ケンジ……全てをかけた戦い 前編
※ある日の出来事です。
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盲目ゆえ、目の前にある料理がどのような見た目であるか、推し量る術はない。
だが、立ち昇る熱気が……一品の料理として尋常な物量でないことを告げていた。
通常ならば、まずはこの熱気と香りを堪能してから食事に取り掛かるところ……。
「――いざ」
だが、ロット乱しの愚を犯すわけにはいかず、すぐさま割り箸を折って挑みかかる。
そう、挑む、だ。
これは、食事であって食事ではない。
――戦いだ。
飢えたる者を満たさんとする店主と、それに応えんとする飢えた者との真剣勝負なのだ。
まずは、たっぷりマシマシの湯でもやしとキャベツに箸を突っ込み、その中へと隠された麺が引き出された。
――ズズーッ!
これをすすれば、ああ……なんということだろうか。
加水率が低い超極太麺は、わしわしとした食感と抜群の噛み応えが歯にたまらない幸福を与えてくれる。
そして、ちぢれが強い麺は必然的にスープとよく絡むわけだが、このスープもまた素晴らしい。
おそらく……使っている材料は、豚のゲンコツ、背骨、背脂とにんにく。
ただ、これのみだ。
通常、ラーメンのスープというものは、豚ゲンコツや鶏ガラを中心に、様々な魚介ダシや臭み取りの野菜を煮込むことで完成する。
それをこのラーメンは、いっそ潔いほどにシンプルな材料で完結させているのであった。
しかし、それが……いい。
例えるならば、これは、一振りの太刀のみで戦場に挑むサムライがごとし。
極限まで余分となる要素を省き、ただ豚の旨味を抽出することにこだわりぬいたからこそ、ガツリと胃の腑を打ち抜いてくれるのである。
スープの後に感じられるのは、超極太麺をかみ砕き、咀嚼することによって引き出される小麦の美味さ……。
小麦という食材の奥深さはもはや語るまでもなく、その調理法は、銀河の星々に匹敵するほど多い。
だが、ケンジは断じる。
このジロウ系と呼ばれるラーメンに使われる麺こそ、小麦の味を最も力強く味わえる調理法であると。
歯ごたえとすすりゴシに関しては、すでに述べた通り。
加えて、強力粉に由来するグルテンの旨味が、噛み砕くほどに広がっていくのだ。
――ふ、ふふ。
――私は今、小麦を食べている。
これは、優れた美術品を見た時にも似た感動……。
異なる点は、いつまでも浸っているわけにはいかないということだ。
ロットを乱してはならないというのもそうだが、何より、勢いを借りて食いきってしまわねば、刺激された満腹中枢が食事の手を止めてしまうのである。
ゆえに――食う。
食う! 食う! 食う!
ただ、腹を満たすためだけに行う食事……。
通常、伯爵家当主ほどの人間がすることではない。
いや、それどころか、中にはこのジロウ系ラーメンを指してブタのエサと称する者さえ存在した。
だが、ブタのエサ……大いに結構ではないか!
元来、人間とはそこまで上等な生き物ではないのだ。
それに、美味いものを存分に食らい尽くす……この喜びが分からない者こそ、真に貧しき人間であるといえるだろう。
――ズーッ!
――ズッ!
――ズズーッ!
店内に響き渡るのは、己と志を同じくする者たちがラーメンをすする音……。
いや、中にはロットバトルを挑んできている――もちろん向こうが勝手にやっているだけだが――者もいるようである。
視力を失って以来、それ以外の感覚が冴え渡っているケンジであり、その手の意思に対しては敏感に反応してしまうのだ。
それがゆえ……。
ロットバトルとは明確に異なる殺意を向けている者が客へ紛れていることも、当然ながら気付いていた。
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「ヤスケ、待たせたな。
いい子にしていたか?」
店の入り口に繋げておいた愛犬へ話しかけると、盲導犬としての訓練も受けた利口な相棒は吠えることもなく、ただ同意の意思のみを返してくる。
エスパーというわけではなく、言葉通りの意味で心と心が繋がっているわけでもない。
だが、ちょっとした仕草などで伝わってくるこの意思は――本物。
真に心をかよわせた間柄というものは、何を考えているのかというものが、種族の垣根を越えて伝わってくるものなのだ。
「では、行こう。
そうだな……。
少し食べ過ぎたので、歩きたい。
どこか、人気の少ない場所まで行こう」
ハーネスを掴むと、主の意思を正確に汲み取った忠犬が歩き始める。
肌に感じられるのは、チューキョーの街中を埋め尽くすネオンサインの光……。
行き交う人々は大半がサラリーマンのようで、「オタッシャデー!」「オツカレサマデシター!」などという定型句が飛び交っていた。
このスペースコロニーに、昼という概念はない。
強化ガラスで覆われた空は、常に夜闇で閉ざされているのだ。
ただ、それでも人々の生活サイクルというものは存在し……。
今は、数時間のサービス残業を経て帰宅する時間――つまり定時ということになる。
ケンジは、この時間の賑わいが好きであった。
通りへ立ち、しきりに客を呼び込むオイラン……。
したたかに酔ったか、あるいはスタミナドリンクの常飲で調子を崩し、フラフラと揺れながら歩くサラリーマン……。
テンプラを揚げる匂いがしたのでそちらに耳を傾けると、どうやら、屋外セルフバイキング方式のテンプラ屋で、家族連れがにこやかに食事を楽しんでいるようである。
例え、カトーが起こした乱のような事件がまた起こったとしても、彼らはたくましく、したたかに生き抜いていくに違いない。
だが、そんな愛すべき民たちの上に統治者として君臨できる誇らしさだけは、捨てられないと思えるのであった。
しかし、こちらが愛していても、向こうから好意が向けられるとは限らないのが世の常……。
特にその代表というべきが、ラーメン屋からずっと殺気を向けてきている相手であり、人気が少なくなっていくにつれ、ケンジの顔からは穏やかさが消えていったのである。
着ているキモノから発せられるするり……するりという衣擦れの音が、常よりもハッキリと聞こえ始めた。
同時に意識するのは、ハーネスを握るのと逆の手に掴んでいる白杖の重さ……。
いかなる時でも持ち歩いているこれは、単なる歩行補助の道具ではない。
いわゆる――仕込み杖。
少し柄を捻ってやれば、内部からは切れ味抜群の刀身が姿を現すのだ。
ケンジを先導するヤスケの歩調からも、緊張の色が伝わってくる。
このような局面は、初めてのことではなく……。
人間以上の鋭敏な感覚を持つ愛犬は、ケンジを狙っている者の存在について、とうに勘付いているのだ。
「そうだな、ヤスケ。
降りかかる火の粉――払うべし」
気が付けば、周囲から人の気配というものはほとんどなくなっており……。
肌で感じるネオンサインの光も、今は遠くなっていた。
愛犬は、主の命令を忠実に果たしたのだ。
ならば、己も成すべきことを成すべし。
呼ぼうと思えば助けは呼べる。
が、そのように女々しきことをするケンジではなかった。
何より、あからさまに発された敵意と殺意は、形を持たぬ果たし状に他ならないのである。
サムライとして、応じぬわけにはいかない。
だからただ、こう吐き捨てた。
「この相手……。
――斬らねばなるまいよ」
お読み頂きありがとうございます。
次回、死闘の始まりです。
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