第64話:高校受験
一九八六年三月五日水曜日。
今日はセクストグリントというアマチュアバンドが存続するか否かを決する運命の日、と言えば大げさすぎるのかもしれないが、若干三名にとっては大げさでもなんでもなく、切実な問題だった。
「――プラスマイナスルートb二乗マイナス4ac……」
雄二は送迎のバスの中で死にそうな顔になって呪文を唱えている。
――今になって解の公式って、大丈夫なのか? そういえば……。
雄二は数学以外目標偏差値に届いていたなと武夫は思い出した。けれども、彼が三人の中で一番危ういのも確かだった。友子も数学が苦手だったが、正彦による徹底的な叩き込みによって偏差値で55近辺まで押し上げられていた。総合的には三人の中で一番偏差値を上昇させたのが彼女だ。
けれども、武夫にとって最も重要なことは雅美が合格することである。最悪、彼女さえ合格できれば彼の人生設計においてさしたる問題はなかった。
とはいえ、三年近く苦楽を共にしてきた仲間たちだ。高校がバラバラになって解散するのも、一人か二人が抜けていくのも寂しいものがある。バンドとしても形になりつつあって、このまま続けていきたいという思いも武夫の中にはあった。
それはさておき、雅美の学力であるが、正直言って楽観視はできない。彼女の偏差値は最終的に60近くまで上昇することができた。それだけ彼女は頑張ってきたし、武夫も協力を惜しまなかった。
けれども、ボーダーを僅かに超えたくらいまでしか学力を伸ばすことができなかった。武夫としては彼女の学力をもっと押し上げるつもりでいたが、見通しが甘かったというほかない。彼の敗因は、自分を基準にしてしまったことだ。まぁ、まだ負けたわけではないから敗因とは言えないだろうが。
中二のあの時点で受験対策を進言してきた千佳子に、武夫は拍手喝さいを送りたい気分だった。もしあのとき彼女が進言してくれなかったら、雅美の学力がここまで伸びることはなかっただろう。
とはいえ、雅美の学力がボーダーラインを僅かに超えたところにいることは変えようがない事実だ。
「雅美ちゃん、答えがすぐに出てこない難しい問題があったら、迷わず飛ばして次の問題に取り掛かるようにするんだよ。これが一番大事なことだから」
「うん、簡単な問題から解くんだよね」
試験において勉強してきた力を充分に発揮することも重要だが、分からない問題は飛ばして後回しにするという基本テクニックを忘れてはいけない。良い点を取ろうとするあまり、取りこぼしを嫌って難しい問題に時間を取られ、最終的に時間が足りなくなることはよくあることだ。
入試本番でこれをやってしまうと目も当てられない結果になる。だから武夫はことあるごとに雅美に言い続けてきた。
「そう、試験で一番やっちゃダメなことは無駄な時間を使うことなんだ。だから答えに迷った時も印だけつけて次の問題にとりかかるんだ。迷ってる時間がもったいないからね」
「うん、ちょっと怖いけど精一杯やるよ」
散々雅美の心配というか世話を焼いている武夫だが、彼自身はとっくの昔に受験対策は終わっていた。彼の偏差値は75オーバーであり、学区内トップの公立高校はおろか、日本トップレベルの高校でさえ合格できる学力を有している。
進路指導の先生と武夫は何回かそのことでやり合った経緯があった。「なぜ学区内一番の公立高校や超有名私立を受けないのか?」と何度も聞かれた彼の答えは「家から遠いからです」という実にあっけないもので、進路指導の先生を呆れさせていた。
武夫的にはどこの高校に行こうが、大学受験には影響しないと考えていた。現時点ですでに目標の旧帝大に合格できる自信が、彼にはあるからだ。
それはさておき、バスは事故ることなく試験会場である高校に着いた。武夫は緊張している様子の雅美を気遣ってこれ以上の言葉をかけることはなかった。代わりに頭をポンポンと撫で、サムズアップをして席を立った。
試験を受ける教室に入るとき、武夫は振り返って雅美の顔を見たが、彼女はぎこちないながらも笑みを返してくれた。
――やっぱ緊張するよな。でもあれだけやったんだ、雅美を信じよう。
武夫は自分のことなど微塵も考えず、試験中は斜め前の席で一生懸命問題を解いている雅美の様子をチラチラと伺いながら回答を書き込んでいる。彼にとって公立高校の試験問題は容易すぎて、考える必要すらなく反射的に答えが頭に浮かぶ状態だった。
一教科目、二教科目と試験が進んで行くうちに、雅美の緊張がほぐれていることが武夫にはわかった。三教科目の社会を終えてバンドメンバー全員集まって弁当を食べたとき、彼女の顔から試験前にあった不安の色が消え去っていることに彼は気づいた。
――出来は良さそうなのかな。
二教科目の数学の出来が良かったのかもしれない。そんなことを考えながら弁当を食べ終え、午後からの試験に挑んだ武夫たちは、受験を終えると悲喜こもごもな雰囲気の送迎バスで帰途に就いたのだった。
そして迎えた合格発表の日、武夫たちバンドメンバーは、途中で待ち合わせをして目的の高校へと向かったが、張り出された合格者の受験番号をドキドキしながら見ていくと。武夫はもちろんのこと雅美の受験番号も張り出されていた。
「やったね、雅美ちゃん。合格おめでとう」
「武夫君もね。全部、ぜーんぶ武夫君のおかげだよ」
雅美が無事合格したことで、武夫的には肩の荷が下りたというか、これでやっと念願だった彼女とのバラ色の高校ライフがはじまるのだと感極まる思いだった。
けれども、バンドメンバーの中で一人だけ、がっくりと肩を落として項垂れている人物がいた。武夫がその人物の受験番号を探してみたものの見つからない。
雄二ただ一人だけが不合格だった。




