第87話:リサイタル
朋子が義和の鼻を完膚なきまでにへし折ってしまったことで、永山先生の依頼は図らずも達成されたわけであるが、それで永山家の恒例イベントが終わる訳もなく、この日は夜遅くまでセッション大会が続けられた。
義和もしばらくは、部屋の隅で体育座りになってその顔に暗い影を落としていたが、セッション大会が終盤になると何かがふっきれたように晴れやかな顔で復活し、演奏に混ざっていた。
義和は最後の最後で朋子と連弾できたことがよほど嬉しかったのか、セッション大会が終わった後には満面の笑顔を振りまいて永山先生を呆れさせていた。
「アイツにはもっと強烈なヤツをお見舞いせんとダメなのかもしれんな。そう、トラウマになるような何かを」
部屋を出るときに、永山先生が真剣な顔でなにやら物騒なことを呟いていた。武夫は「ガンバレ義和」と心の中で合掌し、彼の健闘を祈ることしかできなかった。
そんなことがあった翌日、可愛い服が見てみたいという朋子のおねだりに付き合って、武夫は彼女と二人で渋谷と原宿でショッピングに興じることになった。あまりファッションに興味がない彼は可愛い妹の荷物持ちに徹し、普段贅沢しない彼女のために奮発して服や小物を買い与えるのだった。
最初のうちは値段に驚いて遠慮していた朋子だったが、高校生とは思えないほどに金銭的余裕がある武夫の「お金のことは心配しなくていいぞ、持って帰れる量の買い物だったら俺の資金は1パーセントも減りはしないから、今日は今まで練習を頑張ってきたご褒美だから遠慮せずに買っていいよ」というセリフを聞いて、次々に店をはしごしてショッピングを楽しんでいた。
そして翌日の午前中にピアノリサイタルの会場へと足を運んだ武夫たちは、軽いリハーサルを済ませて少し遅めのランチを楽しんでいる。朋子はまだ少し緊張している様子だったが、ランチの味が分からなくなるほどではないようで、「美味しい」と頬を緩めている。
今日のリサイタルもレーベルの山根女史が担当しているのだが、朋子や永山先生と彼女もランチに同席していて武夫が編曲した水瀬幸のシングルレコードについての報告があった。
「幸ちゃんのシングル、売れてるわよ。とくに玄人筋の評判が良くて、編曲者を紹介してくれって方々からお願いされてお断りするのに苦労したわ」
「そうだったんですか、ご愁傷さまです。それで、どれくらい売れてるんですか?」
「五万枚は下らないわね。インディーズで宣伝にもそんなに力を入れてないのにすごく順調よ」
最初に武夫が電話で編曲の依頼を受けたときに、水瀬幸のレコード売り上げは一枚目と二枚目を合計しても一万枚に達しなかったと聞いていた。だから五万枚という売り上げは凄いことなのだろうと彼には思えた。
編曲の依頼についても、高校生であるということを理由にほとんどの依頼を山根さんには断ってもらっているが、かなりのビッグネームからの依頼もあったようで、山根さん的には断腸の思いだったそうだ。
武夫的にはかなりの金銭的余裕ができていることから、未成年のうちは編曲の仕事を可能な限り受けたくはないと思っている。二十歳になって雅美との関係が進展していればその限りではないが、友達以上恋人未満の今の彼女との関係を進展させることが、彼の第一優先なのだ。
ランチが終わって、いよいよリサイタルが開演した。永山先生がクラシックを二曲演奏し、続けて武夫がシューマンの子供の情景より「見知らぬ国」と「トロイメライ」という短めの楽曲を原曲どおりに二曲繋げて演奏したわけであるが、今まで彼はショパンやリストを弾くことが多かったこともあって、観客たちは期待が籠ったような視線を彼に送っていた。
難易度が高い曲ではないが幻想的でうっとりするようなメロディーが武夫が演奏するピアノから繊細かつ情緒的に奏でられると、観客たちは酔いしれたようにうっとりとした顔で音楽に浸っているようだった。
そんな観客たちは、武夫が続けて弾いたガシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」の踊りたくなるような陽気な旋律を聴いて体や頭を揺らし、彼の演奏をとことん楽しんでいるようだった。
演奏が終わり、拍手に送られて武夫がステージ奥に引っ込むと、待機していた朋子に声をかけた。
「お客さんたちは充分に温まってるみたいだから飲まれないように頑張ろうか」
「うん、頑張ってくる」
朋子は若干緊張気味だったが、前回ほどではなかったから武夫は安心して見送ることができた。ちゃんとお客さんを笑顔で見ることができている。もう大丈夫だろう。
演奏がはじまった。朋子が弾いている曲はもちろんショパンのエチュード25-12「大洋」だ。永山邸で弾いたときよりも感情が乗っていて、押しては返す波の様子がありありと表現できていた。観客も彼女の演奏に引き込まれ、演奏を充分に堪能しているようだった。
こうして朋子のソロ演奏は大成功のうちに終わったが、次の曲が今回のリサイタルにおける目玉となっている。朋子は引き続き曲のイントロを弾きはじめたが、武夫によって大胆なアレンジが加えられたそれからは、イントロの出だしだけでは何の曲なのか分からないようになっていた。
けれども観客に驚いた様子は見受けられず、むしろ期待感に満ちた顔が並んでいる。配布されたセットリストには、武夫によるアレンジ曲であることが書かれているのだからそれもうなずける話だ。ただ、どんなアレンジであるのかまでは書かれていなかった。
そんな中で、武夫と永山先生がステージへと進み出た。しかも武夫の両手にはコードに繋がったエレキギターが抱えられている。
これには観客も驚いたようで、ほとんどの人たちが目を丸くしているのが武夫には見て取れた。イントロが終わると、永山先生がピアノで低音部とリズムを担当し、朋子が高音部の副旋律を、武夫がギターで主旋律を奏でるというスタイルで演奏が続けられた。
演奏されている曲はショパンのエチュード10-12「革命」を超絶難易度のプログレッシブメタルにアレンジしたピアノとエレキギターの幻想的な楽曲だった。
永山先生が刻む正確無比なリズムに乗って、朋子のピアノと武夫のギターがハモり、幻想的かつ荘厳な旋律を会場中に響き渡らせた。
観客たちは普段聴かないであろうメタル音楽に最初のうちは驚きが勝っていたようだが、次第に引き込まれていく様子が武夫にも分かった。
間奏に入ると武夫が奏でる超絶技巧を駆使したテクニカルなギターサウンドに観客は酔いしれているようだ。「革命」はもともとは三分ちょっとの楽曲であるが、編曲によって増量された演奏時間は六分を超えるものとなった。
もともとピアノが好きであろう観客たちが、メタルアレンジされた曲を受け入れてくれるのか武夫には不安があった。けれども彼のギター演奏を聴いた永山先生が、自分も加わりたいし武夫が編曲したプログレッシブメタルアレンジの「革命」は、絶対にウケると豪語してリサイタルでの演奏が決まった経緯があった。
そして演奏が終わった今、普段は拍手のみの観客席から拍手とともに盛大な歓声が沸き起こって永山先生の判断が証明される形になった。
その後は休憩を挟んで永山先生と武夫がそれぞれソロを二曲づつ、二人の連弾を二曲演奏してリサイタルは大成功のうちに終わりを迎えるのだった。




