第86話:既視感
永山先生の車で彼の家に着くと、奥さんの絵里子さんと息子の義和が出迎えてくれた。絵里子さんは以前と変わらない洗練された感じがする素敵な奥さんだった。そして義和は、場違いなスーツでビシッと決めて目いっぱいおめかしし、頬を赤らめて朋子をガン見している。
「あらあら、朋子ちゃんはずいぶんステキなレディになったわね。武夫君もステキよ」
「まいどまいどお世話になります」
「お世話になります」
武夫は恐縮するように挨拶し、朋子はおしとやかに控えめな声で挨拶した。
「さぁ、中に入って」
絵里子さんに誘われるように武夫と朋子は永山邸の中へと通されたが、義和は口を開こうとしては顔を赤らめて躊躇し、その様子を永山さんと絵里子さんに生温かい目で見られていた。
武夫たちはいつも通り疲れを癒すためのお風呂を頂戴し、夜になると永山家の面々とセッションを楽しむというもはやルーティンと化したイベントをこなしたわけだが、例年と違う出来事が起こった。
さあこれからお楽しみの時間だと言わんばかりに永山先生が演奏室のドアを開けて武夫と朋子を招き入れようとしたとき、義和がスルスルと先に入室し、武夫たちの方に振り返って直立不動になる。
「吉崎朋子さん、俺のピアノを聴いてください!」
真っ赤に赤面してはいるが、その顔には自信が漲っていた。そんな息子を見て、絵里子さんはほっこりした様子で微笑んでいるが、永山先生は額に手を当てて渋い顔をしている。そんな永山先生が武夫の耳元で呟いた。
「小さなコンクールで立て続けに優勝してな、ちょっと調子に乗ってるんだ。悪いがまた、あいつの伸びきった鼻をへし折ってくれると助かる」
「はぁ」
武夫としてはそうとしか答えようがなかった。老成した人生経験を持つ彼には、義和の今の様子は微笑ましく思えるだけだったからだ。
朋子がなにを考えているのか武夫には判断できなかったが、彼女は微笑みながら「どうぞ」と応えるだけだった。
義和は朋子に微笑んでもらえたのがよほど嬉しかったのか、鼻息荒く喜色満面でピアノに向かい、一度大きな深呼吸をして音を奏ではじめた。
――木枯らしか、聴いてくれというだけあって確かに上達しているな。ミスタッチもないし。だけど……。
義和が弾いているのはショパンのエチュード25-11「木枯らし」だった。曲名から想像できるとは思うが、もの悲しい導入の曲で、しかしその旋律は美しく、エチュードの中でも難曲として知られていて人気も高い名曲だ。
そんな「木枯らし」を聴く朋子の表情が、曲が進むにつれ憂いを湛えるように変化していった。武夫には分かる、彼女が曲に感動して表情が変わったのではなく、残酷なようではあるが期待外れでガッカリしているだけだと。
義和が演奏を終えると、彼は満足げな顔を朋子に向けたが、彼女はとっさに笑みを湛えていた。そんな様子を見ていた永山先生が口を動かした。
「朋子ちゃん、早速で悪いがリサイタルで弾く予定の曲を聴かせてくれるかい?」
そう言って軽くウィンクした永山先生に、朋子は少しだけ目を大きくしたが、すぐに表情を取り繕って「わかりました」と答え、ピアノへと向かう。
朋子はスカートを膝の部分で少し持ち上げながら優雅に椅子に座り、位置を微調整してフットペダルに足を乗せると、しなやかな指先をそっと鍵盤にあてがった。
若干の緊張感が武夫には伝わってきたが、永山先生に見定められようとしていることを考えれば、朋子の気持ちも彼には理解できた。
演奏がはじまると、両手で奏でられる分散和音が低音から高音へと激しく駆け上がり、息つく暇もなく高音から低音へと一気に駆け下りてくる。ショパンのエチュード25-12「大洋」だ。
この楽曲も高難易度のエチュード――練習曲――であり、引いては押してを繰り返す波の様子が見事に表現できていた。それは朋子がいかに真剣に練習に取り組んできたが、容易に想像できる繊細ではあるが力強くもある見事な旋律だった。
その演奏を聴いている義和は、目を丸くして顎を落としている。朋子が演奏する姿を見守っていた永山先生は、感心したような顔で軽くうなずくと、息子に目をやったとたんにニヤりと笑みを湛えた。絵里子さんは目を閉じて演奏に聴き入っている。
朋子の演奏は武夫ほどの正確さと繊細さは無いが、女性らしい柔らかさと包み込むような優しさを兼ね備えている。これは武夫にも絶対に真似できない彼女の持ち味であり、強みでもある。
演奏が終わると、永山先生は「ブラボー」と連呼しながら拍手をし、朋子を讃えていた。絵里子さんも笑顔で拍手を贈っている。朋子は立ち上がって振り向くと、そんな二人に深いお辞儀をした。
そんななか、義和がまるで夢遊病者のような生気のない顔でゆっくりと朋子に歩み寄った。
「吉崎朋子さん、素晴らしい演奏でした」
「ありがとうございます」
「そ、それでですね、ちょっと聞きにくいのですが。俺の演奏はどうだったかお教え願えないでしょうか」
武夫は激しい既視感に襲われていた。朋子は困り果てた様子で言葉を探しているようだ。永山先生は眉間に手を当てて「あちゃー」と言いたそうな素振りを見せている。絵里子さんは口元を手で覆い隠し、これからどうなるのかを期待するように興味津々といった様子だ。
「そ、そうですね……いい演奏でしたよ」
微妙そうな顔で言いにくそうに答えた朋子に、義和は一度顔を伏せて再び口を開いた。
「正直にお願いします。絶対に怒ったりしませんから」
朋子は何も答えない。
「この通りです。正直な感想を聞かせてください」
義和は直立の姿勢から勢いよく頭を深くまで下げて懇願していた。その様子を見かねた様子の永山先生が「ボクからもお願いするよ、正直な感想を教えてやってくれ」と言って朋子にウィンクした。
「正直な感想ですか……そうですね、微妙? だと思いました」
ものすごく言いにくそうに本心を告げた朋子の前で、義和が膝から崩れ落ちた。絵里子さんは穏やかな笑みを湛えたままだ。永山先生は両手で腹を抱えながらも必死に笑いをこらえている様子だった。




