第88話:出版社にて
リサイタルが終わった二日後、武夫のピアノソロコンサートが行われた。セットリストは彼のレコードをなぞる形になっていて、プラスαでラフマニノフとシューマンからそれぞれ二曲づつが演奏された。
このコンサートは完全なクラシックピアノコンサートで、武夫はタキシード姿での演奏を強いられることになった。もともと彼はこのコンサートに乗り気ではなかったが、クラシックピアノファンからの圧力を受けた山根女史の強力な推しに根負けした形だ。
武夫としてもファンの強い要望と聞いて無視できなかった気持ちがあったことも確かだったから、やっつけ仕事的な演奏をしたわけではもちろんなく、全身全霊を込めてコンサートに挑んだ。おかげで観客の反応が素晴らしかったのは言うまでもない。
話は変わって、山根さんにはリサイタルでのギタープレイにも興味を持たれてしまい、なんでそんなに上手いのかとか、どこかのバンドに助っ人として参加してみないかとか、いろいろ聞かれて大変だった武夫であるが、なんとか話題を逸らしてリサイタル会場からもコンサート会場からも逃げだおおせたという一幕もあった。
そんなこんながあってソロコンサートの翌日に、武夫は出版社へと出向いていた。
「すばらしいコンサートでした。私、もう感動しちゃって」
「そうだな、心に染み入る演奏だった」
「ありがとうございます」
編集担当の奥田さんと牛島編集長には、ピアノコンサートのプラチナチケットが武夫から贈られていた。
「吉崎先生の作品も売り上げが伸びてるからねぇ、次作に期待する声も大きい」
「ありがとうございます」
牛島編集長は機嫌が良さそうだ。お世辞交じりの挨拶を済ませると、牛島編集長は自分の仕事に戻っていった。武夫の作品が売れていることは確かで、その売り上げが伸びていることも間違いないのだろう。
けれども、それが五十万部とか百万部とか爆売れしているわけではないのだ。最終的にせいぜい二十万部売れれば御の字だと武夫は考えている。それでも二千万円クラスの印税収入があるわけだから、ガッツリと税金を取られるとはいえ、身に余る大金に魅力を感じていない彼的には充分に満足できる成果だった。
「それで吉崎先生、今日は次作品の話をしていただけるとか」
武夫的には二~三年のブランクを空けても収入の面では問題ないと考えていたが、奥田さんからの電話連絡は定期的に入っていて、そのたびに次作の進捗を聞かれていたというか催促されていたという経緯があった。
だからといって慌てて次作の執筆にとりかかったかと言われればそれは否であり、かといって次作の準備がまったく成されていないかといえば、それも否だった。
「ええ、執筆開始がいつになるとは断言できないんですけど、プロットはすでに出来上がっています。今日はそれを持ってきました」
そう言って武夫がカバンから取り出した冊子は三部あった。ルーズリーフに書き込んだプロットをコピーしたものだ。それぞれのタイトル欄には、仮題としてはいるが「山野を駆ける」「山禄館」「木漏れ日」と書かれている。
武夫が冊子を岡田さんに渡すと、彼女は奪い取るようにそれを取って目を皿のようにして読み込んでいる。
しばらくして。
「どれも捨てがたいわね。でも、あえて挙げるとすれば山野を駆けるかしら。会議に掛けてみないと分からないけど、全ボツになることは無いと思うから期待していてね」
「企画書にしますか?」
「いえ、結構よ。ログラインもあらすじも書いてあるからこれで充分」
「そうですか」
仮題「山野を駆ける」は、前世の武夫が少年時代に経験したことを元にしたいわゆる私小説だ。もちろん、おもいきり脚色してあるし、経験してないエピソードも加えていたり、主人公の名前も実在の登場人物の名前も変えてある。
「それでですね、この冒頭部分のエピソードなんですけど――」
岡田さんはなにか閃いたのか、プロットの一部を指し示しながら説明をはじめたのであるが、これは前回もそうだったので武夫に抵抗感はない。
前回は初稿に対しての改稿提案だったが、今回はまだプロット段階だ。つじつまを合わせる手間もほとんどかからないし、来年の春まで一作品書き上げれば済むと武夫は考えているから、今回の打ち合わせで可能な限りの要望を聴き取って作品に反映させたいと彼は考えている。
「――そうですか。でも、それは欲張りすぎでは? あまり詰め込みすぎるとページ数も増えて原価も上がるでしょうし、ページ数を減らそうとすると各エピソードとかキャラの掘り下げが薄くなりますよ」
岡田さんの要望はできるだけ叶えてあげたいが、作品の質は落としたくない。どれだけのエピソードがあれば、文字数的に一冊の小説が出来上がるか感覚で理解している武夫は、あれもやってほしいしこれもやってほしいとおねだりする欲張りな彼女に、くぎを刺しつつ打ち合わせを進めていった。
「うーん、このエピソードは外せないわね。どのエピソードを削るべきか――」
岡田さんはわりと優柔不断だ。前回も悩みに悩んで、帰りの電車を気にする時間まで粘られた記憶が武夫の脳裏をかすめた。
「このエピソードを削りましょう。つじつまが合わせやすいですし、もともとあまり重要なエピソードじゃありませんから」
「そうよね。うーん、でも……」
早く決断してもらおうと助け舟を出したわけだが、手ごわいというかなんというか、またもや悩みだした岡田さんに、武夫はヤレヤレと思う気持ちを隠して助言するのだった。早く帰れますようにと。




