天(そら)へ送る恋文
私が初めて彼と出会ったのは、梅雨の手前の、奇跡のように清々しい時期。
日本のどこにでもあるような、私鉄沿線各駅停車駅の駅前で。
残業を終え、ぐったりと疲れた仕事帰り。
帰って何かお腹へ入れ、お風呂に入って眠る以外、その時の私の頭の中にはなかった。
要するに、いつも通りのわびしい夜のひとつだった。
私にとってただ通りすぎるだけのその場所で、彼は歌を歌っていた。
どこの町にもちょいちょいいる、夢を持て余しているストリートミュージシャン。
そんな風に意識の隅で思い、急ぎ足で通り過ぎようとして……私は足を止めた。
理由は自分でもわからない。
そのストリートミュージシャンは、特別歌がうまい訳でも演奏が神がかっていた訳でもない。
声が特徴的なのでも、はっと息をのむような美男だったのでも。
決して醜男ではないが美男ともいえない、これという特徴のない平凡な青年が、素人の域を出るかどうかギリギリの腕前でアコースティックギターを弾き、スキャットで歌っている。
歌詞のある歌でなくスキャットだったのがちょっと珍しいだけの、どこにでもいそうなストリートミュージシャン。
ただ、彼はとても楽しそうだった。
私は立ち止まり、なんとなく演奏に耳を傾けた。
お客さんなどほとんどいない、寂れた夜の駅前だ。
こんな場所で何故彼は、ここまで楽しそうというか多幸感あふれる顔で歌えるのだろう、と、意識の隅でちらっと気味悪く思った。
もしかするとちょっとゆっくりな人、あるいは危ないクスリをやってる人なのかもしれない。
だけどそんな下世話な勘繰りなどどうでもよくなるくらい、彼の奏でるギターの音色は優しかった。
私のような素人でも上手いとは言い切れない、素朴すぎる演奏なのにもかかわらず。
優しくやわらかく耳に心地よく、ギターのメロディが心に沁みてくる。
ギターに絡む彼のスキャットもまた、不思議なくらい心地いい。
しばらく聴いているうち、彼の演奏やスキャットには素人演者にありがちな、聴いている者が恥ずかしくなる類いの暑苦しい思い入れや押しつけがないのに気付いた。
奏でる喜び・歌う楽しさしか、聴き手には伝わってこない。
どのくらい経ったのだろう。
演奏が終わった。
彼は手を止めると姿勢を正し、一礼した。
ほとんど無意識のうちに私は、力いっぱい拍手をしていた。
何故か涙がにじんでいた。
そこで初めて私は、自分が感動しているらしいのに気付き、戸惑った。
戸惑いながらも手は止められない。
叩きすぎて、てのひらや指が痛くなってきたけれども、拍手を止める気にはなれなかった。
彼は嬉しそうに楽しそうに私へ笑顔を向けてるともう一度頭を下げ、くるりときびすを返してどこへともなく飄々と去った。
彼の後姿が街灯の向こうの闇に溶けて見えなくなるまで、私は拍手を続けた。
辺りが不意に静かになったような気がした。
夢から醒めたように手を止め、ひとつ大きく息をついて、意味もなく空を見上げた。
よく晴れた空は思いがけないくらい澄んでいて、ひんやりとした清々しい夜気がおりてくる。
身体の奥に、ぼんやりとした熱があるのを自覚する。
帰宅し、簡単な食事の後、お風呂へ入る。
浴槽に湯をためながら私は、足を縮めて身を沈めた。
一人暮らしの1LDKでの暮らしにも、いいのか悪いのかすっかり慣れた。
それなりにルーティンが出来上がり、生活に無駄な迷いがなくなって久しい。
浴槽の半分までたまった湯の中で、私は、ついさっき出会ったストリートミュージシャンをぼんやりと思い出していた。
更に身体を縮めて湯へ沈み、名前も知らない彼のことをとりとめもなく考える。
不思議な人だった。
彼から、表現者にありがちなギラギラしたもの……綺麗に言うなら情熱や野心、あからさまに言うなら有り余る自己顕示欲や劣等感と裏表のエリート意識など、特有の生臭さをほとんど感じなかった。
珍しい。
そんなものを持たない者が何故、『表現者』など目指すのだろう?
それに、まもなく三十になる私よりは若そうだったけど、夢を持て余して路上で活動するには、いささか歳を取り過ぎているような気もした。
(昔の夢を突然思い出した……とか?)
なるほど、そういうこともあるだろう。
日常のふとした瞬間、心に小さな穴が空いたような虚しさを感じることなど誰にでもある。
そんな時、何らかの『表現』を目指した者なら一時的に、かつての熱病じみた情熱がぶり返すものだ。
彼の場合はおそらく、ギターを弾くことだった。
歌が歌詞のないスキャットだったのも、衝動に任せ思いのまま、ひたすらメロディを奏でたかったから。
そういうことなら、彼からいい感じに『ギラギラ』が抜けていても不思議ではない。
ようやく少し腑に落ち、私は勢いよく浴槽から立ち上がった。
翌夕刻。
彼はやはり、例の駅前で歌っていた。
今日は定時で仕事が終わったので、昨日より二時間は早い時間にそこを通った。
寂れた駅でもこの時間帯ならまだ、行き交う人がそれなりにいる。
いるにはいるが家路へと急ぐ人が多いからだろう、彼の周りに聴衆はいなかった。
スピーカーにつないでいないアコースティックギターの音色は儚く、マイクに通していないスキャットの歌声はか細い。
雑踏にまぎれて消えてしまいそうだ。
私は無意識のうちに立ち止まり、その儚くか細い音の連なりに耳を傾けた。
奏でながら歌いながら、彼は、私の姿を認めて目許をゆるめ、軽く会釈した。
私はなんだか恥ずかしいような気分になり、会釈を返して苦笑いじみた愛想笑いをした。
年甲斐もなくうろたえているのを自覚しながら、やや上の空で私は、しばらく耳を傾けた。
この前とは違う曲のようだけど、受ける印象は同じだった。
個人の生臭さが見事に洗い晒された、さながら空を渡る初夏の風にも似た、さわやかで耳に心地よいメロディ。
ただしこの雑踏の中では、聴き手の心へ音が届く前に消えてしまいそうだ。
私は何故か、不意に、このままここで彼の演奏を聴き続けているのが苦しくなってきた。
そろりそろりと後退りし……、思い切るようにきびすを返す。
そして音を拒むようにわざと足音を立て、がむしゃらに前へと進んだ。
自宅ドアの前で、ようやく私はひと息ついた。
鍵を開ける。
どこからともなく地虫の鳴く声がかすかに聞こえてくる。
決して聞こえてこない筈のギターの音色とスキャットが、何故かいつまでも私の耳の奥で響いていた。
帰宅後のルーティンのあと、私はふと思い立ち、パソコンを立ち上げた。
四、五年前までしきりに投稿していた小説サイトへ、久しぶりにログインする。
一応、ここのアカウントはまだ持っている。
退会も考えたが、思い切れずにズルズルしているのだ。
かつて投稿した短編長編合わせて三十ほどの作品は、サイト内にまだ残っている。
連載中途で放置した青くさい長編も、さながら断ち切られて路上に放置された縄か何かのように、そこにあった。
タイトルを見ただけで顔が熱くなってきた。己れの恥部を覗き見る気分だ。
自作の短編を適当にクリックしてざっと読み流し……すぐ嫌になった。
読めたものではない。
作品としての良し悪し以前の問題だ。
行間からにじみ出る己れの自意識の醜さ……したり顔で語られるあれこれ、傲慢なまでの稚気に吐き気がした。
重いため息をつき、逃げるように私はサイトからログアウトした。
何かを『表現』しようとする者は、大抵どこかしら歪んでいる。
少なくとも私はそう確信している。
周りから真っ直ぐ受け止められ、あまり歪まず育ってきた者が、わざわざ『表現』しようとあがくことなどない。
普通以上に歪みを抱えた者は、まずは己れの痛みや苦みを昇華する為に『表現』する。
そしてある程度の『形』が作れるようになると、今度は『形』に昇華できる『特別』な自分を認めてほしくなり、広い意味でうろつくようになる。
何かを『表現』するなどという不毛な道へ踏み込む者は、大体みんなそうではないだろうか。
もちろん……私自身を含めて。
不意に苦い味が口中に広がった。
その他大勢としかいえない今の自分が、決して嫌なのではない。
ひりつくような自己顕示欲を持て余してキリキリ苦しむほど、若く(幼く)もない。
少女の頃のように、その道以外を歩いている自分を否定してもいない。
冴えない会社の冴えない平社員である、今の自分。
だが、これでもそれなりに仕事に対して責任や誇りを感じている。
なのに……何かが満たされない。
仕事で忙しくしていれば時間は過ぎて行くし、退屈もしない。
その上、そこそこ生きてゆける程度のお金も稼げる。
給料日にはちょっとした贅沢だって出来るし、少しだけど蓄えもある。
自分の家庭を持っていないのは、三十手前の女として少々寂しいと言えなくもないが、元々結婚願望の強い方でもないから切実に苦になるほどでもない。
少なくとも私は今の暮らしに、大きな不満はない。
でも。
窓越しに、夜の闇を覗き込んだ時。
街路樹の葉ずれの音に、ふと立ち止まる時。
飛ぶような速さで黒い雲が、空を横切ってゆくのを見た時。
静かな部屋の中で、アスファルトを叩く雨の音を聞いている時。
胸の奥で不意に、ひとつらなりの物語が蜃気楼のように立ちのぼる。
大部分は形になる前に消えてしまう、儚い儚い物語の萌芽。
それを、大輪の花咲く日まで育てたい衝動が、私の中に強く湧き起こる。
夢中であれこれ組み立てて……ある瞬間がくると唐突に醒める。
どこかで見たような筋のどこかで見たようなキャラクターが、したり顔で三文芝居をしている、どこかで見たような陳腐な物語。
私は、半ばまで組み立てた物語を醒めた目で見、ため息と共に消し去る。
胸の中で立ちのぼる物語は、私が捕まえようとした途端、姿を変えてしまう。
宝石だと思ってつかんだものが瞬くうちに私の手の中で、ありふれた石ころに変わるのを何度も経験し……要するに才能がないのだと思い知る。
サイトへ行かなくなった頃、二十代半ばの頃だ。
会社の仕事に身を入れ始めたのもこの頃だ。
己れの才能の無さを、骨の髄まで思い知った筈なのに。
未だに完全に忘れ切ることが出来ないのは、一体何故だろう。
私の胸には、仕事でも恋でも結婚でも埋まらない欠落がある。
この欠落は多分死ぬまで、満たされることはない。
満たしたいと心底思っていないことも、最近うっすら自覚し始めている。
欠落が生む歪みは、物語を生み出す原動力になる。
一生のうち一度は、大輪の花といえる物語を造り上げることが出来るのではないかという思い……あからさまに言うのなら欲、を捨てきれない。
物心つく頃から抱えている、私の『業』だ。
翌日と翌々日は雨だったからだろう、彼は駅前にいなかった。
ふと、もしかすると彼はもう、あの場所に現れないかもしれないなと思った刹那、後悔に似たものが胸をかすめる。
一瞬後、そんな自分に少し腹が立った。
何を後悔するというのだろう?
別に彼に恋をした訳でもない。
そう、断じて恋ではない。
彼が奏でるメロディとスキャットを、いいなと思ったのは確かだけれども。
彼個人を知りたいとか、関わりたいとかは思わない。
テレビ画面の向こうで歌っているミュージシャン以上に、私は彼本人へは興味がわかない。
かもしだす不思議な空気と我欲のない音に惹かれるが、それは心地よい風を愛でるのに近い。
心地よい風に吹かれたいように、彼の演奏と歌を聴きたいと思っているのだ……多分。
首を振って耳の奥に残る優しいメロディを締め出し、私は、あえて日常へ心を向ける。
今日は早めに仕事が終わりそうだ。
ここ最近、忙しさにかまけていい加減な食事ばかりしていた。
たまには新鮮な食材を使ってきちんと料理をし、ゆっくり味わって食べよう。
会社の帰りに大きなスーパーへ寄り、食材を買って帰ろうと、やや気負ったように決める。
買い物袋を手に私は、調理の手順をぼんやり考えながら駅舎から出る。
涼やかな風が一瞬強く、こちらへ向かって吹いた。
身の内のよどみを洗い流すような、心地のよい風。
「……ラーラララ、ラララララーラ……」
素人より紙一重くらい上の、素朴なギターの音色。
その音色にやわらかく絡む、スキャットの歌声。
「あ……」
思わず声が漏れた。
彼だ。
いつもの場所で彼は、ギターを奏でていた。
初めて見た日と同じように多幸感あふれる顔で今日も、彼は奏で、歌っていた。
前回よりも一時間ほど時間帯が遅かったからだろう、この付近に人はほとんどいない。
人がいてもいなくても、彼のパフォーマンスは変わらない様子だ。
メンタル強いなと思う反面、やはり少々薄気味悪い。
「……やあ。いつもありがとうございます」
不意に演奏を止め、彼は真っ直ぐ私を見てそう言った。
声をかけられて初めて、私は彼の聴衆――いや『衆』ではないから聴き手くらいが言葉としては正しいのかもしれない――になっていたことを自覚する。
左腕に下げた買い物袋の重みが、不意に強く感じられた。
「これで思い残すことはなくなりました。ありがとうございます」
ニコニコしながら彼は、さらっと不穏なことを言った。
「……は?」
間の抜けた声を返す私へ、彼は頬を引くと真顔で深く一礼した。
「俺、実はもう死んでいるんです。いわゆる四十九日も今日が最後なんですよね。ゆくべき場所へゆく、そういう時期になりました。最期の望みが叶ったので、本当に心残りなくゆけそうです。おねえさんのお陰です、ありがとうございました」
「ちょっと、ちょっと待って。なにそれ、何の冗談?」
慌てて私がそう問うと、彼はやや困ったように眉を寄せた。
「あー、そうですよねえ、そう思われても仕方ないですよね。ごめんなさい、気持ち悪いこと言って。でもどうしてもあなたに、ちゃんとお礼を言いたかったので。俺のヘタクソなギターと歌を、立ち止まって聴いてくれた人なんて初めてだったものですから」
彼は少しうつむき、照れたように手元の弦を弾いた。
「ガキの頃、兄貴の学校での文化祭で初めてギターの生演奏を聴いて以来、ギターにハマってしまいましてね。教本片手に、我流で一通りは弾けるようになった頃に、作曲の真似事もやるようになったんです。まあその、聴いていただいた通り下手の横好き以上にはなれなくって。就職して以来、ギターはとんとご無沙汰だったんですよ」
つま弾かれたボロロロンという優しい音色は、どこか恥じらっているようでもあった。
「俺はつい最近、自分でもあっけにとられるくらい、あっさり死んでしまいましてねえ。まあ、この辺の事情は無関係の人には鬱陶しいだけの話ですから省きますけど、最期の瞬間に思ったのが『ギター弾きたい』だったんですよ」
彼は顔を上げ、淡く苦笑した。
「馬鹿ですよね。心の奥にずっと『ギター弾きたい』って思いはあったのに。上手くないから弾いても仕方ないとか、仕事が忙しいから今は出来ないとか、やらない言い訳ばっかり自分にして……今際の際になって『ギター弾きたい』ですもの。ホント馬鹿」
彼はもう一度、苦いような疲れたような笑みをほのかに浮かべ、すぐ真顔に戻った。
「ギター弾きたいなら、ぐちゃぐちゃ言ってないで弾けば良かった。死んで、俺はそう思いました。でも……死ぬ前に思うべきでした。間抜けな話でしょう?」
「……いいえ」
胸の痛みに押されるように私は、ゆるくかぶりを振った。
「いいえ」
彼は楽しそうに声を立てて笑い、再び一礼した。
そして拍子抜けするくらいあっさりときびすを返し……宵闇に溶けた。
我に返ったような気分で私は、そっと辺りを見渡した。
人影もまばらな、いつもの駅前。
何気なく上を見上げると、澄んだ夜空には星が光っていた。
深く息を吸い込むと、冴えた夜気の中、ほのかに若葉の香りがひそんでいた。
出会いはそれでおしまい。
それ以後、別に私の暮らしが劇的に変わった訳でもない。
会社できちんと仕事をするし、家事はルーティンで回す。
たまに友人と会ったり、職場の同僚とお酒を呑みに行くこともある。
時間が経つにつれ、あの不思議な出会いは夢だったのかもしれないと思う時もある。
それでも。
窓越しに、夜の闇を覗き込んだ時。
街路樹の葉ずれの音に、ふと立ち止まる時。
飛ぶような速さで黒い雲が、空を横切ってゆくのを見た時。
静かな部屋の中で、アスファルトを叩く雨の音を聞いている時。
胸に立ちのぼる物語の萌芽から、目を背けるのはやめた。
だからと言って性急に形にしようと、必要以上に焦るのもやめた。
ゆっくりお話の芽を育て、その芽が育つさまをそのまま描写すればいいと、あれ以来私は思うようになった。
家事のルーティンの後、私はこのところ毎日のようにパソコンを立ち上げ、ポツリポツリと儚いお話の芽を描写し始めた。
まだ他人様に見せられる程ではないけれど、私はお話を書きたいのだから、言い訳せずに書けばいい、と。
そんな、とても基本の事柄を私は、途轍もない遠回りの末に見出していた。
一番初めは自分の為に。
だけど、次は必要としているであろう誰かの為に。
私は書く。
名も知らない彼から伝えられた魂の響きは、私の胸を震わせて新しい響きを生み出し始めている。
たとえ、たった一人であったとしても、誰かの心を震わせる物語を。
その日を夢見て、私は今日も物語を綴る。
さながら、天へ恋文を送るように。