10.こんつぇると
その店は『こんつぇると』といって、プチロードの中ほどにあった。蔦の絡まる煉瓦造りの建物で、『音楽鑑賞のお店です。会話はご遠慮ください。』と書かれた古めかしいドアを開けると、微妙な色合いをしたアール・ヌーボーのあかりが幾つも輝き、珈琲の香りがして、そして、年代物のスピーカーからは弦楽四重奏が流れていた。
「ブラームスですね。」
と、耳元で囁くと、ユウコは、そう、私もそう思ったところよ、とでもいうように、ぱっと顔を輝かせた。
隅の席に向かい合って座ると、そのまま二人は、しばらくその曲に耳を傾けた。何番かは分からないが、その複雑に絡み合う旋律と、決して頂上を極めることなくまた憂愁の中に沈潜する曲想は、ブラームスのものに違いなかった。アダージョ・モルトのゆるやかな音の流れが、ユウコと僕を包んでいった。
ユウコの方を見ると、彼女は、何かを話さなければならないという重荷から解放されたようにやすらかな表情をして、そうして、また僕のことを見つめていた。 僕は、もう一度、彼女を不仕合わせにしている言葉のこと、でも僕の前では心を許している彼女のこと、その彼女をたまらなく愛しいと思っている僕のこと、そして、二人の不思議な出会いのことを考えていた。
曲が変わった。今度は、ピアノの入った室内楽だった。
ユウコが、ハンドバックからメモ帳のようなものを取り出して、万年筆で何か書くと、僕のほうに見せてきた。
“シューマンのピアノ四重奏です。私の好きな曲です。”
と、書かれてあった。僕は、にっこりとうなずいた。ユウコは、もう一度メモ帳を受け取ると、また文字を書いて、僕に渡した。
“あなたに会えて、よかった。”
ユウコを見ると、今度は目を伏せていた。僕は、ちょっと目を閉じ、それから、テーブルの上に置かれた万年筆を取り上げた。そして、そこに残る彼女のぬくもりを指先に感じながら
“僕も、まったく同じ気持ちです”
とその下に書いて、彼女のほうに戻した。
そのようにして、二人はしばらくの間、筆談をした。
遠い北国の原野に降り積む雪のように、そのメモ帳には、二人の気持ちが、ゆるやかにゆるやかに積み重ねられていった。そうして、そのように二人の間を流れて行く時間を、僕は心から大切にしたいと思った。