第75話:なし崩し的演奏会
武夫がシンフォニアを弾き終えるころには、バンドの仲間たち全員が練習の手を止めて音楽室に集まっていた。そして演奏が終わると、しばらく余韻に浸っている様子だった三笠先生が拍手のあとにまくし立てるように語りだした。
「たいへん素晴らしい演奏でした。基本に忠実な演奏でありながら、細部にまでこだわった繊細で美しい旋律には大いに芸術性を感じました。目をつぶると、まるでバッハ本人が息子に手本を見せているような情景が脳裏に浮かび、それでいてしっかりと吉崎君を感じることができました」
べた褒めにされて面はゆい武夫だったが、彼としては雅美の手本にさえなればそれで問題はなかった。三笠先生が「基本に忠実」と評価してくれたことにはホッとしている彼だった。
「え~、もう終わり? もっとタケっちのピアノが聴ーきーたーいー!」
三笠先生が大絶賛し、雅美は決意を新たにしたように瞳に力が漲っている。他の面々もさぁこれから各自自分の練習を再開しようという場の空気になっていたが、空気を読まないというか、自由すぎる友子のリクエストだった。
けれどもそんな友子に、あろうことか三笠先生が乗ってしまったのである。
「そうよね、私も聴いてみたいわ。吉崎君どう?」
どう? と問われても武夫的にはどうでもよかった。ピアノを弾くのは好きだし、聴いてもらうことに喜びを感じないわけではない。
けれども、武夫的には三笠先生の演奏にも興味があった。高校で音楽の先生をしているということは、音大とかそれなりの教育機関で勉強してきたはずである。楽器を演奏できないということは考えにくい。だから聞いてみることにした。
「先生の専門の楽器はなんですか?」
「ピアノよ」
「それじゃぁ連弾しませんか? 雅美ちゃんも」
武夫は三笠先生と雅美を誘いつつ席の左に寄ってピアノを弾きはじめた。そのベースラインを聴いて三笠先生は曲目が分かったらしく、武夫の隣に座って主旋律を弾きだした。けれども武夫が振り返ると、雅美はピンと来ていないようだ。
――あちゃぁ~、雅美ちゃん知らなかったかぁ。しゃあない。
「先生と一回弾くから雅美ちゃんは聴いててくれる? 次に一緒に連弾しよう」
今二人で弾いているのはリベルタンゴだが、この曲なら雅美は一回聴けば合わせることくらいはできると武夫は確信していた。
アレンジは永山邸でセッションしたときのテクニカルなジャズアレンジではなく、素直な普通のピアノアレンジだが、それでも世界的な名曲ということもあるのだろうか、武夫的にはかなり楽しく演奏を楽しめている。
――でもまぁ、こんなものなのかな。
なにがこんなものなのか? それは三笠先生の実力であり、武夫の見立てでは雅美よりはかなり上手いが、妹の朋子ほどではないというものだった。けれども、実力は問題ではないのだ。あるていど弾ければ、というより音楽になってさえいれば彼的に連弾とかセッションは楽しい時間なのである。
もともと武夫のピアノの実力に対する判断基準は高すぎる傾向にある。対比する相手が超一流のプロであり、彼からすれば全日本ピアノコンクールで優勝した朋子ですらまだまだこれから伸びていくであろう存在なのだ。
武夫の認識では、いまのブランクがある雅美はまだまだ初級者のレベルであって、まずは感と筋力を取り戻してから受験に向けて実力を伸ばしていく必要があると考えていた。
それは三笠先生によって良い方向に否定されたわけであるが、それに武夫が納得したかどうかは別の話であって、彼的には朋子の指導をしてきた感覚からすれば、最低でも受験までに三笠先生レベルまでは押し上げることができると考えている。
そんなことは置いておくとして、三笠先生との連弾は武夫にとっても楽しい時間となった。一曲通して連弾してみて、そのことを実感した彼は、雅美にもこの楽しさを味わってほしくなった。
「雅美ちゃん、いけそう?」
「足を引っ張るかもしれないけど、なんとか」
雅美は自信なさげだったが、連弾の相手はしてくれそうなので、それだけで武夫は嬉しくて満面の笑みを湛えるのだった。そして二人の様子を見ていた三笠先生が気を利かせて雅美に席を譲ったのである。
「ミスしてもカバーするから大丈夫だよ。気楽に連弾しよう」
「うん、でもできるだけ頑張るね」
「じゃ、いくよ」
ベースラインを受け持つ武夫は、ときおり隣で演奏している雅美の真剣な横顔を見ては頬を緩めていた。雅美の演奏はリベルタンゴが初めてということもあって少々ぎこちないものであったが、たった一回聴いただけにしては上出来ともいえるものになっていた。
これだけでも、雅美の実力をミスさえ無くせば教育大学に合格できると断言した三笠先生の見立てが正しいであろうことが分かる。武夫的には彼女と楽しい時間を過ごせていることのほうが重要なのではあるが、彼女の夢も当然成就させてやりたいと思っている。
だから武夫は、途中から雅美を導くように彼女のミスをカバーしながら演奏していったのである。
「楽しかったね雅美ちゃん。はじめてにしては凄くいい演奏だったよ」
「ありがとう武夫君、わたしも楽しかったよ」
演奏が終わってホッとしたような笑みを浮かべている雅美の向こうに、ワクワク顔で歌いたそうにしている友子がいた。立て続けに楽しそうな連弾を観て自分も加わりたくなったのだろう。
雅美との楽しい時間を過ごせて満足した武夫だったが、ああなった友子を放っておくと面倒だと分かっているから、まだ時間もあることだしと再びピアノを弾きはじめた。
「この曲なら行けるよね。トモちゃんが歌いたそうにしてるからさ、もう一曲行こう」
「うん、フレンズだね」
武夫が弾いているのはこの年に大ヒットしたレベッカのフレンズである。リリースされたのは去年の一九八五年暮れだが、またたくまにレベッカをスターダムに押し上げた名曲で、友子のヴォーカルがぴったりだと彼は思っていた。
「トモちゃん、歌ってみようか」
「おっけ~い、まっかせて!」
武夫はこの曲のベースラインが前世で聴いたときから大好きだった。前世ではシンセと弦ベースで奏でられるこのベースラインに衝撃を受けたことを覚えている。
武夫がそのベースラインを小気味よく演奏している横で、雅美はキーボードで弾いたことがあるのか、初めてだったリベルタンゴよりも良い音を奏でていた。
そして友子が歌いだすと、さすがというべきか本家にも劣らないのではないかと思えるほどの歌声をマイク無しで披露し、その声に釣られたのか、隣の音楽準備室からドラムやベース、そしてギターの音までが合わせるように響いてきた。
さすがにフレンズは今一番ヒットしている曲だけあって、皆が知っているようだ。武夫たちはその後も帰宅時間が来るまで最近のヒット曲を演奏し、楽しい時間を過ごしたのだった。




