイト更新、受注処理、調べ物の時間で、おおまかに交代して使うようになっている。来年まで耐えられるのだろうか。
「ゼリー食べちゃおう」
「はい」
社長がぴっと指を立てた。
「ワンモアシング」
「はい、なんでしょう」
「楽々店長の仕事で Macintosh Performa 588 だと物足りないでしょう。あれはテキスト編集には十分という判断で残してた。ちゃんとした道具を買うのは必要な投資です。iMac G3 Tangerine とかどう」
「ええと、よくわかりません」
「かおりちゃんが新型買うなら、私にまた Performa 588 使わせてください。2台あると便利なので」
「いいよ。じゃあ制作部の共用で真子ちゃんが管理者ってことにしよう。PowerBook 1400c はあれで間に合ってるの」
「性能は十分です。会議にも持っていくのでノートは便利です」
iMacが届いたあと、かおりちゃんに社員登用の打診があった。彼女は疑問符みたいな表情で、はいと答えた。




