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風立ちぬ、いざ生きめやも

作者: okazato.

この作品には、一部津波の表現が含まれています。

不快感や不安を感じる方は、ご自身と相談のうえ、お読みください。

 緩やかな坂を登りきった純恋すみれは、大きな岩の上に腰を下ろす。この場所で休むのが、すっかりお決まりになってきていた。


 ここから一キロほど離れた先には、大海が広がっている。緑がかった、穏やかな水面。視界を遮るものはなに一つない。


 純恋の腰掛けている大岩の隣には、まるで百葉箱のような、小さなほこらが設けられていた。端材で作られた、簡易的なものだ。


 この中には、釈迦如来像が安置されている。かつてこの土地に存在した寺で、長年守られてきた仏像だ。


 じわりと汗ばむ頬を、綿のハンカチでおさえる。もう少し暑くなってきたら、日除けの手立てを考えなければならないだろう。

 そんなことを思いながら、ぼうっと海を見下ろしていた。


 すると頭上から、快活な声が降ってくる。


「こうして日参するとは。なかなかどうして、信心深いおなごじゃ」


「だっ、誰!?」


 慌てて振り返り、そこでまた驚く。背後に立っていたのは、まだ小学校低学年あたりの、小さな男の子だったからだ。


 いつからここにいたのだろう。純恋と目が合うと、少年は満足げに腕を組む。


 キリリとした太眉に、褐色の肌。日本語は流暢だが、異国の血が感じられる面立ちだ。

 さらさらとした髪は、黒というよりも濃紺に近い。そして同じ色をした瞳が、ニヤリと細まった。


「儂は釈迦如来じゃ。そこに祀られている、仏の化身とでも思うてくれ」


「は?」


 気の抜けた声が出てしまう。深く追及することもできなくはないが、やめておくことにした。


 この年ごろの男児は、自分が特別な存在だと思い込んでしまいがちな、どうしようもない生き物なのだから。


「あなたの本当の名前は?」


 立ち上がりもせずに尋ねると、少年はきょとんとした表情を浮かべる。


「儂の名か? そうじゃのう、かつてはシッダッタと呼ばれていた」


「シ……?」


「シッダッタ。この国の言葉では、『目的を達成した人』という意味になるか。良き名じゃろう!」

「ええ、そうね」


 少年は得意げにあごをいじくりながら、盛大に笑った。


「して、おぬしはなにをしておる? ここまでやってきて、手も合わせぬつもりか?」


「そうよ。私、お釈迦様に会いにきたんじゃないもの」


「では、なにをしておるのじゃ」


 少しむくれた顔で、こちらへ尋ねてくる。


「ただ、海を見にきているだけよ」

「ふむ」


 少年は体の向きを変えて、緑青色の海と向かい合った。


 今日は磯の香りが強い。ここまで海風が吹きつけているということは、もうじき雨が降り始めるのかもしれない。


「辛くはないのか。そなたたちは、色々なものをあれ・・に奪われたであろう」


 子どもらしからぬ老いた物言いに、下唇をぎゅっと噛みしめる。

 きちんと返事をするための心の準備が、私にはまだできていなかった。


 あの日の出来事は、ありありと思い出せる。


 どす黒い色に染まった水の壁が、町のすべてを飲み込んでいく。目の前で起こる信じ難い光景を、避難先の高台から、ただ眺めていた。


 海沿いの灯台も、学生時代を過ごした学び舎も、ようやくできたおしゃれなカフェも、全部ぜんぶが濁流だくりゅうに流されていく。


 至るところで轟音ごうおんが鳴り響いているのに、ばくばくと打つ心臓の音が、私の体を支配していた。


 もう一度あの場面にでくわしたとしても、きっと私は、呆然と立ちつくすことしかできないだろう。

 よどんだ波は、高台の中腹にまで押し寄せてくるのだから。


「……あなたはどうなの?」


 静かに問うと、彼はこちらにすい、と目線を移した。


「そうじゃな、儂の家はなくなった。まぁ仮住まいがあるだけでも、よかったと思うほかないじゃろう」


 薄く開かれた瞳には、複雑な感情がさざなみ立っているように見える。


「しかし、人の生は短い。前を向いて、生きていくしかない」


「私は、そんなふうに割り切ることはできないわ」


 吐き捨てるように呟くと、少年は物悲しげに目を伏せた。


「あのね、しーちゃん」


「ん。まさか、その『しーちゃん』とやらは、儂のことではないじゃろうな!?」


「私ね、結婚するはずだったの」


 純恋が応える気はないと悟ったのか、腑に落ちないとでも言いたげな顔のまま、『しーちゃん』は口をつぐんだ。


「彼は私の幼馴染で、ここに建っていたお寺の、跡継ぎ息子だった。あの日本当は、一緒に逃げ切れていたはずなのに。けたたましい津波警報を聞きながら、彼はここまで引き返した。なぜだか分かる?」


 少年は黙って私を見ている。肯定とも否定ともとれない、達観した面持ちだ。


「仏像を守るためよ。お釈迦様を持ち出すために、彼は戻っていったの」


 湿った風が、純恋の長い髪を揺らす。


「津波が落ち着いてから、避難所を必死に駆け回っても、再会することはできなかった。結局、車とともに遺体が見つかったのは、一週間も経ってからよ」


 日差しの隙間から落ちてきた雫が、ぽつりと額を打つ。どうやら通り雨のようだ。


 さあさあと降り出した細い雨にも動じることなく、純恋は岩の上に座り続けた。


「津波に巻き込まれても、仏像が壊れなかったのは不思議でしょう? 当然よ。あきらが最期まで、しっかり抱き抱えていたんだもの」


 柔らかな水の粒は、無慈悲にも二人を打ち続けていく。


「だから、私は憎んでいるの。お釈迦様のことを」


「では、なぜここに通うのじゃ。アキラの魂が、ここにあるわけでもなかろう」


「そんなの、私にも分からないわよ」


 乾いた笑いを漏らしつつ、ゆっくりと目を閉じる。


「私を捨ててまで、晃が守りたかったのはなんなのか。そんなことをぐるぐると考えているだけ」


 すると少年は、長いため息を吐いた。


「そなたを捨てるわけなかろう。あやつは義務を果たしただけじゃ」


「義務? 義務ってなに? 私を残してまで、自分が死んでまで守る価値があったっていうの? そのちっちゃな仏像に!?」


 勢いよく立ち上がった純恋を、必死に見上げつつ、少年はうなずいた。


「いいか、スミレ。たしかにこれは、ただの偶像だ。けれども作り手の魂が、守り手たちの想いが、そしてなによりも、祈り手たちの願いが像には詰まっている。アキラが守ろうとしたのは、仏を頼っている全ての民の心なのだ」


「そんなの綺麗事よ。いくら良いように言ったって、死んじゃったら意味がないじゃない……!」


 純恋の顔がくしゃりと歪む。小雨だというのに、頬はびしょ濡れになっていた。


「あやつが命を落としたのは、儂のせいじゃ。本当に申し訳なかった」


「やめてよ」


 少年は深く頭を下げたまま、微動だにしない。


「そこまで、仏像になりきらなくたっていいんだから!」


「アキラは最期に話していた。そなたのそばにいてやれず、申し訳ないと。父母を残してこの世を去る自分は、とんでもなく親不孝者だと」


「なんで……そんなこと知ってるの?」


 たじろぐ純恋に、少年は鼻息荒く答えた。


「だから言ったであろう! 儂は釈迦如来なのだぞ」


「冗談はやめてよ……」


 嘘めいた作り話に、膝から崩れ落ちてしまう。震える純恋の肩に、少年はそっと手を添えた。


「いいか、スミレ。過去に囚われるな。アキラは誰よりも、そなたの幸せを願っている」


「じゃあ、晃がいなくちゃ。私一人じゃ、幸せになんてなれない!」


「アキラは戻ってくる」

「……え?」


 顔を挙げると、なんとも不遜ふそんな顔をした少年が、仁王立ちをしている。


「今すぐには無理じゃ。そなたが悲しみを乗り越え、別の道を歩めば、いずれ再会できるであろう」


「どういうこと? 追いかけなくても、晃と会える方法があるの?」


「そうじゃ。奴はいずれ、そなた・・・に宿る」


 少年は迷いなく、私の体を指した。


「私の……子どもになるってこと?」


「これ以上はやめておこう。未来を待てと言いたいわけではないのだから。現実と向き合え、スミレ。決して自分の命を、粗末にするでないぞ」


 驚いたことに、少年の体がだんだんと透け始めてくる。


「待って、しーちゃん」

『ふふっ。ずいぶん長いこと、人間たちを見守ってきたが、そんな呼び方をされるのは初めてだったぞ。達者でな、スミレ!』


 待ってよ、まだ行かないで。


 失礼なことばっかり言って、あなたを傷つけたのに。私まだ、謝ってすらないのよ!?


「……れ。すみれ!」


 バッと目を開くと、こちらを見下ろしている面々が、視界に飛び込んできた。


「母さん……晃の、お父さん……?」


「もう、なにやってるのよ!」


 私に覆い被さるように、母が抱きついてくる。どうやら気づかないうちに、地面へ倒れ込んでいたらしい。


 当然のように、私たちの周りに、少年の姿はなかった。


「純恋ちゃん、ここに毎日きてくれていたから。傘がないと困るだろうって、お互いに考えたみたいでねえ」


 おじさんの両手には、四本の傘が握られている。いつしか夕立は過ぎ去っていた。


 純恋は両ひざをつくと、手を添えて頭を下げる。


「心配をかけてごめんなさい。今日だけじゃなくって、これまでも」


「いいんだよ、純恋ちゃん」


 おじさんは私を立ち上がらせると、ひざについた泥を、白い手ぬぐいで丁寧に拭ってくれた。


「私、ちゃんと幸せになるから。晃が安心できるように、しっかり生きていくから」


「純恋……!」


 母の目から、大粒のしずくが溢れた。おじさんも堪えきれないのか、ぎゅっと鼻をおさえる。


 それから私たちは、はばかることもなく声を上げながら、涙を流したのだった。


 ようやく三人が落ち着き始めたのは、日が沈み始めたころ。


「そろそろ帰りましょう、純恋」

「うん。あ、虹」


 水平線に重なった、太陽を囲むように、七色の円環が輝いている。


「ああやって、太陽の周りに現れる虹のことを、幻日げんじつと呼ぶんだよ」


 鼻水をすすりながら、おじさんは続けた。


「もしかすると、お釈迦様がやってきてくれたのかもしれないね」


「どういうこと?」


 純恋が尋ねると、おじさんは穏やかな笑みをたたえながら、こう答える。


「お釈迦様が天上界から降りてくると、虹がかかるという言い伝えがあるんだ」


「どちらかといえば、お釈迦様が去って、虹がかかったって感じだけどね」


「うん?」

「ううん。なんでもない!」


 それからおじさんと母は、揃って如来像に手を合わせた。少し戸惑いながら、私も横に並ぶ。

 釈迦如来像とちゃんと向き合うのは、数ヶ月ぶりのことだった。


 ええと。聞こえてるかな? しーちゃん。


 慰めてくれて、ありがとう。晃の最後の言葉を教えてくれて、ありがとう。


 あと、酷いこと言ってごめんなさい。あなたはなにも悪くないのに。

 またお供えにもくるし、ちゃんと掃除もするから。どうか許してください。


 それと……うーん、なにを話そうかな。正直、まだ混乱してるけど。


 もし私が、悲しみを全て受け入れて。次の幸せを望めるようになって、それで子どもができたら。


 ここに連れてきても、いいかな?


 するといきなり、突風が丘の上を吹き抜ける。


「きゃっ!?」


 純恋は慌てて髪をおさえる。ちょうどその時、待っているぞ、と囁く声が聞こえた気がした。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。作品が心に残りましたら、感想等いただけますと励みになります。


連載中の別作品については、下にリンクを貼っていますので、ご興味がありましたらそちらもご一読いただけますと幸いです。

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