フェイズ08「広がる戦場」
1940年の冬から1941年の春にかけて、主要な戦場は洋上にあった。
日本軍は、1941年2月にはセイロン島を簡単に落とし、4月を目処にアッズ環礁、そしてインド総督府の存在するカルカッタへの侵攻を目指していた。
日本軍の予定では、8月にはアラビア海方面に進んでいる筈だった。
一方では、セイロン島を軸とした大規模な通商破壊戦を企図しており、潜水艦と水上通商破壊艦艇をセイロン島のコロンボに集めつつあった。
イギリスを叩きつぶすには、植民地と本国の連絡を遮断する以外に、日本の選択肢が無かったからだ。
一方で日本海軍の主力は、一旦殆どが日本本土にシンガポールで内地に資源を運ぶ大船団と合流した後に帰投していた。
これは日本で建造中だった新造の大型艦艇が多数就役しつつあるので、艦隊の再編成を行うためだった。
また長期作戦で整備や補修、改装、さらには修理の必要な艦艇がかなりの数あったことと、航空隊の新型機受領が必要だったことも影響している。
日本の戦時生産も、いよいよ本格的に回転し始めていたのだ。
そして艦隊を再編して心機一転した大戦力で、一気にインド全域の制圧を図るものとイギリスでは考えられていた。
しかしインド洋に残された日本軍の艦艇や航空隊だけでも、壊滅状態のイギリス東洋艦隊では対抗不可能な状態だった。
それどころか、インド洋の海上交通路防衛すらままならなかった。
一方では、日本軍がインド洋東部やアラビア海方面に大挙進出する前に、イタリアの勢力圏であるソマリランド、エチオピアの鎮定が実施された。
こちらは現地イタリア軍が極めて弱体で、イギリス軍が驚いたほどイタリア兵の戦意が低かったため、ほとんど無抵抗で作戦を完了することができた。
一人の兵士が、無数のイタリア兵捕虜を移送する写真が、象徴という意味では極めて有名だろう。
このアフリカ北東部での動きは、日本軍の動向に少なからぬ影響を与えることになり、日本の目はアラビア海、そしてその先にあるペルシャ湾を向くようになる。
イギリスは、イタリアには圧勝できたが、日本に対してはやぶ蛇となったのだ。
一方で、大西洋及びヨーロッパ北部の戦況も、イギリス軍にとって芳しくなかった。
ドイツ海軍の活動が、いよいよ活発になっていたからだった。
Uボートに対しては、商船団の組織化と護衛部隊の組織、さらには新兵器の海上及び航空電探(RDF)の試用などもあって、徐々にだが効果を上げつつあった。
しかしドイツ軍は、空軍の長距離飛行機と水上艦艇の活動が活発になっており、非常に危機的な損害を発生させ続けていた。
装甲艦の「シェーア」などは、マダガスカル島近辺まで進出して、初めて日本海軍の艦船(特設巡洋艦)との邂逅と補給に成功していた。
この時「シェーア」艦長は、ドイツ本国に帰投後レーダー元帥に、日本船からもらった飲食物を手みやげにして自らの功績を誇ったという。
また、日本製の剣(主砲)を持つ「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」は、この頃の大西洋では悪魔のごとく恐れられていた。
二隻の出撃のために、せっかく組織した船団は壊乱し、迎撃のために本国艦隊とH部隊を全力で出撃させたイギリス海軍を翻弄した末に、二隻は無傷でブレストにまで逃げおおせていた。
当然、その間に多くのイギリス商船を撃沈していた。
他にも、日本生まれの空母「リリエンタール」が、対潜・対空装備を充実させた特注の駆逐艦2隻と共に出撃し、イギリス海軍を翻弄すると共に偵察情報を各艦に送り届け、自らも艦載機による空襲で多くの戦果を挙げた上で無事キールへと帰投していた。
巡洋艦も重巡洋艦「ヒッパー」と、日本生まれの大型軽巡洋艦「フランクフルト」「ドレスデン」がイギリス海軍を引っかき回し、それぞれ数万トンの商船を沈めた上で、無事にキールもしくはブレストに逃げ込んでいた。
イギリス海軍は、各方面で動き回るドイツ海軍に翻弄されるばかりで、対処が後手後手に回ることが多かった。
これは海上交通防衛が、いかに難しい戦闘であるかを物語ってもいた。
ドイツ海軍の動きに連動した日本海軍も、コロンボから多数の仮装巡洋艦、巡洋艦、水上機母艦、そして大量の潜水艦を出撃させた。
一部の潜水艦は、インド洋東部から喜望峰を越えた南大西洋の通商路を初めて叩いた。
相手を翻弄するために、南アフリカを砲撃した潜水艦も存在した。
モーリシャスやセイシェルなど、インド洋西部の小さな島々にもその手を伸ばしていった。
インド洋では、日本軍はやりたい放題だった。
この頃のイギリス軍の朗報は、ギリシャ方面への増援を阻止しようとしたイタリア海軍を手ひどく叩けた事ぐらいだったが、ここでも商船を失い続ける中で少なくない数の駆逐艦や軽巡洋艦を失っていた。
枢軸側の目的は明らかだった。
通商破壊でイギリスを疲弊させると同時に、イギリス海軍を翻弄して大規模な活動を封じ込み、その間に自分たちの作戦目標を達成しようとしている事は間違いなかった。
特に日本軍にその傾向が強く、日本は通商破壊でイギリスを翻弄している間に自らの主力艦隊を再編成し、圧倒的戦力でインドを完全に征服するつもりだった。
だがドイツ海軍自体は、イギリスを叩き続けて弱体化させることでイギリス本土攻略にヒトラー総統の目を向けようとしていたと言われている。
また、この時期が技術面や戦力面で、イギリスを海上封鎖で降伏に追い込める最後の時期だと判断していたため、ドイツ海軍の活動が活発となっていた。
しかし、一部で日本と連携してもなおイギリスは屈することはなく、戦いは徐々に別方向へと流れつつあった。
そしてその流れを取り戻すべく、ノルウェー作戦以来の大規模作戦が発動される。
これが「ライン演習」と呼ばれる作戦であり、同作戦でドイツ海軍は最新鋭戦艦「ビスマルク」を中核として、もう一度全大型水上艦艇の出撃を予定していた。
しかしイギリスとしては、北海及び北大西洋のドイツ軍ばかりに目を向けている場合ではなかった。
方々で火がついていた。
地中海、バルカン、北アフリカ、中東、インドの全てで枢軸軍攻勢が続いていた。
順に見ていこう。
地中海にはドイツ空軍が大規模な進出を開始して、北アフリカの枢軸軍(イタリア軍)を支援し始めていた。
またドイツ空軍は、ギリシャに向かうイギリス船団の攻撃も積極的に行った。
3月に行われた戦闘でイギリス海軍は、ドイツの急降下爆撃機の前に空母「イラストリアス」が大きな損害を受け、直後に日本生まれの少数の雷撃機により止めを刺されてしまうと言う大損害を受けていた。
飛行甲板に装甲を施した重防御空母は、急降下爆撃には耐えたのだが雷撃には脆かった。
イギリス海軍の空母事情は、新鋭艦艇を順次迎えているのに一向に好転しなかった。
バルカン方面では、ドイツ軍がルーマニアの油田安全確保のため、イギリス軍3個師団の入ったギリシャへの侵攻計画を進めていた。
幸い、全てのバルカン諸国はドイツを中心とする枢軸国の快進撃に怯えてドイツなどとの同盟関係を結び、4月初旬にはギリシャ侵攻が開始された。
若干の懸念があったユーゴスラビアも、ごく一部の反政府、反ドイツ分子が発生したに止まった。
バルカン諸国の動きには、ヨーロッパ情勢に加えてインドでの日本の快進撃とアメリカの消極姿勢がバルカン諸国の去就を決めさせたと言われている。
ギリシャに侵攻したドイツ軍を中心とした枢軸軍は圧倒的で、戦闘開始からわずか一週間で首都アテネが陥落してギリシャは降伏した。
現地に派遣されていたイギリス軍は、派遣されて間もない事もあって、まともに戦う暇もないままに防戦ではなく退却戦を余儀なくされた。
その後ギリシャからクレタ島へのイギリス軍の撤退は成功したが、すぐにもクレタ島争奪戦が発生。
ここでドイツ軍は、大規模な空挺作戦を実施する電撃的侵攻を行ったが、奇襲を必要とする空挺作戦はイギリス側も察知しており、4月15日から始まったクレタ島での戦いは攻めたドイツ軍の方が損害の大きな戦いとなった。
しかしクレタ島から脱出できなかったイギリス軍も多く、クレタ島にいた4万人のうち1万7000人が、大きな犠牲と捕虜を引き替えとして脱出できただけだった。
そしてクレタでの戦いは、イギリス軍がまだ善戦できた戦いだった。
予想外だったのは、一気に活発となった北アフリカ戦線だった。
ここでの戦いで一躍世界的に有名になるドイツのロンメル将軍が、少ない戦力で長い進撃で疲れていたイギリス軍に対して攻勢に転じ、僅か2週間ほどで戦線をエジプト国境近辺にまで押し戻していた。
その後イギリスは大至急増援部隊を送り込み反撃を企てるも、ロンメル将軍の巧みな戦術の前に敗退を余儀なくされ、侵攻こそ許さなかったが反撃にも失敗していた。
しかも北アフリカは、イギリスが半ば勝利を確信していた戦場だけにショックが大きく、遙か東から押し寄せつつある日本軍の事を考えると非常に大きな負担だった。
なぜなら既に喜望峰周りの海上交通路は危険に満ちており、同じく危険に満ちた地中海を使うしか北アフリカ、中東への補給路がなくなりつつあったからだ。
そして、残る中東、インドの戦線では、日本の動きが常に影響を与えていた。
日本軍は1941年2月にセイロン島の占領を宣言すると、そこを拠点に活発な通商破壊戦とインド本土南部への空襲を開始した。
またビルマ戦線もインドとの境界線にまで日本が迫っており、ビルマ西部のアキャブからカルカッタなどインド東部への空襲も始まっていた。
日本陸軍が投入した「一式戦闘機(隼)」は、日本陸軍が戦争の中にあって慌てるように投入した新鋭機だったが、これまで不足していた長距離侵攻能力もある程度備えていたため、非常に有効な戦力となった。
この結果インド半島南部一帯とガンジス川沿岸は、完全に日本の制空権下となっていた。
既に航空戦力が壊滅的で安全に増援も送り込めないインドでは、イギリス軍の出来ることは限られていた。
それでもインド支配の拠点であるカルカッタには努力して増援部隊が送り込まれていたが、インド洋東部では船の半分以上が日本軍の通商破壊戦の餌食となり、空では日本軍との間の航空撃滅戦が行われるという、極めて不利なゲームを強いられる状況だった。
船団を組んで大規模な増援を送り込もうとした時などは、日本海軍では軽空母による機動部隊の空襲と巡洋艦群による襲撃、そして潜水艦による群狼戦法が行われた。
この時、どんな形であれインド東部のどこかに到達できた船の数は、僅か2割に過ぎなかった。
しかもこの時発生した戦闘での護衛艦艇の消耗も大きく、巡洋艦同士の夜間戦闘では電探(RDF)を持っていながら日本軍の圧倒的な夜間戦闘能力を見せつけられることになる。
軽空母による空襲でも、少数の艦載機が洋上ではどれほどの働きが出来るのかという事を身にしみて教えられる手痛い損害を受けた。
日本海軍は、イタリアとは少なくとも戦意の面で次元の違う相手だった。
しかも4月になると、日本海軍主力の一部がインド洋に戻ってきた。
戻ったのは編成されたばかりの第二航空艦隊とシンガポールを根城にしていた遣印艦隊で、第二航空艦隊は高速空母「蒼龍」「飛龍」に加えて新鋭の大型空母「翔鶴」「瑞鶴」を中核として編成されていた。
遣印艦隊の方は金剛級戦艦の「比叡」「霧島」を中核に編成されており、これらの艦隊に護衛された特別海軍陸戦隊3000名が、アッズ環礁に電撃的に侵攻した。
しかしアッズでは、既にイギリスがほとんど撤退していたため戦闘にはならず、日本軍は無駄に砲弾と爆弾を浪費して、イギリス軍が破壊した同基地をさらに破壊しただけでしかなかった。
だが同地を日本軍が占領した効果は大きく、ただちに基地が設営され、占領翌日には飛行艇による長距離哨戒が始まった。
環礁には続々と潜水艦、潜水母艦、飛行艇母艦、各種艦船が進出して、瞬く間に日本軍の前線基地と化した。
しかも日本軍は、ジャワ島から艦隊と共に通商破壊部隊も遠方に放っており、作戦に前後して東インド洋で多くの連合軍船舶が撃沈された。
このため喜望峰からインド洋各地への船舶を向かわせる場合、半分は沈むことを覚悟しなければならなかった。
オーストラリアに向かう船はまだましだったが、日本軍はオーストラリアに対する封鎖やダーウィンなどへの空襲を、強い嫌がらせ程度でしかしていないので、当事者のオーストラリア市民以外にとって現時点ではどうでもよい状況だった。
そしてこの時点でのイギリス側の懸念は、地中海から紅海を抜けて危険を冒すか、陸路をはるばる進むしか中東や印度に増援や補給を送れないということだった。
逆に、インドから他方面に兵力を抽出することもできなかった。
後一ヶ月ほどでやってくる日本軍の大部隊は、どこでも好きな場所に上陸作戦を行える圧倒的なアドバンテージを持っていたからだ。
しかも、一気に複数箇所上陸してくる可能性もあった。
何しろ満身創痍の王立海軍と違って、エンペラーの艦隊はほとんど無傷だった。
そうしてイギリスにとって不安定さを増している中で、中東のイラクでは親イギリス政府が倒されて親ドイツ政権が成立し、シリア、レバノンのヴィシー政府も親ドイツ傾向を強めた。
しかもクーデター直後のイラクには、日本の輸送船が極秘に到着して、武器弾薬、そして航空隊までが送り込まれ、現地に駐留する僅かなイギリス軍をイラク軍と共に攻撃した。
イギリス軍は反撃しようとしたが、インドのオーキンレック将軍は動くに動けなかった。
中東方面から進撃したくとも、リビアからはドイツ軍が迫りつつあり、枢軸軍全体による通商破壊のため、北アフリカ、中近東のイギリス軍は十分な増援、物資を得ることができていなかった。
しかも地中海側の補給はまず北アフリカに送られ、インド洋に向かった増援はインドに注ぎ込まれていた。
しかもどちらもが大量出血しながらの補給だったため、中東にまで回らないと言うのが実状だった。
しかもペルシャ湾から紅海にかけての海域にも日本軍潜水艦がウヨウヨしており、ペルシャからの石油積み出しすらままならないという状況に追い込まれていた。
そしてイギリス側の予測より少し遅れた1941年5月27日、日本の大部隊がシンガポール、ジャワを出撃したという情報がイギリス軍の情報網を飛び交った。
以下が、この時の艦隊編成の概要となる。
第一航空艦隊
第一航空戦隊:「赤城」「加賀」「祥鳳」
第三航空戦隊:「龍驤」「龍鳳」「瑞鳳」
CG:2 CL:1 DD:9 DDE:4
第二航空艦隊
第二航空戦隊:「蒼龍」「飛龍」
第五航空戦隊:「翔鶴」「瑞鶴」
CG:2 CL:1 DD:6 DDE:4
第一艦隊
第一戦隊:「大和」「長門」「陸奥」
CL:1 DD:12
第二艦隊
第三戦隊(第二小隊):「金剛」「榛名」
CG:4 CL:1 DD:16
遣印艦隊
第三戦隊(第一小隊):「比叡」「霧島」
CG:4 CL:1 DD:8 DDE:4
本隊
第二戦隊:「扶桑」「山城」「伊勢」「日向」
第四航空戦隊:「千歳」「千代田」
CG:1 CL:3 DD:12 DDE:16
+輸送船団
見ての通りこの当時の連合艦隊揃い踏みであり、1937年に計画された新鋭の大型艦艇のほとんどが参加する陣容でもあった。
シンガポール近辺のリンガ泊地からの出撃の様子は、さながら観艦式のようだったと言われている。
参加戦力を知ったイギリス、ドイツ双方の有力者が、半分でいいから自分の手駒に欲しいと言ったほどだった。
搭載された艦載機の数も600機に達しており、この数字はインド方面に存在する全てのイギリス軍機の二倍に達していた。
しかもこれ以外にセイロン島、ビルマ方面からは日本海軍の基地航空隊が支援にあたり、水面下には潜水艦が最低でも30隻展開していた。
他にも補給のための部隊など、後方支援のために出撃している艦艇も数多く、連合艦隊の総力を挙げた出撃だった。
また日本海軍の中で駆逐艦の数が俄然増え始めたのもこの頃で、1940年に計画された戦時量産型の角張った印象の強い中型駆逐艦が1940年の秋頃から続々と艦隊に編入されつつあった。
その数は、1941年5月の段階で既に30隻を越えていた。
全ては、イギリスと戦うために開戦後すぐに整備が開始された戦力達だった。
そして日本としては、イギリスのインド支配の牙城カルカッタを攻め落とすのだから、この程度の戦力を送り込むのはむしろ当たり前だと考えていた。
イギリスが黙って見ている筈ないからだ。
そしてイギリスとしても、これ以上の日本軍の攻撃と増長を看過するわけにはいかなかった。
だが大戦力で攻めかかってくる日本軍を完全に撃退できるとは考えられていなかったので、敵を陣地深くに引き込んでから撃退、つまり退かせるための戦いを行う方針が決められた。
日本がインドの深みはまりこんだ段階で、海上戦力が苦しくなって補給線の維持に困っているであろう日本軍に、じわじわと打撃を与え、さらに次の段階で決定的勝利を得ようと言うのが長期的目算だった。
「インドを守れ」。
このスローガンのもとでイギリス全軍が動き、北アフリカの増援も、ドイツへの都市爆撃も一時的に全て増援部隊に関しては棚上げして、用意できる全ての戦力をインドに移し、日本軍を手荒く歓迎する準備が進められた。
しかし、その戦力をインドに届けるには、どうしても一度アラビア海を渡り、阻止に出て来るであろう日本海軍と戦わなくてはならなかった。
幸いドイツ海軍の活動が一時的に低調になりイタリア海軍が弱っているので、増援は送り込める状況にはなっていた。
まずは地中海艦隊をスエズ、紅海を通してインド洋の入り口まで持っていき、本国からは増援船団を護衛しつつ本国艦隊の一部を送り込むことになった。
特に日本海軍が空母と空母艦載機を重視しているので、王立海軍の側も空母を出来る限り用意することになった。
海上での制空権の重要性を、イギリス海軍も強く認識している証拠だった。
しかしタラントの英雄である「イラストリアス」の姿は既になく、姉妹艦の就役もまだ途中だった。
日本軍に対抗するために用意された主力艦艇は、戦艦がクイーン・エリザベス級の全艦にあたる「クイーン・エリザベス」「ウォースパイト」「バーラム」「マレーヤ」「ヴァリアント」の5隻、空母が「ヴィクトリアス」「フォーミダブル」「ハーミーズ」の3隻だった。
艦隊に随伴できる空母は他に「フェーリアス」「アークロイヤル」「イーグル」があったが、ドイツ軍への備えや地中海での航空機輸送のために必要で引き抜けなかった。
旧式艦が多いというのも理由だった。
戦艦についても、ドイツに対抗するため速力または砲力のある艦、新鋭戦艦は安易に引き抜けなかった。
また「R級」戦艦のうち残存する2隻は、地中海艦隊の穴埋めに回された。
しかしインドへの増援と「R級」戦艦の移動は、整備や補給の手順を強引に調整していたので、たとえ勝ったとしても二ヶ月ほど先になると大きな穴があくというものだった。
しかも大西洋航路の船団護衛には、春先の教訓から行われる筈だった戦艦の護衛は全く無くなるという事態になっていた。
だが、8月までドイツ海軍を押さえつければ、大西洋上では艦艇が自由に行動できる季節を過ぎるので、イギリス海軍としては今が踏ん張りどころだった。
このためイギリスでは、海での未曾有の危機に際して、ナポレオン戦争の故事が引き合いに出されたりもした。




