第19話:白石雅美
ドア越しに漏れ聞こえるピアノの旋律は、特上手いというわけではないが、その音色は優しくしっとりとしていて、感情が籠っていた。武夫の耳にバイアスがかかっていないとは言えないが、彼は音楽に対しては正直である。
――音楽をやらない人からすれば充分に上手いんだけどな。走りすぎてるのが惜しい。
雅美の演奏は、感情が乗ってくると走る、つまりテンポが速くなる傾向があった。けれども、その優しい音色からはピアノ好きだということがひしひしと伝わってくる。武夫にはそう感じられたのだった。
――よし、これを突破口にしよう。あ~緊張する。だがしかし! ここで行かなきゃ男じゃないよな。ことのきを何年待ったと思ってるんだ。
意を決した武夫は、気付かれないようにそっとドアを開けて部屋に侵入し、忍者のごとく音を立てないようにそろりと雅美の斜め後ろに立った。彼女は気づくことなく演奏を続けている。
――あー、なんかいい匂いがするし、顔が熱くなってきた。けれども行くしかない!
武夫は雅美の斜め後ろからそっと左手を鍵盤に伸ばし、伴奏を弾きはじめた。雅美が驚いたように演奏の手を止めて振り向いたが、武夫は優しく微笑みながら、やや赤みが増した顔で軽く頷いて続きを弾くように促した。
雅美はほっとしたような顔をして微笑みを返してくれた。そして促されるままに主旋律を奏ではじめる。走っていたテンポもゆったりとしたものに戻り、武夫的にも聴ける演奏になっている。
――よかったぁ。これで勝つる。
雅美が奏でる主旋律は連弾用のものに変わっているし、椅子も右側に移動して席を開けてくれた。武夫はその好意に甘えるように彼女の隣に腰を下ろし、両手で伴奏を弾いていく。
雅美が走りだそうとすると、武夫はコードを理想のテンポで刻んで彼女を導いていく。けれども途中から連弾に移行したこともあって、演奏はすぐに終わってしまった。
色々な意味で惜しいと思った武夫は、再びイントロを奏でながら口を開く。
「もう一回やろうよ」
「はい、よろしくお願いします!」
雅美は元気よくそう返してくれた。
――そうだよ。たしかに雅美はこんな感じの明るい娘だった。
通しで一曲カノンを連弾した武夫の感想は、正直に言えばすこし物足りなかった。いままでの連弾相手がプロや全国区の妹だからそれは仕方がないことだと理解している。けれども、そんな感想を吹き飛ばすほどに、雅美と連弾できたことが嬉しかったし楽しかった。
「音楽部に入りたいの? 転校生だよね?」
「はい、でも誰も居なくて。それでピアノがあったから弾いてもいいかなって。あっ、白石雅美です。連弾してくれてありがとうございます!」
「僕は吉崎武夫。一応音楽部の部員だよ。でも今日は顧問の先生が体調不良で休みらしいから、部員は僕以外来ないかな。あ、顧問は坂口洋子先生ね。明日の放課後職員室に行ってみたらいいよ」
「教えてくれてありがとうございます。それでそれで、吉崎君ピアノ凄く上手だね。まるでプロみたいだったよ」
褒められたことよりも、ちゃんと会話ができていることに武夫は安堵した。そして歓喜した。まともに話せるか、不安で不安で仕方がなかったのだから。
「面と向かって言われると恥ずかしいかな。一応小6までレッスン受けてたんだ」
「私も同じだよ。でもお父さんが死んじゃって月謝が払えないってお母さんが言ったの。それでやめちゃったんだ」
「なんか、嫌なこと思い出させちゃってゴメン。辛かったよね」
「ううん、そんなことないよ。お父さんのことは今でも悲しいけど、お母さんがいるから私は平気」
武夫は見逃さなかった。雅美の表情が一瞬だけ歪んだのだ。彼女が明るく振舞うのは、辛い気持ちを紛らわすためじゃないのか? そうしていないと耐えられないんじゃないのか? だから武夫は考えを気取られないように話を変えた。
「そっか、ねぇ白石さん、まだ時間大丈夫? ロックとか好き?」
「うん、全然大丈夫。音楽ならなんでも好きだよ」
「じゃぁ、こんなのはどう? 入りたくなったら入ってきていいよ」
武夫が弾きはじめたのはカノンロックだった。雅美が好んで弾いていたパッヘルベルのカノン。今はまだ、それしか武夫には彼女の好みが分からなかった。だからカノンロックを選んだわけだが、彼は舞い上がってしまっていて、聴きたい曲をリクエストしてもらえばいいというをことを完全に失念していた。
けれども雅美は、武夫が奏でるサウンドに乗って楽しそうに体を揺らしている。どうやら気に入ってくれたようだと武夫は心から安堵し、そして嬉しかった。
「どう、この曲で連弾行ける?」
「メロディーのほうはテクニカルすぎて無理かも。コードだけなら何とか……っていうか吉崎君。スゴイアレンジだよ。こんなアレンジ初めて聞いたよ。それに上手すぎるよ。それに、すごくカッコよかった」
武夫は天にも昇る気持ちだった。恋焦がれていた雅美に、待ちに待っていたこの時間に、彼女に凄いと褒められて舞い上がらないわけがないのだ。
「そ、そうかなぁ」
顔を赤くして武夫は照れている。
「よ、よしっ! 連弾いこう」
武夫は照れを隠すようにピアノに向かった。そしてこう思うのだった。
――ピアノ練習しといて良かったぁ~。
武夫がイントロを奏で、雅美がコードを奏ではじめた。彼女の伴奏は武夫が左手で弾いたものより単純化されているが、それでもリズムは守られている。
武夫は雅美に合わせて演奏していった。僅かにリズムが狂ったり、ミスタッチがあったりするが、それをリカバーするように彼女に合わせていく。
この楽しく充実した時間を少しでも長く雅美と共有したい。それが武夫の嘘偽らざる心境だった。
一曲を弾ききり、余韻に浸っていた武夫たちだったが、しかしそれを破る者たちが現れる。音楽室のドアが勢いよくバタンと開け放たれ、二人の男がなだれ込んできた。




