第80話:デモ演奏という名の絶望
山根さんに促されてグランドピアノに向かう武夫を、楽器担当の奏者のうち一人がものすごく訝しそうな顔で腕を組んで見ていた。そして山根さんに耳打ちするように小声で話しかけていた。
「本当にコレ弾けんの? 彼まだ高校生でしょ。彼が本当に編曲したというなら凄いと思うんだけどさ、演奏も俺たちの手本になるレベルなの?」
「なに言ってるんですか。彼、日本の一流ピアニストの間でも評判なんですよ」
「ホント?」
「もちろん。うちのレーベルからレコードも出してますし、ちゃんと売れてるんですからね」
もちろん武夫には聞こえていないひそひそ話だが、山根さんの話を聞いた奏者の訝し気な顔が、見定めるようなそれに変わったことは横目で見ていた。
――やりにくいなぁ。山根さんなに言ったんだ?
武夫としてはいつも通りの演奏をするだけだから訝し気な視線も気にならないと思っていたが、見定められるとなれば、ミスできないプレッシャーが僅かにではあるがかかってくる。
だから武夫はピアノと向かい合うと同時に、周囲の視線を意識の外に追いやるべく、一段深い深呼吸をして鍵盤にそっと指をそえた。
スローなテンポではじまった「水玉模様の恋」は徐々にテンポを上げていくと、単音で奏でられる澄んだ高音と、低音のベースラインが小気味よく絡み合うテクニカルなイントロを経て、原曲が分からなくなるほどに変調されたAメロは、オーケストラを思わせる壮大な雰囲気を醸し出していた。
けれどもBメロに入ると、一転キーを一オクターブ下げたスローで静かで渋めな雰囲気に転調し、一瞬の間をおいてサビに入ると、一気に高音域へと転調してテンポも上がり、その落差というか変容をもってキャッチーさを補う工夫がなされていた。
さらに、単音で奏でられる小気味よい高速の副旋律が重なってサビを盛り上げる工夫も施されている。
そこから間奏に入るわけだが、このパートはすこしでも曲の完成度を上げるためというか、いろいろ原曲の足りない部分を補うように恐ろしいほどにテクニカルなギターソロが用意されていた。
武夫はそのギターソロを見事にピアノで再現し、聴いていた奏者が目を丸くして顎を落としていることなど気がつかぬままに弾き終えていた。
「こんな感じなんですけど、行けそうですか?」
武夫が振り返って尋ねると、山根さんと水瀬さんは涙ぐんでいるし、奏者の人たち三人は目を丸くしている。武夫はどう反応してよいか分からなくなり、しばらくの静寂があたりを支配していたが、ギターの担当であろう人が慌てたように口を開いた。
「無理! 難易度高すぎて今日明日じゃとてもじゃないがまともな演奏できないよ。せめてひと月は練習させてもらわないと……」
武夫としてはプロならば演奏で詰まることはないと思っていた。彼のプロとしての比較対象が超一流のピアニストであることが、そもそもの間違いであるということに彼はまだ気づいていない。
まだプロの歌い手とは言えない水瀬さんが躓くかもしれないとは予想していたが、この反応は全く考えていない予想外のことであった。
――さて困ったぞ。どうしたものか……。
二曲目の「逃げ水」はさらに難易度が高い楽曲になっている。このまま披露してしまっていいのか、それとも明日に回した方がいいか、武夫は分からなくなった。
けれどもそんなとき、山根さんが場の空気をぶち壊す発言をしたのである。
「素晴らしいです! 水玉模様の恋がここまで良くなるとは思いもしませんでした。もう一曲の逃げ水もぜひ聴かせてください」
その言葉を聴いた奏者たち三人は慌てたように楽譜に目を走らせ、ガックリと項垂れて崩れ落ちるように膝を地に着いた。水瀬さんはプルプルと必死に首を振って涙目になっている。
どうやら演奏終了時に目に涙を浮かべていたのは感動したからではなく、難易度に怖気づいていたようである。山根さんはそんな彼、彼女らの反応を気に留めることなくズイと武夫に歩み寄り、「さあ」と手のひらを誘うようにピアノに向けて催促してきた。
武夫は仕方がないと割り切ることにした。山根さん以外は絶望の淵に叩き落されたようになっているが、見なかったことにして彼はピアノと向かい合う。そしてイントロを奏ではじめた。
武夫が編曲した逃げ水はシティポップ路線に変更しただけあって、疾走するような軽快なメロディになっているが、主旋律とギターに関する音域の変化幅がとんでもないことになっていて、さらに転調を駆使した恐ろしくテクニカルなものであった。ベースラインの難易度も負けずに高い。
早すぎるわけではないが高音域と低音域を頻繁に跳躍しなければならず、クラシックでいえばラ・カンパネラに似た音の跳躍を多用していて、そこに複雑な副旋律が重なり合うメロディーは、オシャレで高度に洗練されていて、発達した近未来都市のハイウェイを疾走するような爽快さを感じさせるものになっていた。
演奏及び歌唱難易度でいえば「水玉模様の恋」より明らかに高く、はたして彼、彼女らに弾きこなし、歌いこなせるのか武夫には自信がなくなっていた。
けれども山根さんだけは楽曲の素晴らしさと完成度に感銘を受けたらしく、演奏を終えた武夫にひときわ大きな拍手を贈るのだった。




