第35話:緊急リサイタル
音楽室と音楽準備室は大きな二枚の引き戸で繋がっている。両方を左右に開けて全開にすると、両部屋の見通しがかなり良くなる。この中学校の音楽室はそれほど広くなくて、部活では音楽部がおもに使用していて、熱心な十数人ほどの女子部員が発声練習をしていた。
ちなみに、この中学校には大人数の吹奏楽部があって、彼らは広い講堂が練習の場となっていた。音楽好きの男子生徒はほぼ全員が吹奏楽部に入部していて、事実上合唱部と化していた音楽部には武夫たちバンドメンバーを除くと全員が女子部員だ。
「はい、ちゅうもーく」
そう言いながら坂口先生がパンパンと手を叩いた。
「今から吉崎君にピアノを弾いてもらうからちょっとだけ休憩よ。静かにしていてね」
突然そんなことを言われて練習を止められ、音楽部の女子部員たちは怪訝な顔で坂口先生に注目した。とくに新部長の二年生、岩本京子は不満顔だ。
「坂口先生、わざわざ私たちの練習を止めてまで聞く価値があるのですか?」
「もっちのろんですよ岩本部長。吉崎君はプロの……プロ級の腕前らしいんです」
――坂口先生、プロのピアニストって言いかけたな。
練習を止められたことで不満があるのだろう。岩本部長の剣呑な視線と、早く武夫のピアノが聴きたそうな坂口先生の視線がぶつかりあって火花を散らしている。
――たしか今年の合唱コンクール県大会で良いところまで行ったんだったよな。で、新部長になって張り切っていると。でもそんなことより。
武夫は雅美から本気のピアノを聴かせてほしいとせがまれたことで張り切っていた。想いを寄せる女の子にあんなキラキラした瞳で見つめられて奮い立たないわけがないのだ。
視線をぶつけ合う二人を無視するかのように武夫はピアノの蓋を開け、椅子の位置を微調整して軽く鍵盤に指を滑らせて息を整える。
そして全霊を込めて音を奏ではじめた。すると視線をぶつけあっていた二人がギロリと首を回し、演奏している武夫を注視した。そして両名とも我を忘れたように目を丸くした。
武夫が演奏している曲は、坂口先生のリクエストどおりコンサートで披露した演目だ。一曲目はショパンの『幻想即興曲 嬰ハ短調 Op.66』。この曲はショパンのなかでも指折りの有名曲で、誰しも一度は聞いたことが有るはずだ。テレビCMなんかでもよく使用されたりしている。
この曲の特徴は、左手と右手のテンポが違っていて特に左手が超高速だったり、クラシックのなかでは奏者の表現に依存するような自由さがあると武夫は考えている。自由さがあるということは、奏者次第で評価が激変するということだ。ある意味ショパンのなかでも奏者の腕が最も問われる難曲である。
武夫は雅美の期待に応えるべく、生涯最高の演奏をしようと極限まで集中力を高めてショパンの世界に浸っていった。音楽部員やバンドメンバーは武夫の演奏に、感動の面持ちで聴き入っている。坂口先生と岩本部長はいつの間にか抱き合って瞳を潤ませていた。
そして雅美は、胸の前で手を組み、瞳を閉じて聴き入っている。彼女の目の端から一筋の涙がこぼれ落ちた。
幻想即興曲の曲調は人気曲ということもあってとてもキャッチ―で、前半で右手の高速パートから入って盛り上がりを見せ、中盤はゆったりした非常に美しく感動的な旋律で落ち着かる。後半から再び右手の高速パートが奏でられ、最後に盛大に盛り上がって静かな音色で終曲した。
「ブラボー!」
坂口先生が大きな拍手をし、落涙しながら叫んだ。雅美は拍手をしながらも潤んだ瞳と感動の面持ちで武夫を見つめていた。部員たちもバンドメンバーも全員が拍手を続けている。武夫は椅子に座ったまま一礼して再び演奏のポーズを取った。
音楽室はシンと静まり返り、武夫指が再び美しい音色を紡ぎはじめた。ショパンの人気曲『別れの曲 エチュード Op.10-3』だ。
曲名が示すとおり、この曲は美しくも切なく悲しい感情を繊細で柔らかな旋律で表現したショパン指折りの人気曲である。よくお斎場や卒業式の会場でBGMとして使われる誰もが何度も聴いたことがあるだろう曲だ。
武夫はこの曲に悲しみや切なさを和らげるような癒しの効果があると感じていた。だから一般的なセオリーである悲しみを感情豊かに表現するよりも、優しく柔らかい癒し効果を狙って演奏することにしている。
極限まで研ぎ澄まされた繊細なタッチと抑揚、テンポの変化や間を効果的に使って奏でられるその旋律は、かの高平五郎をも大絶賛させた実績があった。
そんな演奏を聴かされた聴衆たちは、ある者は涙を流し、ある者は魅了されたようにうっとりとしていた。坂口先生に至っては号泣しているし、岩本部長も涙を流している。
そして雅美は止めどなく落涙しながらも、気持ちを込めながら演奏する武夫をしっかりと見つめていた。
そんな状況の中で、武夫は静かに演奏を終えたのだった。




