第62話:中学三年生の夏休み
武夫たちが同じ公立高校を目指すことになってから、すでに半年以上が経過していた。中学校は今日から夏休みであり、今、中学三年生になった武夫の家には雅美が勉強に訪れている。
雅美の学力は、武夫が勉強を見だしたときは直近の実力テストで偏差値45ほどだった。目標としている公立高校の合格ラインは偏差値60弱。だから彼女は最低でも今の学力から偏差値を15以上上げる必要があった。
雅美の苦手科目は数学と理科で、得意科目は国語だった。典型的な文系タイプだ。武夫は理系教科が前世では得意だったが、今世では弱点科目が無くなるように幼少時から徹底的に勉強してきたため、苦手科目がない完全なオールラウンダーとなっている。
そんな武夫が、自分の勉強経験をもとに組んだ雅美の勉強スケジュールというかカリキュラムを、ときどき涙目になる彼女を励ましながら、しかし内心では彼女に悪いと思いながらもめったに見れない特別に可愛い顔が見れたと喜びながら付きっ切りで実施したものだから、彼女の成績は当然のように上がっていった。
夏休み前に行われた実力テストで、雅美が叩きだした偏差値は55だった。目標まであと少し。けれどもまだ足りないし、余裕も欲しいから今も武夫が付きっ切りで彼女の勉強に付き合っている。
ところで、武夫は毎年夏休みには東京行脚を行っていたが、今年は高校受験が近いということで無しということで話は落ち着いている。契約しているレコードレーベルの担当者とは少々モメたが、人生に関わることだからと武夫は譲らなかった。同じレーベルに所属している永山先生の援軍もあって、最終的には福岡市内のスタジオで一日だけレコード用の音源を録音するということで話がつき、担当があとから「無理言って悪かった」と謝ってきた。電話でだが。
だから高校受験が終わるまでは、武夫のプロ活動は一時ほぼ休止になる。彼自身は受験勉強などする必要はないが、雅美を合格させるために全力で動いている。
「お兄ちゃん終わったよ」
自分の部屋でマンツーマンで雅美の勉強を見ていた武夫に、ドアの外から声がかかった。時間は14時を回ったあたりのことである。
朋子の声を聞いたとたん、死んだ魚のような目をしていた雅美の瞳がキラキラと輝きだした。朋子がこうして武夫に声をかけたということは、彼のピアノ練習の時間になったということである。
「もう時間か。雅美ちゃん、今日は終わりにしようか」
「やった! もうへとへとだよ」
バンドメンバー全員で同じ公立高校に行ってバンド活動を続けられるように、今のうちから受験勉強をはじめようと千佳子が提案したあの日から、武夫は毎日雅美を家に招くようになった。それ以前もことあるごとにネコに会うために彼女は武夫の家に上がり込んでいたが。
武夫が教えているのは平日は一時間、休日は二時間だが、雅美がきっちりその時間で帰宅することはほとんどない。勉強が終わるとネコの相手をするか、武夫のピアノ練習を見学するか、朋子とおしゃべりをするか、なにかと理由を付けて18時過ぎまでこの家に滞在している。
雅美の母は21時過ぎに帰宅することが多いらしく、それまでに帰宅して自分と母の夕食準備と、その他の家事をするのが彼女の役目らしい。
それは置いておくとして、武夫がピアノ練習するときはほぼ必ず朋子が見学に来る。雅美もこの家に滞在していればほぼ確実に見学をしていくようになった。
武夫の家のピアノ室の隅には黒く小さな丸テーブルと椅子のセットがあって、朋子と雅美はその椅子に座り、彼のピアノを聴きながら優雅に紅茶をたしなむというのがここ最近よく見る吉崎家の光景だ。
「あら、ハナちゃんが入りたがってるわ」
武夫が弾く指慣らしのピアノの音に混ざって、締め切られたドアからカリカリと音が聞こえている。朋子が立ち上がると、音を立てずに歩き、そっとドアを少しだけ開けた。
すると武夫が助けたネコのハナは、空いた隙間からスルリと身をよじらせるように、しかし尻尾はピンと立ててピアノ部屋へと入ってきた。そしてネコ独特の滑らかな動きで武夫の足元まで歩き、彼の足へと頭をスリスリ擦りつけている。
「やっぱりハナは武夫君が一番なんだね」
雅美は羨ましそうに武夫にまとわりつくハナを見ている。武夫はしばらくハナの好きにさせていたが、頭をひと撫でするとピアノを弾きはじめた。するとハナは、彼から少し離れた位置まで歩いてちょこんと座り、静かに彼をじっと見ていた。
武夫が今練習しているはレコーディングする予定になっている曲たちだ。曲目はマネジメントの担当者との打ち合わせでショパンとリストに決められ、二枚組のアルバムをリリースすることになった。
担当の話では、武夫の知名度を考えれば売れても数万枚らしいが、それでも売り出す価値が充分にあるそうだ。武夫にはコアなクラシックピアノのファンがついていて、確実に数万枚の売り上げが見込めるのが大きいらしい。
仮に二枚組み五千円だとすれば、二万組み売り上げれば一億円になる。それは確かに大きな数字だと武夫は思うのだった。




