第63話:レコーディング
中三の夏休みも終盤に差し掛かったころ、武夫は一人で電車を乗り継ぎ、福岡市内へと出て来ていた。今日はピアノ演奏のレコーディングをすることになっている。
地下鉄の天神駅で下車した武夫は地下街を早足にスタスタと歩き、地上に出ると寄り道することなくレコーディングが行われるスタジオへと急いだ。
レコーディングは三日から四日をかけて行うと伝えられている。東京に行ってコンサートなりリサイタル鳴りを行う場合と変らないではないかと思われるかもしれないが、武夫のなかでは、それは全く違う意味合いを持っていた。
それは、日帰りできるかできないかということだ。この差は武夫にとって大きかった。本音ではレコーディングも高校入学後に延期してほしかったが、日帰りできるなら何かあったときに中止して対応できると思ってこの話を彼は受けた。
しばらく歩いてスタジオに到着した武夫が腕時計に目をやると、9時55分を示していた。
――なんとか間に合ったな。
武夫は少しだけだが焦っていたのだ。朝起きて彼が出かけようとしたら、ネコのハナが玄関前で行く手を阻むように見つめてくるのだ。彼はそれで出かけるのを躊躇してしまい、しばらくハナを撫でていた。そのおかげでバスを一本乗り過ごした経緯があった。
それは置いておくとして、今日の武夫は少しだけ気合が入っていた。というのも、一日でレコーディングを終わらせてしまおうと企んでいるからだ。
ピアノの演奏にミスはつきものだ。プロであっても小さなミスは出ることが多い。プロはそのミスをミスと感じさせないようにコンサートやリサイタルで演奏している。しかし、スタジオ録音ともなれば小さなミスであっても確実に音として残るわけだから、演奏のやり直しになる。
そういうこともあっての日程なのだろうが、武夫はことピアノの演奏においてとにかくミスをしない。彼でも自分の演奏が気に入らないことはよくある。けれども、ミスタッチゼロは当然としてテンポや間、音の強弱や大小、揺れや響きにまで細心の注意を払い、充分に気持ちを乗せた演奏ができれば、一発でOKが出ると彼は思っている。
「時間どおりですね、吉崎さん。おはようございます」
スタジオに入った武夫に、まだ三十にはなっていないだろう女性が声をかけてきた。彼女は紺のスーツ姿で、会釈したときにショートのクセっ毛がふわっと揺れていた。ちなみに武夫はラフなポロシャツとジーンズ姿で、とてもこれから一緒に仕事をする間柄には見えない。
「山根さん、お早うございます。すぐに録音に入れますか?」
「ええ、レコーディングスタッフはもうスタジオ入りしてます」
「では案内してもらえますか?」
「ええ、今日はよろしくお願いしますね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
挨拶もそこそこに武夫は担当の山根女史に連れられて、録音機材が所狭しと並ぶレコーディングルームに通された。そこには三十代であろう男性が二人、武夫たちを待っていた。
「おはうございます。こちらがピアニストの吉崎武夫さんです」
「おお、若いピアニストだねぇ。私はレコーディングエンジニアの廣瀬です。こっちは助手の高田。今日からよろしくね」
「一応? ピアニストの吉崎です。今日はよろしくお願いします。早速指慣らししたいんですけどいいですか?」
武夫は大きな一枚ガラス窓越しに見えるグランドピアノを、自分の肩越しにサムズアップのように立てた親指で指さした。
「やる気だねぇ。もちろん構わないよ」
「あ、指慣らしの音、本番の設定で録音しといてもらえます? どんな音になるのか聴いてみたいので」
「真面目だねぇ。OKOK、ちゃんととっとくよ」
武夫はドアを開けて演奏ルームに入ると、両手の指を組んで指を動かして軽い準備運動を済ませ、さっそく音を確かめるようにピアノを弾きはじめた。
武夫が奏でているのは、毎日ルーティンでやっている指慣らしだ。レコーディング当日だからこそ毎日のルーティンを守ることが大切だと彼は思っている。
約五分の指慣らしを終えた武夫は、さっそくレコーディングルームに戻って音を聴かせてもらった。
――やっぱプロが使う機材はスゲーな。音の劣化が全くない。でも……。
武夫には生で聴く音と再生された音の僅かな違いが聴きとれていた。けれどもそれは自分の技術で修正可能でもあった。
「じゃあ一曲目を弾いてみます。テストですけど、また録音お願いします」
「OK」
武夫はピアノに戻ると、本番のつもりで集中力を増していった。そして彼が弾きだした曲は、バラード第1番ト短調Op.23だった。
この曲は重低音から入り、高低音が入り交ざったとてもテクニカルで壮大な曲だ。難易度も非常に高く、ショパンのなかでも武夫が好きな曲である。
担当の山根さんとの打ち合わせで、彼女は有名な人気曲ばかりを押してきたが、武夫はどうしてもこの曲をアルバムに入れたかった。だから初っ端にバラード1番をねじ込んであとは彼女に選曲を任せた経緯があった。
本来は選曲と曲順には充分な知識と考察が必要だが、レコードの片面が三十分という時間制限があるのと、山根さんのほとんどごり押しの選曲を見た武夫は、考察に時間をかけることを諦め、曲順にだけ注文をつけている。
それは置いておくとして、武夫の演奏はメリハリが効いた充分に壮大なものとなって、本人も満足できるものになった。
「私、こんなに凄いスタジオ演奏初めて聴きました」
山根さんは目に涙を浮かべていた。武夫はそんな彼女には微笑みを返すだけにして早速録音を再生してもらった。
――まだちょっとだけ低音に違和感があるな。響きとキレにほんのすこしだけど。
「ありがとうございます。次、本番行きます。四曲続けて弾きますんで」
「えぇ~、この録音捨てちゃうの? 完璧だと思ったんだけどなぁ。それに一曲づつ確認しないの?」
「はい、今ので分かりましたから」
レコーディングエンジニアの廣瀬さんは呆れたような顔をしていた。けれども武夫的に違和感がある録音を残したくないし、今日一日でレコーディングを終わらせるためにも時間が惜しかった。
「そうかぁ~。まぁ、好きにするといいよ。アーティストが納得いかないなら付き合うしかないしね」
口ではそう言っても、まだ惜しそうな顔をしている廣瀬さんを置いて、武夫はさっさとピアノへと移動し、椅子に座ると深呼吸をした。
――よし、そろそろいくか。
一曲目は先ほどと同じだが、違和感を消すような微調整を武夫は行っている。集中力は充分、体力も気力も充分、指先にも問題はない。録音のクセも掴んだ。そんな彼が紡ぎだす音で演奏ルームとレコーディングルームは満たされていた。
武夫は続けざまに、幻想即興曲嬰ハ短調Op.66、ポロネーズ第6番変イ長調Op.53-6、ノクターン第2番変ホ長調Op.9-2と、一枚目A面の曲目を弾き終えた。
――ふぅ、ミスはなかった。
レコーディングルームに戻った武夫が見たのは、ポカンと口を開けて固まっている廣瀬さんと、目を手の袖でゴシゴシぬぐっている山根さんだった。
「ミスはなかったと思うんですけど、一応聴かせてもらえますか?」
「あ、ああ、良かったんじゃないかな。でも、一発で決めるとは驚いたね。君はとんでもないピアニストだったんだね」
廣瀬さんは理解するのを諦めたように、半ば投げやりな口調でそう言うのだった。
その後武夫は山根さんに昼食を御馳走になり、スタジオに戻って一休みしたあとは、立て続けに一枚目のB面、リストの楽曲を収める二枚目のA面B面と全て一発で録音を終わらせることに成功したのだった。
「驚いたよ。まさかたった一日で仕事が終わるとはね。凄いものを見せられた感じだ。明日から三日暇になるなぁ――」
廣瀬さんはしばらく、愚痴ともお礼とも賞賛ともとれることを武夫に言っていた。山根さんはただ驚き、感動していただけのようだ。
こうして武夫のレコーディングは一日で終わり、彼は受験へと気持ちを切りかえたのだった。




