第71話:直訴
先生への苦情というか直訴は翌日行われることになった。武夫は下村会長と高田前会長から去年や一昨年の状況や、宿題増を主導した先生、教頭と校長の人となりや性格を聞いて証言内容を考えることにした。
そして翌日の放課後、武夫は音楽同好会の面々に希望の光のごとき眼差しで見つめられていた。とくに雅美は彼の前に跪き、ウルウルとした瞳で仰ぎ見ている。他の面々も彼に大きな期待を抱いているのがありありとしていた。
雅美の場合、家に帰れば家事全般をこなす必要があるから宿題がよほど負担になっているのだろう。武夫としてはそんな彼女の窮状をなんとしてでも打開したいと思っている。今後の学生生活もあるから交渉を主導することは控えたいが、もし先輩方が説得に手こずるようなら、それも辞さない覚悟をもって交渉に挑もうと心に誓うのだった。
「武夫、俺たちの未来はお前の双肩にかかっている。なんとしても勝利を掴み取ってくれ」
「そうよ武夫君、わたしたちの未来は武夫君にかかっているわ。がんばってね!」
雄二の声は右から左にスルーして忘却した武夫だったが、雅美からの応援は『わたしたち二人の未来』と、脳内補完されて彼の心に刻み込まれた。
時間になり、交渉場所の生徒会室に赴いてドアを開けた武夫を、厳しい視線が射抜いた。
――あれはたしか一年一組の担任、岡田先生だったか。英語の担当だったはずだ。
武夫のクラスは別の先生が英語を教えているが、今も鋭い視線を彼に飛ばしている男は岡田といって、四十前後の縁が薄いメガネをかけた目つきが鋭い先生だった。
下村会長から聞いた事前情報では、彼が去年の三年生を担当していたときに宿題を大幅に増やした張本人らしい。増えた宿題は英語だけだったが、その結果三年生の英語の実力テストの結果が上昇し、国立大の合格者数が一割ほど増えたそうである。
その功績もあってか、岡田先生は一年の学年主任に抜擢されたらしい。その影響で、主要五教科の宿題量が爆増したというのがことの経緯だと武夫は聞いている。
「失礼します」
そう言って入室した武夫は、空いている下村会長の右隣の席に腰を下ろした。会長の左隣には高田前会長が目をつぶって腕組みして座っている。
大きくてチープな折り畳み式のテーブルを挟み、校長と教頭、そしてドア側の席、武夫の正面に岡田先生が座っている。校長は定年間近の頼りなさそうな男の先生で、禿げあがった頭をひと撫でして全員を見わたした。
「まだ五分前ですが、始めてもいいですか?」
下村会長が確認すると、中央に座っている五十過ぎのインテリを感じさせるやせ型の教頭が無言でうなずいた。
「では始めさせていただきます。議題はお手元の資料にある通り、宿題量の削減要請になります」
武夫は目の前に置かれているA4用紙数枚をホチキスで閉じた資料にざっと目を通した。そこには、宿題の量を半分以下に減らしてほしいという要望に署名した二年と三年の生徒数や、宿題に要している平均時間、宿題に要する時間が生活を圧迫している多岐にわたる内容などが列挙されていた。
署名とかアンケートは三年→二年の順に行われたが、一年の調査に入る前に生徒からの要望が強くなりすぎて交渉時期を早めたらしい。
「今現在二年と三年からしか聞き取れていませんが、ごらんのとおり、二年と三年の全員が宿題が多すぎると悲鳴を上げています。とくに受験を控えた三年の成績優秀者は宿題の難易度が低くすぎて受験勉強に差支えが出ていると訴える者が多く、また、たとえ難易度が適切であっても各自得意不得意がありますから、時間のコントロールや不得意分野の勉強ができなくなる宿題をやっている暇などないという意見が大勢をしめました。ですから生徒会からの要望としては三年の宿題撤廃および、二年と一年の宿題半減をお願いします」
黙って下村会長の話を聞いていた先生たちだったが、教頭が冷徹な一言で却下しようとした。
「職員会議で決まったことだ。その要望は却下する」
教頭の発言を聞いて、岡田先生だけがウンウンと頷いている。
「では、職員会議で決まりさえすれば、どのような理由があろうと生徒の意見は無視されるということですか?」
「そうとは言っとらん。学生の本分は勉強だ。どれほど易しかろうが難しかろうが宿題をすることが無駄とはならんよ」
さも一般常識であるがごとく発言した教頭だったが、武夫はその言葉にものすごい違和感を覚えていた。学生の本分は勉強だけではない。学ぶことだ。学びには学校で行う勉強以外にも社会経験だとか、その他にも多岐にわたって存在する。
教頭のあまりにも独りよがりな見識に、武夫が思わず口を開きかけたとき、高田前会長が、ダンッ! と両こぶしで机をたたき、猛然と抗議しはじめた。
「そんな狭い見識で生徒の意見を無視するのか! 学生の本分は学ぶことだ。決して勉強だけではない! それにだ、教頭先生は無駄などないと言ったな。じゃぁ聞くが、高校生にもなって九九みたいに容易なことを復習してなんの得があるのか説明いただきたい。今出されている宿題は我々難関国立大を目指す者にとってそれと同じくらい易しすぎる」
――へぇ、高田先輩、解ってるじゃん。
武夫は前会長が自分とほぼ同じ考えの持ち主だということに妙な好感を抱いた。見た目も言動もいわゆる熱血タイプの体育会系の高田前会長だが、理系にも通じる論理的な考え方と柔軟さを持ち合わせている。
武夫がそんなことを考えていると、やや下を向いてプルプルと顔をこわばらせていた教頭がキッと高田前会長を睨みつけた。
「狭い見識とはなんだ狭い見識とは! 君は目上の者に対する言葉を知らんのか!」
「話をすり替えないでいただきたい」
高田前会長は極めて冷静な顔つきで教頭を見ている。
「教頭先生、今の議論は高田君に分があるよ」
置物のように存在感を薄くして、云わば傍観していた校長が穏やかな声で教頭をたしなめた。教頭は悔しそうに口を引き結んで顔を赤くしている。
「教頭先生、生徒の中には母子家庭や父子家庭で家事で忙しい者もいます。家業を手伝わなければならない者もいます。帰宅後は自分の趣味に没頭したい者もいます。部活で疲れて体を休めたい者もいます。人それぞれなんですよ。学内での勉強ならまだしも、学外での行動を縛る権利は先生方にはないと思うんです。それを踏まえて三年は宿題無し、一年二年は宿題を半分に減らしてほしいというお願いなんですが」
下村会長の諭すような訴えに、校長はウムウムと頷いているが、教頭と岡田先生は顔を赤くしたままだ。
「どうかね教頭先生、岡田主任。私には下村君の訴えには耳を背けるべきではないと思うんだがね」
下村会長と同じく校長は諭すように問いかけたが、教頭は少しの間をおいてすがるような視線で校長に訴えかけた。
「ですが校長先生、宿題の増量は国立大の合格率を確かに引き上げたんですよ」
「たしかに教頭先生が言うとおりなんですが、九州大と熊本大の合格者は減ってますよ。成績優秀者にとってあの宿題は無駄以外の何物でもないとデータが示しています」
「そうは言うが……」
下村会長の反論に分が悪いということをあらためて理解したのだろう、教頭の言葉は歯切れが悪く、勢いも無くなっていた。そんな教頭を横目に、下村会長が武夫へと視線を向けた。今が攻勢のかけ時とでも考えたのだろう。
「吉崎君は一年の成績最優秀者としての立場で、今の宿題に対してどう思っているのか聞かせてくれないか?」
「個人的な感想でいいですか?」
「もちろん構わない」
「私の場合は今出されている宿題はそれほど苦にはなっていませんが、高田先輩と同じで時間の無駄でしかありません」
下村会長と高田前会長は武夫の言葉に少しだけ目を大きくし、高田前会長が問いかけた。
「それほど苦にならないって、二時間はかかるだろうに」
「いえ、私の場合は三十分程度で終わります」
下村会長と高田前会長は目を丸くしているが、意外なことに、武夫の返答に対して即座に反応したのは岡田先生だった。
「三十分で終わるだと? 半分は予習の意味で教えていない範囲からの出題なんだぞ」
「はぁ、私は中学在学時に高校で習う範囲は学習を終わらせていますので」
実際には小学六年時にはほとんどの教科を高校の範囲まで学習し終えていた武夫だったが、そんなことをひけらかす意味もないと考えて中学在学時と発言したのだった。
けれども、にわかには信じがたいことだったようだ。室内はシンと静まり返り、遠くから吹奏楽部が練習している管楽器の音が僅かに聞こえてきた。
「吉崎君は入学試験で全教科満点だったそうだね」
穏やかな口調で問いかけてきたのは校長だった。
「はぁ、そう聞かされましたが」
「それほど優秀な君はなぜウチを受験したんだい? 県内外問わず、どの高校にでも合格できただろうに」
「一番の理由は家から近かったからです。ですからたとえ三十分という短い時間でも私にとって宿題はマイナスでしかありません」
「そうか、通学時間か……」
校長は得心がいった様子でそう呟いた。けれども岡田先生は納得できなかったようだ。
「一日たった三十分だぞ。それが無駄な時間だと?」
「たった三十分でも積み上げれば一年で百八十時間を越えますよ。それだけの時間があれば小説が一冊余裕で書けます」
「小説?」
訝しむ岡田先生に対し、武夫は内ポケットから取り出した名刺入れから、ピアニスト兼作家と書かれた自身の名刺を差し出した。
「あ、私は一応プロの小説家です。本屋に行けば私が執筆した小説が売り出されているはずです。そんな理由で時間はとても大切なんです」
武夫はいわゆるペンネームを使わず実名で小説を書いている。
それは置いておくとして、武夫の言動に先生たちも先輩方もポカンと口を開けてしばし固まっていた。そんな中で一番に復帰した校長が静寂を破った。
「まぁそれはいま、置いておきましょう。どうですか教頭先生。これだけ多くの生徒からの訴えでもありますし、困っている生徒も多そうですから無視はできますまい。とりあえず下村君の要望通りにしてみては」
「いや、それは……」
言いよどむ教頭に、このままではらちが明かないと思って武夫は一つの案を提示することにした。
「教頭先生、宿題を減らして学力を今より上げる方法がありますよ」




