第74話:三笠先生の指摘とデモ演奏
雅美の演奏を一通り聴き終えた武夫は、その腕前がずいぶん錆びついていることに頭を悩ませることとなった。ミスタッチも当然あるのだが、それよりも途中で詰まったりしてテンポがぐちゃぐちゃになっていたし、最後の方は指が疲れたのだろうか、音のメリハリも無くなってどうにかこうにか完走できた感が強かった。
――こりゃそうとう鈍ってるな。まぁ、仕方が無いけど……。
武夫には雅美の腕が鈍った理由にいくつか心当たりがあった。彼女は一年近くまともにピアノを弾いていなかった。あの成績から今の高校に合格するために受験勉強に専念したのだから当然と言えば当然だが。
それでもキーボードはけっこう頻繁に触っていたからここまで鈍っているとは考えていない武夫だったが、そもそも鍵盤の重さや質感が違うのだから筋力が衰えているのだろうとすぐに察しがついた。
「言いにくいけど、けっこう鈍ってるね。定期的にピアノを弾いていろいろ取り戻さないと」
「うん、わたしもここまで弾けなくなってるとは思わなかったわ。ちょっとショックかな」
ずーんと沈んだ顔で力なくそう言った雅美だったが、その顔を見てこれはこれで可愛いと思ってしまう武夫は、かなりの重症なのかもしれない。中学を卒業して女性としての魅力が増している彼女に、最近武夫はドキッとさせられることが多くなっている。
「ん? どうしたの武夫君。やっぱり今日は体調が悪いんじゃない?」
「病なのは間違いないけど、白石さんが気にしているようなことではないわ。安心して」
「先生……」
いつの間にか武夫の後ろに立っていた三笠先生の言葉に、雅美はキョトンと首を傾げてさらに武夫の恋愛中枢を揺さぶり、顔を紅潮させてタジタジになっている。
ようするに武夫が雅美に好意を抱いていることは周囲にはバレバレなわけであるが、タジタジになる彼を皆面白がっているのか、二人の関係にあからさまに触れようとする者はいなかった。
それは置いておくとして、ニヤリと笑みを深めた三笠先生が武夫に問う。
「さっそくやっていたみたいだけど、白石さんの調子はどうだったの?」
「中学生のころと比べてかなり鈍ってますね」
その言葉に若干目を大きくした三笠先生は、あきれた感じで武夫を見ている。
「そうなの、聞いた感じじゃミスタッチさえなくなれば今でも合格はできるでしょうね。武夫君はちょっと基準が厳しすぎるかもね」
武夫はコンクールや発表会に出場したことがない。聴いたことがあるのも、そのほとんどが一流のプロか全日本ピアノコンクールで優勝した妹くらいだ。判断は全盛時だった中二のころの雅美を基準にしているが、それでは高すぎたらしい。
「そうなんですか? じゃあ全盛時の感覚を取り戻したら」
「全盛時がどれほどなのか私には分からないけど、確実に合格できるわ。白石さんはどちらかというと声楽のほうに力を入れるべきよ」
三笠先生の見立てに雅美は少々納得いかないというかガッカリした様子だった。キッと三笠先生を見た彼女が問う。
「でも、もっと上手くなった方が確実ですよね?」
「ええ、白石さんの言うとおりね。べつにピアノの練習を止めろと言っているわけじゃないわ。声楽の方に力を入れるだけよ。それにまだ二年半以上の時間があるわ。まだまだ焦る段階じゃないわよ。着実にがんばりましょうね」
「はい!」
ピアノの練習を止めなくてよかったのがよほど嬉しかったのか、それとも武夫にマンツーマンで教わることが嬉しかったのか、雅美は元気を取り戻したように嬉しそうな顔で返事をした。三笠先生は二人の様子を見てニマニマしている。
「そういうことだから、せっかく吉崎君がいることだし、お手本を見せてもらいましょう」
なにが「そういうこと」なのか武夫には分からなかったが、三笠先生が自分の演奏を聴きたがっているということだけは彼にも理解できた。いつのまにか発声練習をしているはずの友子まで三笠先生の横でニコニコしている。けれども武夫は、雅美も瞳をキラキラと輝かせていることだし、彼女の参考にもなるだろうから出し惜しみすることもないと思って了承することにした。
「しかたがないですね。一回だけですよ」
その言葉を聞いてサッと席を空けた雅美は、三笠先生の横に立って満面の笑みだ。期待感一杯の三人の様子を見て武夫は軽いため息をついた。けれども雅美の期待にだけは応えたいものだから、気を取り直して彼は席に着いた。
武夫は気持ちを演奏モードに切り替え、以前に学習したことがあるシンフォニアと作曲者であるバッハの歴史的背景を脳裏に思い浮かべながら曲を奏でていった。
けれどもこのときの武夫の演奏は普段の芸術性を前面に押し出したものではなく、音楽教育ということを念頭にした基本に忠実なテンポ、リズム、強弱、テクニックを踏襲した演奏であった。
三笠先生はすぐに武夫の意図に気づいたようで、目を若干見張りながらも隣で聴いている雅美に耳打ちした。その言葉を聞いた雅美の顔が、うっとりとしたものから真剣なものへと変わり、武夫の指使いや音の運びを見逃すまい、聴き洩らすまいとしている様子がありありとしていた。
それでも武夫の演奏が進むにつれ、そのおそろしく調和のとれた美しい旋律に、三人の聴衆は魅了されたように聴き入るのだった。




