第177話:後日談 その十五 ~大学生編~
武夫たち三人はサンフランシスコ音楽院に到着した。出迎えてくれたのはもちろんソフィア教授だ。
「よく来てくれたわ。今日は恩師の引退記念パーティーなの。タケオには期待してるわよ」
ソフィア教授に案内されてたどり着いたパーティー会場であるホールには、すでに大勢の参加者が談笑していたりして、ホールの中央にはグランドピアノが設置してあった。ピアノの周囲にもスペースや椅子があって、ヴァイオリンを若い女性奏者が演奏していて、中年の貫禄ありそうな男性がピアノで伴奏している場面だった。
ワイングラスを片手にしたりしながら演奏を聴いている者、ホールの隅で談笑している者、テーブルの料理を楽しんでいる者など自由な雰囲気があって、かなりフランクな感じのパーティーのようだった。
そんななか、ヴァイオリン奏者の正面にぽつんと置かれた椅子に一人の老紳士が座って優し気な視線を投げかけている。
――あの人がパーティーの主賓かな?
女性のヴァイオリン演奏が終わった。椅子に座った老紳士が大きな拍手をすると、その後ろで聴いていた人たちが続いた。そして拍手はホール全体から奏者に贈られたのだった。
演奏が終わった女性奏者がピアノを伴奏していた人に促されるようにして老紳士の前に立った。老紳士がなにか言葉を贈っているようだが、女性奏者は緊張した面持ちでそれを聞いているみたいだ。そして最後に涙ぐみながら笑顔を浮かべていた。
――褒められたのかな?
その後は奏者が変わって今度は若い男性のピアノ奏者だったが、武夫たちはその演奏をバックグラウンドに料理が盛られたテーブルへと案内され、ソフィア教授は懇意にしているという男性と話しはじめた。
「――へえ、バンド活動していて日本のレーベルからすでにデビューしているのか」
その男性は三十過ぎの見た目でまだ若い。
「そう、つい先日にはサラトでガフェスに参加したそうよ。ピアノが上手い子がいるから聴いてみてくれって話があったときには、まさかそんな経歴の持ち主だなんて思いもしなかったわ。しかも今は日本の国立大学で物理学を学んでいるそうなの」
「物理学? それはまた……多才なんだね。それで、ピアノの方はどうだったんだい?」
「私が教えてきたどの子より上手だったわ。悔しさもあったけど、この才能を埋もれさせるのは惜しいという思いの方が強かったの――」
そんな話を続けていたソフィア教授と男性の話が一区切りついたところで、武夫と雅美がその男性に紹介された。
「――それがこの子、タケオよ」
「はじめまして、吉崎武夫です。それと、こっちが妻の雅美です」
「こちらこそはじめまして。私はオニール。カリフォルニア大学ロサンゼルス校の音楽学部で教鞭をとらせてもらってる。君たちはもう結婚しているのか、ずいぶん可愛い奥さんだね」
「ありがとうございます」
雅美は自分が紹介されたことは分かったようだが、話の中身までは聞き取れなかったようで、きょとんとした顔をしていた。ゆっくり丁寧に話せば彼女もある程度の英会話を聞き取ることができるらしいが、英語ネイティブが普段のペースで、しかも砕けた感じで話すとさすがに聞き取れないようだ。
それは置いておくとして、武夫が演奏する順が回ってきたようだった。
「さぁ、次はタケオの番よ」
武夫はソフィア教授に連れられる形で老紳士の前に行き、「日本から来た吉崎武夫です」と、軽い自己紹介をしたあとピアノに向かった。ソフィア教授は椅子に腰かけたままの老紳士に腰をかがめてなにやら耳打ちしているようだ。
武夫が演奏をはじめたのはショパンのバラード四番だった。この曲はソフィア教授からのリクエストで、老紳士が最も好んでいるピアノ曲らしい。
ショパンは武夫にとっても幼少期から弾き続けてきた曲が多く、今弾いているバラードの四番も数限りなく練習してきた曲である。この曲はソナタ、変奏曲、ロンドの要素が複雑に融合した独創的な形式であり、技巧、心象的な叙情性、狂気的な感情の高ぶりなどが見事に表現されている。
武夫はそこに自分の一番しっくりくる音楽的解釈を加え、丁寧にかつ大胆な指運びで演奏を進めていった。演奏に集中している武夫の目には入っていないが、彼が演奏をはじめてからすぐに老紳士の背筋が伸び、目が見開かれることになった。
それを察したのかどうかまではは分からないが、いつのまにか喧騒が止んでホールには武夫が弾くピアノの音色だけが響いていた。一心不乱に情熱的に演奏する武夫に、皆の視線が集中している。
そして演奏が終わった。武夫が椅子から立ち上がって振り向くと、老紳士も椅子からふらふらと立ち上がり、大きな拍手を贈ってくれたのである。それに続くように皆からの拍手が長い時間ホールに鳴り響いた。それは間違いなく、これまでの演奏の中で最も聴衆の心に響いた演奏だったことを物語っていた。




