第49話:授賞式
いつもより遅い朝を迎えた武夫は、もう午前八時を過ぎていることに軽く焦りながらも朝食を御馳走になり、カジュアルなブラウンのスーツに着替えて永山邸を一人後にした。
今日は午前十時から出版社で編集者との顔合わせと軽い打ち合わせがある。武夫は前世の記憶を頼りに電車を乗り継ぎ、十時少し前に無事出版社に到着できた。
「まだ新しいけど変わってないな」
前世を思い出し、ビルを見上げながら武夫は少しだけ感慨に浸っている。けれども、前世は前世だ。今世では前世とは全く違う人生を歩んでいるし、それなりの努力を積み重ねてきた自信が彼にはあった。
――ずいぶんと締め切りで泣かせてきたからなー。
それでも前世の記憶は確かに武夫の中に存在しているのだ。完全に捨てきることなどできやしないし、その必要性も感じていなかった。
――今世では楽させてやらないとな。
そんなことを考えながら武夫は受付を済ませ、呼び出された担当者に連れられて小さな会議室に入室したのだった。
――奥田さん若い!
受付に呼び出された担当者は、前世で武夫の担当編集を長らく務めていた奥田民子という人物だった。彼女は小会議室に入ってすぐに名刺を渡してきた。武夫も永山さんに言われて名刺を作っていた。彼はつられるように胸の内ポケットから名刺を取り出し、彼女に渡す。
「編集の奥田と申します」
「私も名刺は持ってました。吉崎武夫です」
本来は同時に受け渡すのが礼儀だが、奥田さんは武夫が名刺など持っていないと判断したのだろう。なにせ彼はものすごく若いし。
「まだお若いのに名刺を作られたんですね。え!? ピアニスト兼編曲家……ですか?」
「あ、はい。いちおうそれでお金を貰ってますし」
奥田さんは武夫と対面するように席につくと、何かを言いたそうにしていたが、下を向いて黙り込んでしまった。
――変わってないな~。若いけど。
考え事をするときに、たとえ人前であってもこうやって下を向いて黙り込むのが彼女の悪いクセだった。そして考えがまとまると。
「これからも小説は書かれるんですよね?」
ガバッと顔を上げて間を置くことなく、早口になってまくしたてるのだ。
「もちろんそのつもりですが」
「よかった。それでは早速ですが」
そう言って奥田さんは、大きな茶封筒から数百枚に及ぶ分厚い紙束を取り出した。
「大変よくできた面白い作品でした。大賞を取れなかったのは残念ですけど、この作品は売れます。いえ、売ってみせます」
――このセリフにも覚えがある。当時彼女は四十を超えていたはずだが、このころからこんな感じだったのか。
「それでですね、売るためにはやはりというかなんというか……」
「改稿ですよね」
奥田さんは大きくうなずいて、原稿を押し出すように武夫の目の前に置いた。前世での経験から武夫には分かっていたことだが、出版社の編集という生き物はどれだけ改稿を入れてブラッシュアップをした作品であっても、よりよくしたいという欲を抑えきれないものだ。
問題はどの程度の改稿を迫られるかということで、渡された原稿を武夫はパラパラとめくっていった。
――まぁ、こんなもんだろうな。
前世で経験した大幅改稿まではしないで済むようだった。エピソードの掘り下げとか登場人物についてのエピソード追加とかが数点ある程度だ。
「この程度なら問題ありません。ところで、改稿をするということはもう出版が決まったということですか?」
「今は仮決定の段階です。最終的には編集会議で決まるのですけど、絶対に通して見せます」
自信ありげに奥田さんはそう言った。
――そういえば、前世でもこんなやり取りあったな。あのときは大幅改稿だったけど。
武夫的には拍子抜けするほど少ない改稿だった。集中して取り組めば一週間もかからないで終えることができるだろう。けれども、今世では小説だけに力を入れるわけにはいかないのだ。
「小説だけに時間を割くことができないから、一か月ほど時間をいただいてもいいですか?」
このあたりが奥田さんが待てる限界だと武夫は知っていた。前世の知識は有効に使わせてもらうべきだろう。
「一か月ですか、もうちょっとなんとかなりませんか?」
「もうすぐ受験勉強も始まりますし、楽器の練習も音楽関係の仕事も止めるわけにはいかないんですよ」
奥田さんはしばらく考え込むように下を向いたが、ガバっと顔を上げて言った。
「仕方ありませんね。吉崎さんはまだ中学生ですもの。お仕事も高校受験も大切なことですからね」
「分かっていただいてありがとうございます」
「でも、吉崎さんは中学一年生だというのにずいぶんしっかりされてますね。小説の文章にもそれが出ていましたよ。誤字がほとんど無いし、ベテラン作家さんなみの描写力にも感心しました」
「あまりおだてないでください」
――まぁ、チートもいいところだからな。
「では、お昼までまだ時間がありますから改稿内容を一つづつ説明しますね」
この時代はまだパソコンが普及していない。メールでやり取りなんて便利なツールは使えないから時間がある限り対面で話し合うというのは当然の成り行きだった。
武夫は十二時過ぎまで奥田さんと打ち合わせを続行し、近場の店でちょっと豪華な和定食を奥田さんとともに頂いたのだった。そして午後からは授賞式が執り行われ、武夫は賞金を手にした。今の武夫からすれば額は大したことない。けれども編集長にも顔を覚えてもらい、描写力を褒められた武夫だった。
授賞式を終えて出版社からの帰り際、武夫は二枚の紙きれをリュックから取り出し、奥田さんに手渡した。
「これ、良かったら聴きに来てください。会場もここから近いですし、時間があればで構いませんから」
それは「永山栄一と吉崎武夫のピアノリサイタル入場券」と印刷された二枚のチケットだった。




