第68話:顧問
三笠先生はパイプ椅子に姿勢よく座って聴く態勢になった。武夫は椅子に座ってグランドピアノの調子を測るように指慣らしも兼ねた練習用の旋律を奏でた。友子は三笠先生の前に立って嬉しそうに笑みを湛えている。
友子はどんなときでも歌えるのが嬉しいようで、状況にかかわらずプレッシャーとかで委縮しているところを武夫は見たことがない。
雄二たち残りの仲間は楽器がないから仕方がないが、三笠先生に並ぶようにパイプ椅子に座って武夫と友子を見ている。本来ならばそれぞれが専用の楽器で演奏に参加したほうがバンド本来の実力を示せるのだが、友子の歌を聴いてもらえるだけでも大きなアピールになると武夫は考えた。
指慣らしを終えた武夫が、すこしの間を空けて『changing myself』のイントロを奏ではじめた。ピアノの伴奏で歌うことに友子は慣れていないが、彼女の音楽センスならミスはしないだろうと信じれるくらい武夫は彼女のことを信頼している。
三笠先生は、イントロのピアノ演奏を聴いたとたんに、というか指慣らしの段階から武夫を凝視していた。そして友子が歌いはじめると、目を若干ではあるが大きくして、すこし前のめりになって歌声を聴いている。
Aメロ、Bメロ、サビと曲が進むにつれて三笠先生は前のめりになって、武夫がアレンジされた超絶技巧のピアノソロを弾きはじめると、席を立って彼を凝視した。そして演奏が終わると、彼女はひとり大きな拍手をしてニヤリと意味ありげな笑みを湛えた。
「歌も伴奏も素晴らしかったわ。とくに吉崎君、あなたの実力には驚かされました。ヴォーカルの娘にも並外れた素質を感じたわ」
とりあえず良い評価を貰えたようで安堵した武夫だったが、三笠先生が放った次の一言に、諦めにも似た心情にさせられてしまう。
「それと吉崎君、あなたはプロのピアニストですよね。まさかとは思いましたが演奏を聴いて確信しました」
聴く人が聴けばやはり解るということかと武夫は思ったが、一応聞いてみることにした。
「どうして解ったんですか?」
「私があなたのレコードを買った一人だからよ。もう何十回も聴いているから間違えようがないわ」
まだ売り出されて一週間も経っていないはずなのに、もうそんなに聴いたのかという驚きより、よくたどり着いたなというか見つけたなという驚きの方が武夫のなかでは大きかった。
「よく見つけられましたね」
「予約していたもの。発売日に買ったわ。雑誌であれだけ絶賛されていたのよ。聴かないわけにはいかないでしょう」
雑誌が持つ影響力の大きさを、武夫は完全に過小評価していたとこのとき痛感したのだった。いくらマニア向けというか専門的な雑誌だったとしても、全国区の雑誌ともなればこんなふうに身近に購入者がいるかもしれない。彼はそう思い知らされた。
それはさておき、問題は三笠先生が顧問を引き受けてくれるかどうかだ。彼女がダメだった場合、学内での表立った活動は諦めるしかなく、練習で音楽室を使わせてもらうための交渉に切り替える必要がある。
「そうだったんですか、それで話は変わりますけど、顧問の件は引き受けていただけますか?」
武夫の問いに、雄二たちがごくりと唾をのむ音が聞こえてきた。そして三笠先生はメガネの端を摘まんでクイッと上げ、答えた。
「ええ、引き受けましょう。但し」
「但し?」
雄二が小声で「しゃぁ!」と歓喜の握りこぶしを握った後、顔を引き締めてオウム返しで聞き返した。
「吉崎君、あなたは文化祭でピアノの演奏をしてください。練習も学内で行ってもらいます。これは批判的な先生たちの目を躱す意味でも重要なことです。そしてあなた」
三笠先生に見つめられた友子は、「ほへっ?」っと間の抜けた顔で首を傾げながら自分を指さした。
「そう、あなたです。あなたには素晴らしい素質がありますが、まだまだ声の使い方がなっていません。私の指導のもと、声楽を学びなさい」
「セイガク?」
「そう声楽、声の学問です」
「はぁ」
――あれは解ってない顔だな。まぁそれはいいとして、もともとピアノの練習には力を入れていく予定だったし好都合だ。
「それから、他のあなたたちは自分の楽器を持ってきた後に改めて聴かせてもらいます」
「ドラムセットとキーボードがあるんですが、学校に置いておくことはできるでしょうか?」
雄二の問いに三笠先生は優し気な笑みを返した。
「問題ありません。準備室で預かりましょう。それと吉崎君、あなたもバンドの一員ですよね? 楽器はなにを?」
「一応リードギターを担当してます」
三笠先生は興味深そうにメガネの奥の瞳を輝かせた。ピアニストがギターを弾くと聞いて怪訝な顔をする人に武夫は何人か会ってきたが、瞳を輝かせた人ははじめてだった。
「そうですか、ではギターの演奏も楽しみにしておきましょう。同好会の申請書は生徒会が管理していたはずです。必要事項を書いて持ってきなさい。生徒会室に行けば誰かいるはずです」
その言葉を聞いた雄二が、「今から行ってきます」と言って音楽室から走り去った。
「あらら、もう行ってしまったわ。しょうがないわね。彼を待つ間、吉崎君、ショパンを一曲弾いてもらえないかしら」




