第39話:妹
中学一年の秋も終わって十二月に入った。武夫の身長は167cmまで伸びている。伸びの勢いがかなり落ちてきていて、彼の焦りは大きくなってきている。なあんとかあと3cm。それだけ伸びてくれれば嬉しいが、かなりぎりぎりのラインだと彼は感じていた。
というのも、前世では中二の夏以降武夫の身長は一ミリも伸びなかったからだ。遺伝子的には全くの同一なのだから幼少期に頑張ったスタートダッシュの分だけ前世より背が高くなっている。
それはさておき、バンドのオリジナル一曲目はリズム隊三人の猛練習の成果がようやく出てきたところだ。武夫がもったいぶって結局明かさなかった事は、中二の文化祭あたりで明かされるのかもしれない。
それはさておき、武夫のもとに応募していた小説新人賞入賞の報が入った。バンド活動が楽しくて忙しくて発表の時期すら彼は忘れていた。発表された月刊誌は購入すらしていないし、本当の意味で忘れたころにかかってきた受賞の電話で、担当編集者さんとの会話にはぎこちなさがあった。
――確か授賞式は一月だったよな。
受賞したというのに、武夫に嬉しいという感情が芽生えることはなかった。むしろ残念という感情の方が大きい。それというのも、かなり気合を入れてブラッシュアップして改稿したというのに、新人賞ではなくて特別賞の受賞だったからである。
つまりは二番目だったということだ。彼に新人賞は贈られないし、彼が新人賞受賞作家と呼ばれることもない。前世では佳作だったから三番手以下だったのだから改稿した効果は確かに出ているのだろう。
けれども、これで当面はお金の心配をする必要が無くなったことは大きいだろう。今でもそれなりの収入はあるが、それだけで人一人が暮らしていける額ではない。もし大きなお金が必要になったら今の手持ちでは何もできなかった。
――これでたぶん朋子を音大に通わせられる。
前世の経験では、武夫のこの小説家デビュー作は十数万部の売り上げがあった。つまりその収入は、一千万を超えるということである。それだけの収入があったから前世ではブラック企業から抜け出せたのだ。
しかも今後十数作は、前世で同程度以上の売り上げがあった作品のプロットがすでに出来上がっている。細かな描写までは当然覚えていないが、前世より洗練された描写と構成で作品を仕上げる自信が武夫にはあった。
――これでもうお金の心配をする必要が無くなったな。ああそうだ、永山先生に電話しておかなくちゃ。
永山先生には、東京に出てくることがあったら必ず連絡を入れるように言われている。出版社での打ち合わせと授賞式のあと、永山邸にお世話になって、セッションとか音楽談議に花を咲かせることになるのだろう。
昨日土曜日の夜に受賞の電話があって、日曜日の今日武夫は一日上の妹につきっきりの指導をせがまれていた。というのも、年末の全日本ピアノコンクールに、ブロック代表としての出場が決まったからだ。
「じゃぁ課題曲を一曲弾いてみようか」
「うん、もう悔しい思いはしたくないからビシバシおねがいね」
上の妹の朋子は去年も一昨年も全国大会に出場しているが、入賞に留まっている。今年はぜひとも優勝したいらしい。
「今年こそ優勝しないとお兄ちゃんの一番弟子の名が廃るもの」
武夫としては妹には楽しく音楽に接してもらいたいが、他人と競うというのも楽しみ方の一つではある。彼自身の音楽との接し方とは相反するが、それを妹に押し付けようとは彼自身微塵も考えていない。
――何をしたいかは人それぞれだからな。それに、可愛い妹が活躍するのは俺も嬉しいし。
それだけではない。朋子が武夫のために頑張ろうとしているのだ。もちろん彼女自身の向上心のほうが大きいのだが、自分のために頑張ってくれる妹を彼が応援しないはずがなかった。
それに朋子は家族のひいき目を抜きにしても非常に可愛い妹だった。まだ小学五年生ではあるが、将来が楽しみだと武夫は思っている。
「じゃぁ弾くね」
実家二階のピアノ室で朋子が弾きだした課題曲は、ショパンのノクターン第20番嬰ハ短調(遺作)である。ショパンのノクターンのなかでは二番目の知名度だろうか。
ただ弾くだけならば難易度がそれほど高くないが故に、コンクールでは弾き手の技量が明確に問われる曲だ。朋子がなぜこの曲を選んだのか武夫には知る由もないが、もしかしたら彼が好んでショパンを弾いているからかもしれない。
この曲は曲名のとおりショパンの死後に見つかった彼の楽曲である。非常に悲劇的で悲しい旋律が特徴的ではあるが、一か所だけ明るい曲調に変化するポイントがある。
「そのイ長調に変化したところでもっと感情を乗せよう。絶望の中に一筋の光が差すような感じで」
この短い区間の曲調の変化がこの曲の一番のポイントであり、表現の仕方次第で曲が持つイメージを一変させることができると武夫は考えている。
「こんな感じかな」
「いや、ここはもっとこう、例えばこんな感じ」
朋子の肩越しに右手を伸ばした武夫が、曲調の変化例を数パターン弾いてみせた。
「その指使いと間の取り方は簡単に真似できそうもないよ」
「真似なんかしなくていいんだ。朋子が今できる朋子自身の表現を磨いていこう」
「うん、いろいろやってみるね」
明るい声で返事した朋子に、武夫はだらしなく顔を綻ばせるのだった。




