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主人公は忘れました

「それは、逃げるのをやめることだ」


 俺は、怪盗の手からボートのスロットルを奪い取ると、一気に落とした。波を切るように走っていたボートが、急激に速度を落とす。しばらく惰性で進んだのちにボートは停止した。その間、怪盗は不思議そうに俺を見つめていた。


「なぜ、逃げるのをやめるのか? と、言いたそうだな」

「まったくその通りだよ。あんなに怖い追っ手が来ているというのにどうして逃げるのをやめるかな」


 怪盗はわざとらしくブルブルと体を震わせながら言った。本当は怖いなど思っていないに違いない。こいつが真に怖いと思うことなどあるのだろうか。俺はそんな疑問を持ちながらも怪盗に言った。


「そもそも、どうして俺たちがコソコソ逃げなくてはならないのか? 考えてみろ! 俺はお前と会ってと言うもの、逃げて、呑んで、また逃げるというのがパターン化している。こんなカッコ悪いことあってたまるか!」

「お嬢ちゃん……。カッコ悪いことは認めよう。そこは返す言葉もない。だけど、逃げる天才である私は敵をバッタバッタと切り刻み、逃げゆく者を怪力無双の豪腕で捕まえるなんて野蛮な真似はできない。暴力で迫る者からは逃げるのが一番さ」


 確かにコイツの言うとおり、俺たちには力がない。だが、相手が俺の王国を奪い。怪盗のねぐらにさえ奇襲をかけてきた現状を考えれば、俺たちを囲む包囲網はじわじわと狭まっている、と見るべきである。では、どれくらい狭まってきているのか?


「お前が居ればどんな時でも逃げられる。なら、いまはあの女からできる限り情報を引き出すのが最善手だ」

「随分と買ってくれるね。もしかして、私に恋しちゃった系かい?」


 ドヤ顔で迫ってくる怪盗の鳩尾に回し蹴りをいれると、俺は「技能に対する信頼、それだけだ」と言った。だが、それが怪盗に届いたかは分からない。やつは鳩尾に決まった蹴りのせいで床にうずくまっていたのだから。


「ほら、座っている場合ではない。ホテルにもどるぞ」

「ホテル? ああ、私たちの愛の巣だね。オーケーだよ」

「愛の巣? それは今しがた修羅の巣窟になったところだ。いまならあの女もまだいるだろう」


 俺は窓からやってきた行儀知らずな女のことを思い返す。彼女の襲撃はこれまでアリスが行ってきた襲撃と大きく違う点があった。それは、彼女が単独だった、ということである。過去の襲撃では、組織だった男たちが複数で襲ってきていた。だが、彼女は驚異的な身体能力を持ってはいたが、系統だった組織の一員のようには見えなかった。


 どちらかといえば、怪盗と同じように俺個人に対する思いから動いている印象を受けた。ならば、話し合う余地があるように思える。かつては口八丁で辣腕弁護士と言われた男である。あんな女どうにでもできるはずだ。


「なんだ……、あのおネェちゃんも一緒か。私は君と二人っきりがいいんだけどな」

「両手に花だと思えば、帰るもの楽しみになるだろ?」


 片方は元男、もう片方はナイフを振り回すような花であるが、そのあたりは怪盗の関心に触れないらしく「それもありか……」などブツブツとつぶやきながら満更でもない顔で笑った。まったく節操のないやつである。


「では、船を戻せ!」

「アイアイサー!」


 行きは慌てて出てきたから気づかなかったが、俺たちが止まっていたホテルは名前があった。古城の然としたシルエットにネオン管で書かれたその名前は『ホテル・シャトーサンシャイン』。持ち主が誰か開けっぴろに言っているようなものである。俺はため息をつきながら怪盗を見やると、


「いいだろ? ネオンの光が夜の闇と溶け合って最高にクールな建物に見える」


 と、胸を張った。こいつの美的感覚はよく分からない。


 俺たちは船を船着場に付けると、ホテルのロビーに出た。行きは消防隊員のように滑り棒で船着場に降りた俺たちであったが、流石にそれを登り棒のように登るような趣味はないので、ホテルのロビーに据え付けられているエレベーターを使用する。


 甲高い電子音を立ててエレベーターの扉が開くと、中からスーツ姿の女が出てきた。足元まであろうかという長い黒髪をなびかせた女である。顔は憂いに満ちており、就職活動に失敗した女子大生がよくあんな顔をしていたように思う。もしかすると彼女もこのホテルのどこかであった就職試験を受けたのかもしれない。


「あっ、すいません」


 エレベーターから出てきた女は、ぼーっとしていたのか、危うく怪盗とぶつかりそうになり慌てて謝った。


「いえいえ、構いません。そちらもお怪我はないですか?」

「はい、大丈夫です。ちょっと考え事をしていたもので……」


 紳士のような微笑を貼り付けて怪盗が女の心配する。俺はこいつらがどうなろうと関係ないので先にエレベーターに乗り込むと昇降ボタンを押した。行き先はスイートルームのある最上階である。扉が締まりかけたのを察知して、怪盗が慌ててエレベーターに滑り込む。


「ひどいな。私がほかの女と話すのがそんなに気に食わないかい?」

「いや、あのまま結婚してくれても構わない。それはそうと、このホテルには普通の客も来るんだな?」

「えっ? いまは愛の逃避行中だから客は入れていない。僕らだけのはずだ……ってことは」

「いまのがあの女か……。あれ、襲撃女ってどんな容姿だった? いきなりの登場だったせいか思い出せない。ナイフは持っていたよな?」

「私もあの時は必死だったからね。たぶん、ショートの黒髪じゃないかな」


 怪盗が頭をかきながら言う。自信がないのかやや目が泳いでいる。


「もっと長くなかったか? ほら、よく映画とかに出てくる女スパイみたいな感じだ。回し蹴りをすると髪がパッと広がる感じの」

「いやいや、それは服装が黒かったからじゃないかい。お嬢ちゃん」


 そう言われると、俺も自信がない。服装も就活用みたいなスーツだったような気もするし、いかにも女スパイと言った黒いライダースーツだったような気もする。登場が派手だった割には印象の薄いやつである。


「まぁ、どうせ部屋に戻ればなにかわかるだろ?」

「おかしいなぁ、女性の顔は一度見たら忘れない方なんだけどなぁ」


 くだらない特技をまたひとつ俺に開示する怪盗であったが、逃げるのと違って全く役に立たない特技である。俺たちが襲撃者の容姿をあれこれ言っているうちにエレベーターが最上階に止まる。一応の警戒をしながら、スイートルームに戻るがすでに襲撃者の姿はなかった。

 やはり、さっきの就活女子が襲撃者なのかもしれない。


「いないな」


「まぁ、いないならそれでいいさ。この随分と見晴らしのよくなった窓から風景を見ながら呑む酒というのも逃亡者らしい雰囲気で乙なものだろう」


 俺はソファに落ちているガラス片を適当に取り除くと、ソファに座り込んだ。怪盗はというと、壁にかかっていた絵画の何枚かがぼろぼろになっているのを見ると、「これは盗むのが大変だったのになぁ」、とため息をついた。

 ダメになった絵画を部屋の隅に重ねると怪盗は、眉間にしわを寄せて俺に言った。


「やっぱり、襲撃者は黒髪ショートのライダースーツのボインちゃんだったと思うんだ!」


 くだらない。とても真剣な顔でそんなことを言われても俺には「あっ、そう」としか言ってやることはできない。だが、俺の記憶では肩ぐらいまでのミディアムで、漆黒とまでは言えない明るさのリクルートスーツを着た、胸の控えめな女だったように思う。


 俺たちが女の容姿について討論を重ねていると、部屋のドアがトントンと叩かれた。


「開いている」

「今度は、壊さないでね。修理大変だから」


 俺たちの声を聞いてか、割と静かにドアが開かれる。そこにいた女を見て俺と怪盗は、


「そうだったのか!?」


 と、声をあわせて叫んだ。

この回はコーチャーが担当しました

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