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響と幽霊船

作者: 折田高人

 夏の日差しが砂浜を照り付ける。

 此処は渥浜。如月市堅洲町に存在する砂浜だ。

 不毛の海、悪浜と呼ばれていたこの砂浜も、武藤の一族が住み着くようになってからは見違えるかのように豊漁に恵まれるようになっていた。

 美しく穏やかな海。小波が寄せては返す渥浜は、只今夏の観光客を迎え入れるべく、ダゴン秘密教団が準備に追われていた。

 まだオープンまでは漕ぎつけていないこの渥浜。

 しかし、普段静かなこの砂浜に、今日は人々がごった返していた。

 彼らの視線は渥浜に横たわる巨躯に向けられている。

 砂浜に打ち上げられた巨大な鯨。

 自重に押し潰され苦し気に喘ぐその巨獣を延命させようと、教団の面々が唱える呪文が周囲に木霊していた。

 そんな様子を心配そうに見つめる少女が居た。

 まるで小学生のような体躯の高校生、加藤環だ。

 連休初日。朝のニュースで鯨の事を知り、寮の面々を引き連れて興味本位で見学に来たのだが、陸に上がって苦しげな様子を見せる鯨の姿に憐憫の情が沸いたらしい。

「う~。よみちゃん、遅いよう……早く来ないかな……」

「落ち着くでござるよタマキチ殿。とりあえず延命は出来ているでござる。教団が居る限り、命を失う事はないでござるよ」

「でもでも……」

「タマ。私らがアタフタしてもどうにも出来ないだろ?」

「う~」

 幼馴染の摩周秋水や級友の宮辺響に窘められるも、目の前で苦しむ鯨の姿に良心が耐え切れず、ソワソワと砂浜を歩き回っていた。

「ところで、この鯨はどのように助けるのですか?」

「海に戻すには大掛かりな機材が必要そうだよね」

「魔術で何とかするんじゃないか? そうだろ、秋水」

 滋野妃と来栖遼の金髪コンビとの響の掛け合いに、秋水は鮫を思わせる頭を左右に振る。

「流石にこの巨躯では拙者達の魔力では太刀打ちできないでござるよ。機材を持ち込もうにも延命の為の魔力が先に尽きるのが関の山。無事に海に戻すのは現実的ではござらん」

「じゃあ、如何するんだ?」

「幸いな事にこの鯨は雌でござった。後は……」

「あ! 来たよ、来た来た!」

 海岸から確認できたのは、教団が所有する大型漁船の陀金丸の姿。

 船が港に付き、しばらくすると砂浜を駆けてくる二つの影。

「た~まちゃ~ん!」

「よみちゃん!」

 環を抱きしめ、頬擦りをするのは艶やかな黒髪の美少女。

 豊満な肉体で環を包み込み、過剰なまでに親愛の情を表している。

 何処となく人形を思わせる無機質な美貌の持ち主なのだが、常に顔に浮かぶ緩んだ笑みが美貌からくる近付きがたさを大きく和らげていた。

 彼女の名は武藤暦。武藤三姉妹の次女にして、武藤の姫君と呼ばれる存在だった。

「姉上。まずは救命を優先した方が宜しいかと……」

 暦の側に侍るのは、少女を象った人形を思わせる美少年、武藤雅。

 彼の言葉に頷いて、暦は鯨の方へと歩いていく。

 教団の長老である摩周蔵人と何やら会話を交わし、それが終わると手の空いた教団の面々が見物客に帰宅を促し始めた。

 渋る見物客も居るには居たが、大半の見物客は武藤の一族が関わっている以上は止む無しと悟ったようで、やがて渥浜は普段の静けさを取り戻した。

「……私達は帰らなくてもいいのかな?」

 呟く遼。

 その呟きを耳にした教団員達は顔を見合わせ苦笑する。

 環や秋水、教会を通じて何度も教団と関っていた響達である。

 教団員達にとっては、彼女達は立派な関係者であった。

「そんで秋水、あのデカブツ、どうやって助けるんだ?」

「暦殿に頼んで魔女化してもらうでござる」

「魔女化?」

 魔女化について、響は魔術の師であるロビンから軽く聞いていた。

 魔女に出来るのは人間だけかと思っていたが、秋水から聞くに雌の哺乳類ならば何でも魔女化できるとの事だった。

「興味深いですわ! 雅さん、間近で見物してもよろしいでしょうか?」

「い~よ~! 準備できたから皆おいで~!」

 雅が妃に言葉を返す前に、耳聡くその声を聴いていたらしい暦が響達を招いていた。

 手をブンブンと振って輝く笑顔を浮かべている。

「何かテンション高いな……」

「申し訳ありません。姉上は滅多な事では外界に出られないので、久しぶりの外出で気分が高揚しているようです」

「何だ? あのテンションであいつ引き籠りか?」

「見た目からは想像できませんわねえ」

 周囲に響達含む教団の面々が集まったのを確認すると、暦は鯨に向き直る。

「魔王殿、どうぞ」

 蔵人から雅に手渡されたのは、黒塗りの鋭い刀剣だった。

 雅は慎重に狙いを定め、鯨の身体に刀剣をスッと突き刺す。

 滲む血を確認した雅に、暦は掌を向けた。

 雅は姉の手に刃を優しく沿わせる。

 流れ出る鮮血をそのままに、暦は鯨の傷口に掌を当てた。

 混ざりあう血と血。

「さあ、今日から君は私と家族になるのだ~!」

 その言葉を認めるが早いか、響達の目の前から鯨の巨躯が消えていた。

 その代わり、砂浜に座り込む全裸の少女の姿。

「あれ? う? えええ?」

 困惑に包まれた少女に暦が歩み寄る。

「聞きたい事いっぱいあるでしょ? 大丈夫大丈夫、お姉ちゃんに任せなさい!」

 にっこり笑って暦は少女の手を取る。

 掌の傷は痕跡も残さず消えていた。 


 円座を組む一団の中、黒尽くめのローブを身に纏った男が思案している。

 顔まで覆い隠すローブ。其れとは裏腹に、彼の視線はしっかりと一点を捕らえていた。

 そっとそれに手を伸ばす。ちらりと見える手には水かきが認められた。

「よしよし! 一抜けじゃ!」

 手にした札を一団に見せつける。数字の揃ったトランプ二枚。

 ローブに隠れた顔が得意げに笑っているのが容易く想像に付く。

「お爺ちゃんすごーい!」

「やるでござるな爺上殿!」

 やんややんやと囃し立てる環と秋水。

 それに対して悔し気な大男。隣の細身の男に促され、彼から札を取る。

「ぬお!」

「きしし……」

 素っ頓狂な声を上げる大男とほくそ笑む細身の男。

「デイブ殿、ババ引いたでござるか~?」

「い……いやいや、お坊ちゃん。決してそんな事は……」

「バレバレだぞデイブ。もう少しは顔芸を覚えた方がいいぞ」

「喧しいサム! お前が笑うからバレたんだ!」

「語るに落ちたねえ。タマちゃん、デイブにババ行ったから気を付けてね~」

「分かった~」

 デイブと呼ばれた大男が悔し気に歯ぎしりしている。

 魚を思わせる相貌に、筋骨隆々な肉体を持った男性。

 デイブと言うよりも、ゴリアテと呼んだ方が相応しい巨漢である。

 そんな彼の恨めし気な視線を受け流し、飄々とした様子でババ抜きを続ける細身の男、サム。

 彼もまた、何処となく魚を思わせる顔つきをしていた。

 孫達とのトランプに興じる長老、蔵人に付き合わされてババ抜きを始めた側近二人。

 同期に負けるものかと火花を散らして熱中している。

 そんな二人の闘争心を盛り上げようとする秋水と環。

 それに対して雅は淡々とカードを捌き、二番手でゲームをあがる。

 ここは漁船、陀金丸の中。

 夜見島へ向かって船は進む。

 鯨を救うという目的を果たした暦を送る為に出港した陀金丸。

 折角の連休という事もあり、暦は響達を夜見島観光に誘ってきたのだ。

 正確には環に、かつて暦達が引き取った子猫の様子を見にこないかと提案してきたのである。

 二つ返事で了承した環に連れられて、連休を夜見島で過ごす事に決めた一同は御桜館に戻って燈子に旅程を伝え、荷物をそろえて陀金丸に飛び乗ったのだった。

 陀金丸ではダゴン秘密教団の長老とその側近二人が乗り合わせていた。

 夏休み期間に開催される夜見島観光ツアーの打ち合わせに赴くとの事だった。

 初の船旅に燥ぐ一行に対して環は大分慣れたもので、船旅に飽いていたダゴン秘密教団員とのトランプゲームに参加している。

 機関室では教団員に付き添われた遼が興味深そうに見学していた。

 そんなダゴン秘密教団の面々を横目にしつつ、響は甲板に向かう。 

 甲板では妃が暦と共に海を眺めていた。そしてもう一人。

「どう、メロちゃん? 何かいた?」

「いないかなあ? う~ん」

「マルメロさん、頑張って見つけましょうね!」

 暦によってマルメロと名付けられた鯨娘が、教団から借り受けたローブに身を包み、不安そうにキョロキョロと視線を彷徨わせていた。

 魔女化したこの鯨娘は海で奇妙なモノに遭遇したらしい。 

 本能的にそれが真面な存在ではないと確信したソレに追い回された結果、渥浜に乗り上げてしまったとの事だった。

 夜見島の武藤の実家に戻る道すがらも、自分を追いかけてきたソレが現れないかと戦々恐々としているようだ。

「う~……またアレが出てきたらどうしよう……」

「大丈夫! どんな怖い奴が出てきても、お姉ちゃんが何とかしてあげるから!」

 そう言って大柄な鯨娘の頭に手を伸ばす暦。

 自分よりも背の高い彼女をあやす様に頭を撫でている。

 その様子を微笑ましそうに眺める妃の隣で、響は海を眺める。

「……ん? 何だあれ?」

「何か見つけましたの?」

 穏やかな海の奥。

 それが姿を現した。

 ぼやけた輪郭の何かが此方に向かってくる。

 妃が望遠鏡を取り出す。

 それを確認した妃の頬が見る見る内に紅潮し始めた。

「響さん! あれ、あれ!」

 輝かんばかりの蒼い瞳で響を見据え、望遠鏡を手渡してくる。

 響が覗いてみると、其処に認められたのは船だった。

 周囲に濃い霧が発生しているわりには、その姿がしっかりと確認できる。

 船体に刻まれた名。

「ポータラカ号?」

「何々、お姉ちゃんにも見せて!」

 暦に望遠鏡を手渡した響に、妃は興奮気味に捲し立てる。

「あの船、私知ってますの! 世界の遭難船という本に載ってましたわ! インドの遺跡からの発掘品を載せたまま行方不明になった船ですわ!」

「宝船? 面白そう! 私、皆に知らせてくるよ! 行こう、メロちゃん!」

 望遠鏡を妃に返し、暦は甲板を降りていった。

 

「お~! 凄い迫力だね~!」

 ポータラカ号を見上げながら呑気な声を上げる環。

 陀金丸に積載されたボートに乗り込んだ一同は、深い霧の中海を漂うポータラカ号に赴いていた。

 遠くに見える陀金丸。

 そこではマルメロや船員達が固唾を飲んでボートを見守っていた。

 ボートからポータラカ号に乗り込む一同。

 響達が甲板に上がって目下のボートを見て見ると、なにやら蔵人が身を乗り出して海を覗き込んでいた。

「お~い、爺さん。早く上がって来いよ」

「響ちゃん、先に船内を見回っておいてくれ! わしはちょっと遅れてから行く」

 そう言うや否や、蔵人がローブを脱ぎ去る。

 姿を現したのは大柄な半魚人の姿。

「何だ? こんな所で一泳ぎか?」

「うむ。ちょいと気になる事があってな。サムはボートに待機。秋水、デイブ。お嬢ちゃん達の護衛を任せたぞ」

「了解したでござる」

 うむ、と頷くと飛沫が上がり、蔵人の姿が海中に消えた。


 ポータラカ号の船内には生気らしきものが感じられなかった。

 ただ、船の機関の音だけが静寂の中から響いてくる。

 船内には人一人いない。

 操舵室にすら、人影は認められなかった。

 無人のままに航行しているポータラカ号。

 真っ当な精神の持ち主ならば、背筋が凍りそうな光景なのだが。

「皆さん、あれを見てくださいまし! 不思議ですわ~!」

「おお~! 舵輪が勝手に回ってるよ~!」

「如何いう原理なのかな……」

「完全自動操縦か。古そうな船にしては随分ハイテクだな」

 好奇心のみが表立ち、軽口を叩き合う響達。

 堅洲町の洗礼を存分に受けた彼女達には、直接的な被害でもない限り、この程度の怪異は日常茶飯事となっていた。

 操舵室を後にした一同は、二手に分かれて行動を開始した。


「お~! お宝いっぱいだ~!」

 ポータラカ号の一室。

 積荷を確認しながら、環は歓喜の声を上げていた。

 妃の言葉通り、インドの遺跡から発掘されたであろう品々がそこにあった。

 黄金製の像や古代の金貨、輝かんばかりの金細工と黄金尽くしの発掘品。

 特に彫像が多い。黄金色の輝きを放つ像達は、煌びやかな宝石を身に纏っている。

「キラキラ光って眩しいよ~!」

「眩すぎて目が眩んじゃうでござる~!」

 キャイキャイとはしゃぎながら、しかし手は触れず。

 環と秋水は博物館を見て回る学生のノリで、アレが綺麗、コレが凄い等と室内を慌ただしく回っている。

 遺物をちょろまかそうとする気配を全く見せないあたりに、二人の人の良さが見て取れた。

「姉上、如何なさいました?」

 雅の声に遼が振り返ってみると、暦が一点を見つめたまま動かない。

 その視線の先にあるのは、聖天だろうか、ガネーシャであろうか。

 子供でも一抱えできそうなくらいの大きさの象を模った像の姿。

「なんだか、場違いな感じもするね……」

「ええ。こういった品も少なからずあるのは確かですが……」

 遼の言葉に雅も相槌を打つ。

 輝かんばかりの黄金製品に囲まれながら、この像だけは酷く地味な印象を受ける。

 精緻な彫刻。まるで生きているかのような姿は、この像の製作者の技巧の高さを素人でも感じる事が出来るだろう。

 紛れもなく美術品として通用するその像だが、周辺の輝きの中では異物感を感じ得ない。

 黄金の発掘品以外は一ヵ所に纏めておいてあるのを確認した後では、この像だけが黄金に交じって鎮座している事に違和感を感じてしまう。

 じっと像を見つめていた暦は、躊躇なくその像に手を伸ばす。そのまま、自分の顔の前に像を近付けた。

「よみちゃ~ん! それな~に?」

「その像がどうかしたのでござるか?」

 一通り発掘品を見て回った環と秋水も、興味を惹かれて暦の下へとやってくる。

 暦は動かない。

 一体どうしたのかと遼が問おうとしたその時だった。

「君だよね、このお舟を動かしているの」

 暦が像に語り掛けた。

 像は答えない。

「ねえ、お姉ちゃんとお話ししようよ~」

 答えない。

「ほら、お姉ちゃんくすぐっちゃうぞ~」

 答え……。

「だ~ッ! 分かった分かった! 分かったから私をくすぐるのは止めろ~ッ!」

 遼達は驚きの表情を浮かべた。

 暦の手の中でジタバタと暴れ始める像の姿。

 生きているような、ではない。本当に生きていたようだ。

「わ~! 小っちゃい象さんだ~!」

「小っちゃいは余計だ! このメイサ様に対して無礼だぞ、お子ちゃまめ!」

「……メイサ様、ですか? あなたがこの船を動かしていたのですか?」

 雅の言葉に、像……メイサが頷く。

「ここに収められているの、私の長兄への貢ぎ物なんだけどさ。それに紛れて大陸に渡ろうとしたら、何だか変な奴に付き纏われるようになって……。でさ、ある日船員が一人を残していなくなったんだよね。あの変なのが追い掛け回している以上は船を止めておく訳にもいかないから、私の魔力で動かして何とか逃げ回っていたんだ」 

「この船を纏う霧はあなたの力でしたか……」

「ん。初めは動かし方が良く分からなくて四苦八苦したものだけど、今では手足の様に動かせるよ」

 得意げに笑うメイサ。

「で、お前らは何者だ? 見た感じこの船の乗組員には見えないんだけど」

「船旅中にこの幽霊船を見つけたから探索しに来たんです」

「船旅? って事は何処かの港に向かっているんだろ? 折角だから私も一緒に連れてってくれないか? 陸地に着けるならこの際大陸じゃなくてもいいや」

「構いませんよ」

「いよし! 漸く辛気臭い船の中から解放されるな!」

 ガッツポーズをするメイサ。

 そんな彼女に遼は疑問をぶつけてみる。

「あの、メイサさん? この船、何で人が居ないんですか?」

「それが良く分かんないんだよな、金髪ちゃん。気付いたらいなくなってたって言うか。一人だけ……そう、ジョンソンとか呼ばれていた奴が残っていたんだけど、そいつも直ぐに見なくなったしさ」

「う~む。もう少し船内を調べないと分からないようでござるな」

「そうだね! 早速船の中を探しに行こ~!」

「それじゃあ船内ツアーに再出発だ~! 皆、お姉ちゃんに続け~!」

「「わ~い!」」

 率先して部屋を飛び出る暦と、それを追う環と秋水。

 雅と遼は苦笑してその後を追うのだった。


 船を包み込む濃霧も、海の中までは影響を与える事が出来ないようだ。

 透き通った海水の中、蔵人は色とりどりの魚達と共に船の周りを泳いで回っていた。

 ある一点、ポータラカ号の船底の一部がへこんでいる。

 巨大な拳の跡だ。

 一体これは何なのか。

 考え込んでいた蔵人の下で、慌てて泳いでくる者があった。

 蔵人と同じ魚人。変化した側近のサムだ。

 ボートの番を放り出してどうしたのか。

 サムの指差す方向を見てみると、そこにあったのは見るも無残なボートの残骸。そして……白いヒトガタの姿。

 奇怪な巨人がボートの残骸を弄んでいる。

 ツルツルとした毛の生えていない白い肌。

 片眼の潰れた隻眼と裂けた口だけの顔が、蔵人とサムに向けられた。

 嗜虐心に満ちた笑み。

 獲物を見つけた人型が迫る。

 次の瞬間、蔵人達の目の前を別の巨体が遮っていった。

 突撃してきた巨大な鯨が、人型を弾き飛ばす。

 怒りに歪んだ顔を見せる人型。

 狩りの邪魔をした巨獣を引き裂こうと鉤爪を振り下ろすが、刹那、巨獣の姿が消えうせる。

 鯨の巨体を探して辺りを見回す人型を後目に、蔵人達に近付いてきたのはマルメロだった。

 鉤爪が当たる前に魔女の姿に変化したらしい。

 彼女に誘われる様に、蔵人達は海面に身を乗り出した。


 船長室を覗き込む響と妃、そしてデイブ。

 椅子に腰かけ机に倒れている、白骨化した船員の姿が見えた。

「邪魔するぞ」

「お邪魔しますわ~」

「……随分肝が据わってるなあお嬢さん方……俺要るか?」

「肉壁はいくらあってもいいもんだぜ、デイブ」

「怖い事言うなよ響ちゃん……」

 遠慮なくズカズカと机の前までやってきた響達。

 デイブは白骨死体のこめかみに穴が開いているのを目にする。

 床に落ちているのは骨と化した片腕と拳銃。

「自殺したのか……しかし、何で船長室で? 服装を見るに船長にはとても思えないんだが……」

 疑問に思っているデイブの傍らで、響達は無遠慮に机を漁っていた。

 引き出しを下から一つずつ確認している。

 手慣れた盗人の如き手際の良さであった。

「おっ?」

「思った通り、ありましたわ!」

 目当ての物が見つけたらしく、妃の表情が喜色満面になる。

 雑多な小物に交じって引き出しに仕舞われていたのは航海日誌。

 中身を確認した妃は、綺麗な英語で記されたそれを流し読みし始めた。

「よしよし。他の部屋も確認するぞ。まだ日記や手記が残っているかもしれないからな」

「ロビンさん、きっと喜んでくれますわ~」

 他の引き出しに仕舞われた小さな宝石箱や金細工と言ったものには目もくれない二人。

 ただ、書類の類だけを回収していく。

 目ぼしい物を手にして船長室を出た後、船員室を探索する三人。

 妃からカメラを預かったデイブは、船内の気になる場所を撮影して回っている。

 一通り船内を見て回った後、合流地点として定めていた操舵室に腰を落ち着ける。

 響は回収した日誌類を鞄に収めつつ、枚数のそれ程ない手記に目を通していく。

「……またアイツか」

 アイツ。

 数人の殴り書きの手記の中、やたらと出てくる言葉であった。

 やれアイツが見ている、やれアイツが俺達を狙っている……。

 ジョンソンという名前も良く見られたが、如何にもこの船員が何かをやらかしたらしい。

 手記の殆どにはジョンソンなる者への恨み言が残されていた。

「あら?」

 航海日誌を捲る妃の指が止まる。

「どうしたんだ、妃ちゃん?」

 カメラを手に室内を歩き回っていたデイブが妃の手元を覗き込む。

「デイブさん。これ、見てくださいまし」

「……書き手が変わった?」

 前頁まで綺麗な英語で書かれていたにも拘らず、其処から数ページに渡って癖のある文字が荒々しい調子で踊っていた。

 とても同じ人物の手による文章とは思えない。

 最後の頁を目にすると、其処にはジョンソンのサインがあった。

「ジョンソンさんの手記……でしょうか」

「何だって? 妃、ちょっと貸せ」

 妃の言葉に興味を惹かれた響が、読んでいた手記を鞄に仕舞って日誌を手に取った。


『アイツを目撃したのがそもそもの始まりだった。海の中から顔を見せた、あの白い巨人。俺達の船をつけ回すそれを不気味に思い、俺はそいつに弾丸をお見舞いした。片目を潰され絶叫が響いた。悍ましい声だった』


『以来、俺はアイツにつけられている。潰された片目が恨みがましそうに俺を見ていた。弾をお見舞いしようと銃を取り出すと、すぐさま海の中へと消えて行く』


『アイツが夢に出てきた。ニタニタ笑っていやがる。そいつは船底に穴を開けた。ボートに逃げ出した俺達を一人ずつ餌食にしていく』


『嫌な目覚めを迎えた朝。同僚達の表情が優れない。聞くと、俺と同じ夢を見ていたようだ。今日もアイツが甲板の上の俺を眺めていた。銃をちらつかせると海中に潜ったが、今日はその後が違っていた。船底をニ、三叩く音。何時でも殺せるというメッセージか』


『アイツが船底を叩くようになって以来、船員達が正気を失いつつある。アイツの目を潰したせいだと皆が俺を非難し始めた』


『リアルな夢。アイツが船底を叩く。水が船内を満たし、深淵へと引きずり込む。狂乱と共に目が覚める。船底を叩く音が響き渡っている』


『船員達は慌てた様子で救命ボートに乗り込んでいた。あれは夢だと説得する船長。俺が姿を現すと、同僚達は口々に俺を貶し始める。引き留めようとする船長に銃弾が撃ち込まれた。絶命した船長の躯の側で佇む俺を、船員達は無視して海へと漕ぎ出す。アイツの復讐の対象が俺だと知って、おとりに使うつもりなのだろうか』


『頭が真っ白になったまま、船長の躯を水葬する。再び夢。逃げ出した連中がアイツに捕食されていた。朝、ボートの残骸が周辺に散乱していた。俺を追い詰める為だけにやったのか』


『もう耐えられない』


 ジョンソンの手記は其処で終わっていた。

「……この船が無人なのはアイツと言う方がジョンソンさんを恨んだ結果、という事ですか」

「海には変な奴もいるもんだな」

 他人事のような響と妃。

 アイツとやらも夢を見せる相手が居なくなった以上は海の底へと帰っただろう。

 最早過ぎ去った過去の事。そう思っていた彼女達の顔が、次の瞬間驚愕に歪んだ。

 船底から聞こえてくる殴打音。それを確かに耳にしたのだ。

「おいおい、どういう事だよ? アイツって奴、まだこの船に執着しているのか?」

「ジョンソンさんはもうお亡くなりですわ?」

 最早ジョンソンはこの世に居らず、復讐の為にこの船に執着する理由などない。

 何故、無人の船と化した今もアイツに付き纏われているのか、響達には見当もつかなかった。

 慌てて甲板の上に出た三人は海を覗き込んだ。

 白い何かが船底を揺蕩っている。

「全く、何なんじゃあやつは……」

「あいつだよ……あいつに追い回されて、私は海岸に乗り上げたんだ」

 その声に振り替えると、魚人二人とマルメロの姿。

 身体から滴る雫を気にもせず、疲れたように甲板にへたり込む。

 尚も響く船底からの音。

 それに誘われたのだろう、環達も甲板に姿を現した。

「ねえ響ちゃん。この音なんだろ~ね?」

「やかましくてかなわんでござるよ」

「私は流石にもう慣れた」

 どこまでも呑気な環と秋水。

 暦の腕に納まっているメイサは何時もの事だと言わんばかり。

「この白いのがアイツって奴か……」

「何だデイブ? あれの事知ってるのか?」

 サムの言葉にデイブは頷く。

「船の中でな……」

 

 ポータラカ号で起こった出来事。

 それ聞き終えた一同は一つの疑問を抱いていた。

 何故、あの巨人は未だにこの船に執着しているのか。

 巨人の片目を奪った男は、既に白骨死体へと成り果てている。

 夢で干渉できなくなった以上、船にジョンソンが存在しないとは思いつかないのだろうか。

「もしかして、本当にジョンソンさんが亡くなっている事に気付いていないのでは?」

「どういう事だ、雅?」

「あの巨人はジョンソンさんが一人で船に残された事は把握していたんですよね? 夢で干渉出来なくなったと言っても、船が動いている以上は生存者がいると認識しているのではないでしょうか?」

「え? アレが追いかけてくるの、もしかして私のせい?」

 唖然とするメイサ。

 有り得ない話ではなかった。

 あの巨人がメイサの存在を知らないのならば、船を動かしているのは取り残されたジョンソン以外に存在しないのだ。

 巨人はジョンソンを逃すつもりはないらしい。

 ポータラカ号に接近したボートが破壊されたのも、復讐対象が逃げ出すのを防ぐ為だったのだろう。

 これでは響達はポータラカ号から逃れられない。

 ジョンソンを逃す可能性があるとあの巨人が考える以上、ポータラカ号に船を近付けるのは自殺行為だった。

「だとすれば、だ。もうジョンソンがくたばっているとアイツに知らせれば、この船から離れてくれるんじゃないか?」

「どうやって伝えるんですの?」

「アイツ、夢で人に干渉したりできるみたいだし、案外人の言葉も通じるんじゃないか? 海から姿を現した時に声を上げればいいだろ?」

「ふっふ~ん! そんな悠長な事しなくても大丈夫だよ!」

 得意げな声を上げる暦。

「アイツさんの思念を確認したよ! 未だに夢での干渉を諦めてないみたい! その干渉を利用すれば、こちらの思念を相手に伝える事も出来るよ!」

「そんな事が出来るんですか?」

「大丈夫大丈夫! お姉ちゃんにお任せ!」


 船の縁にて、暦が海面を覗いている。

 白い影を認識すると、暦はすぐさまその思念を受け取った。 

「あ、繋がったよ!」

 船底の音が途絶える。

 ゆっくりと海面が盛り上がり、ツルツルとした頭が姿を現した。

 胡乱そうな隻眼が船べりの暦を見つめている。

 瞳と瞳をしっかり合わせ、暦は巨人に思念を送り始めた。

(君……君……ジョンソンさんはもう亡くなっているよ……もうこの船に執着しなくていいんだよ……)

 はたして、思念は伝わったのだろうか?

 海坊主はしばらく暦を見つめた後、ゆっくりと海の中に沈んでいく。

 うまくいったと歓喜する響達に、しかし暦は難しそうな顔を向けてこう言った。

「ごめんね。意図は伝わったんだけど……」

 その言葉を遮るように、船底から響く音が再び聞こえ……一際甲高い金属音が響く。

 何事かと尋ねる必要はなかった。

 船が傾きつつある。

 船底に穴が開いたのだ。

「おい、どうなってんだよ?」

「ジョンソンさんがいなくなったから、標的を私達に替えたみたい。復讐心でジョンソンさん追いかけていたのは確かだけど、そうでなくても船の人達を食べる気でこの船を追ってたみたいだね」

「嘘だろおい? 何とかならないのか?」

「こんな事は止めてよって思念を今も送っているんだけど、全然聞いてもらえないの……何だか私達を馬鹿にしているみたい……」

 さもありなん。

 蔵人は思い出す。

 海中で自分達を認めた巨人の嬉々とした表情を。

 あの嗜虐心に満ちた顔。

 単なる捕食行為では満足せず、捕らえた獲物の命を弄ぶ事に喜びを見出す残虐な性が見て取れた。

 だからだろう。たかが獲物の分際で、自分を傷付けた男が許せなかったのだ。

 彼を絶望の淵に沈め、掌の上で運命を弄ぶ事で傷付けられた自尊心を癒しながら獲物を死に追いやろうと船を追い回していたのだ。

 すでに目的は果たされていた。自らの片目を奪った生意気な獲物は絶望の内に死を選んだ。

 ならば、もうこの船には用はない。次の獲物は既に目の前にいる。

 船底に穴を開け、再び海上に頭を表す巨人。

 沈みゆくポータラカ号の上であたふたとしている響達を眺めつつ、その滑稽さにニタニタと笑っている。

 自身が絶対的な捕食者であるという確信をもって、獲物が海に落ちるのを嘲笑しながら待っている。

 その傲慢な姿が、彼女の逆鱗に触れた。

 慌てふためく一同のに対して掛けられる、柔らかな声。

「メロちゃん、皆をお願いね?」

「え?」

「メロちゃんならば皆を陀金丸まで連れて行けるでしょ?」

「で、でも……アイツからは流石に逃げきれないよ? それにアイツがついてきたらあっちの船まで沈められちゃう!」

 暦は穏やかに笑う。

「大丈夫! お姉ちゃんにお任せだよ」

 そう言いきると、話は終わったとばかりに巨人の方へと視線を向けた。

「マルメロ様、お願いします。姉上に関しては御心配なさらず」

 そう促す雅の顔は表情こそ変わってないものの蒼褪めているのが見て取れる。

 よくよく見れば、蔵人達も顔を引きつらせていた。

 サム等は自身の教義に合わないだろうに、十字を切って祈る始末。

 魔女になってまだ一日も経っていない鯨少女には良く分からなかったが、ここは素直に従った方がいいと直感する。

 海に身を躍らせるマルメロ。

 小さな飛沫が上がり、やがて巨体が浮かび上がってくる。

 鯨と化したマルメロが沈みゆくポータラカ号に身を寄せた。

 暦を除いた一同が全員自分の上に乗り込んだのを確認すると、海水を掻き分けて陀金丸を目指す。

 その様子を、白い人型は気付いていた。

 普段ならば、あの鯨を付け回して弄んだ挙句、絶望に顔を歪ませた獲物達の表情を楽しんでから血肉を味わっていただろう。

 しかし、巨人は動く様子がない……否、動けない。

 自分に射殺すかのような視線を送る少女の姿。

 そんなちっぽけな存在に、巨人は圧倒されていた。

 海下の巨体を見下す暦。響達の前で常に浮かべていた緩い笑みは消え去り、弟の雅のような人形を思わせる無機質な顔が巨人を射止めている。

 巨人の脳裏に思念が送られてきた。どこまでも冷たい、人間味のない調子の思念だった。

(ただの捕食行為なら自然の摂理として目を瞑りましたが……貴方は命を弄ぶ事に反省の色なし。此処で海の肥やしになりなさい。貴方の屍で海を富ませ、弄んだ命の数だけ新たな命を養いなさい。腐れ果てた肉片の方が、生ける貴方よりも遥かに役に立つでしょう)

 思念が打ち切られた。

 恐怖で高鳴る心臓を抑え、海の中に逃げ込もうとして……気付く。

 巨人の肉体が変色していく。

 白い肉体が紫掛かっていく。

 肉が骨から剥がれ落ちる。

 体の内側から巨人が腐食していく。

 生きたまま溶けていく肉体。

 恐怖に見開かれた隻眼が、救いを求めるように海上に手を伸ばす。

 船の上に暦はもういなかった。


「お待たせ~! お姉ちゃん、只今帰還しました~!」

「うむ! 御苦労様なのだ~!」

「感謝感謝でござるぞ~!」

 何時の間にかマルメロの背に姿を現した暦を、環と秋水が迎え入れる。

 何時ものような緩んだ笑顔。それを確認して、雅と蔵人達魚人組は安堵の溜息を吐いた。

「どうやってここまで?」

 困惑気味な遼の問い。

「どうって……びゅ~んって」

「飛べるんだ……」

「お姉ちゃんに出来ない事はほとんどないのだ~!」

 えっへんと胸を張る暦。

 立派な双丘が反り返る。

「んな事はどうでもいい!」

「そうだぞ暦! アイツ、どうなった?」

 急かすような響とメイサをどうどうと宥めつつ、暦はあっけらかんと答える。

「もう大丈夫だよ! ちゃんとお話付けたら大人しく海に帰ってくれたよ!」

「「本当か~?」」

「お姉ちゃんを信じなさ~い!」

 ころころ笑う暦の姿。

 どうやら本当に危機は去ったらしいと、響とメイサは緊張を解く。

 暦の言葉を耳にしたマルメロが、鯨の声で歌い出した。

 先に見えるのは陀金丸。

 手を振るダゴン秘密教団の団員達に、暦が手を振り返す。

「とんだ目に会ってしまいましたね。我々が誘ったせいで巻き込んでしまって申し訳ありません」

 謝罪する雅に響は苦笑を返す。

「まあ何だ。折角誘ってくれたんだ、夜見島では色々と楽しませてくれよ」

「承知しました。姉上も腕によりをかけて料理を振る舞ってくれるそうですから、期待していてくださいね」

 微笑する雅と共に、響は陀金丸に乗り換える。

 甲板から後ろを振り返った。

 ポータラカ号はもう見えない。積まれた宝物と共に海底へと沈んだのだろう。

 濃霧が晴れ、平穏を取り戻した海の上。陀金丸は夜見島へと進路を取るのであった。

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