第73話:将来の夢
直訴の結果、三年生の宿題が無くなり、二年生は一年時の最終成績をもとにした順位付けがなされてそれに応じた宿題が割り当てられた。もちろん上位百人は宿題無しだ。
そして一年生だけは、一学期の中間テストの結果で順位付けがなされて宿題が割り当てられることになった。それまでの期間は、全員に今までの三分の一に減らされた宿題が出されることになった。
放課後に音楽同好会の顧問になってくれた三笠先生から「ここだけの話よ」といわれて聞かされたことだが、直訴当日の職員会議で一年英語の岡田先生が最後まで宿題を減らすことに反対していたそうだ。けれども宿題の採点にうんざりしていた先生方が多く、多数決であっさりと宿題を減らすことが決まったらしい。
その後実施時期について議論がなされたらしいが、三年と二年は即日。一年だけは高校で勉強した範囲でのテストがまだだったことから順位付けは行われなかったようだ。最初は入試の順位で宿題の割り当てが行われるように決まりかけたが、岡田先生が中学と高校ではレベルが違うと強固に反対して一年生だけ定期テスト後になったらしい。
――少しだけでも自分の実績を残したかった? まぁ、どうでもいいか。
幸い武夫は岡田先生の授業を受けていない。岡田先生は武夫に良い印象を持っていないだろうから、関りが少ないことは良いことだと彼は思っている。仮に将来受けることになったとしても、彼の英語力は折り紙付きだ。障害になることはないだろう。
「あのっ、武夫君に相談したいことがあるの。じつは――」
宿題が三分の一に減って顔色がわりとマシになった雅美が、おずおずと武夫に話しかけてきた。バンドの練習が終わって個人練習に入ってすぐのことだった。
武夫は最初、再来週には初の定期試験があるから、その相談だと思ったらどうやら違ったようだ。
ちなみに一年で武夫だけは来週に全国模試があるから二週連続の試験になるが、それ用の試験勉強など彼は一切しておらず、今まで続けてきた勉強を継続している。
それは置いておくとして、武夫としては雅美の重荷になっていた宿題を大きく減らすことができて彼女の顔色が良くなったことでホッとしていたところに、また深刻な悩みでもあるのかと身構えて話を聞いてみたが、悩みは悩みでも将来の進路についてのポジティブな悩みだった。
「もちろん問題ないよ。今日からはじめる?」
「うん、そうしてくれると嬉しいな」
雅美の弾けるような笑顔に心臓をわしづかみされた気分なった武夫は、ドキドキと高鳴る鼓動を必死に抑えようとしたが、顔が熱くなっていくのを抑えられず、紅潮しているであろう顔を隠すように下を向いてしまった。
「武夫君、どうしたの?」
「い、いや、何でもないよ雅美ちゃん」
「武夫君、顔が赤いよ。熱があるんじゃない。体調が悪いの?」
「いや、これはそういうのじゃないから」
タジタジになってしまった武夫は、なんとか誤魔化そうと、隣の音楽室のピアノの前までスタスタと歩いていった。そんな武夫を横目に、他の仲間たちは各々楽器の練習に取り掛かっていて、友子は三笠先生に捕まって発声練習をしている。
「ま、雅美ちゃん。早速はじめようか」
雅美は小さくクスっと笑みを零し、嬉しそうな顔で武夫が下げてくれた椅子に腰を下ろした。
雅美が武夫に相談したこと。それは将来の進路についてだったが、具体的には中学か高校の音楽の先生になりたいということだった。けれども彼女の家庭の事情から学費が高額な音大に行く余裕はなく、進路は国立の教育大学一択になる。
音大は学力をさほど重視しておらず、このまま高校を卒業できれば学力的にはOKである。対して国立の教育大学は、学力もある程度重要で、偏差値でいうと50以上が求められ、その上で楽器の実力が無くてはならない。
しかしながら、偏差値60弱の高校に通っている雅美は結局のところ卒業できれば学力に関しては問題ないわけで、とどのつまり、楽器の実力がそのまま合否に関わってくる。彼女の場合はもちろんピアノだ。
「なるほど、バッハのシンフォニアだね」
「うん、さいしょはこれを練習したいんだけど、いいかな」
雅美は過去の教育大学実技試験の課題を調べていて、その楽譜を武夫に見せた。バッハやベートーベンあたりを押さえておけば問題ないようだ。ちなみにシンフォニアは、バッハが長男のために教材として作曲した小作品をまとめ直したものと言われている。
また、シンフォニアは曲名ではなく曲集であって、一分強の短い曲が多い。教材というだけあって、三つの声部――ソプラノ、アルト、テノールなどに相当するもの――が協和して響き合うよう演奏する方法を習得するための曲が十五曲集められている。
「じゃあ、とりあえず一回弾いてみようか。一番から順にね」
「うん、でもちょっと緊張しちゃうな」
「ピアノは久しぶりだからね。ミスっても気にしないでいいから通しで行ってみよう」
雅美がピアノを弾きはじめると、武夫は彼女が紡ぐ旋律を椅子の横に立って聞きながら、これからの練習方針を考えるのだった。




