彷徨う回転式拳銃(リヴォルヴァ)
京王線新宿駅から京王八王子ゆきの特急に乗って調布駅にて各駅停車に乗り換えることおよそ三十分。東府中駅前の交差点を渡ると北に向かって三百メートルほどのイチョウ並木が続いている。定食屋やカフェ、出来たばかりのフィットネスクラブなどが軒を連ねる並木道を抜けると航空自衛隊府中基地があり、その道路を挟んで西隣には緑豊かな都立府中の森公園が広がっている。
かつて府中市浅間町一丁目全域を占めていた旧米軍府中基地跡地は一九八二年に三分割して利用されることが決定され、南西の三分の一の区域には府中の森公園、府中市美術館、府中の森芸術劇場、市立中学校などが建設され、南東の三分の一の区域は現在の航空自衛隊府中基地となっているのであるが、残りの大部分は現在も廃墟のままだ。廃墟は四方をフェンスで囲まれて侵入禁止になっているが、外からでも荒れ果てた建物の内部を伺うことができ、そういった場所につきものの、真夜中にとても美しい女の幽霊を見たという噂が真しやかに囁かれている。
そんな東府中のイチョウ並木を抜けて左に曲がったところに赤茶色の煉瓦で造られた建物がある。全体的に古風な印象を漂わせているが外壁は綺麗に整備され、木製の扉の横に比較的新しい表札が掛かっている。
「メリーヴェール探偵事務所」
雨の日の早朝、人影もまだまばらな時間に扉の前に佇む女性の姿があった。顔は青ざめていて、何かひどく良くないことが彼女の身に降りかかっていて今にも押しつぶそうとしていることが容易に見て取れた。彼女は躊躇している様子だったが、すらりとした白い手が扉の横に伸びて呼び鈴を押した。
五分ほどして扉が開いた。燃えるような赤色の髪をしたとても可愛らしい女の子が彼女を出迎えた。しかし扉を開けると、幾分眠そうな、不機嫌そうな顔をして何も言わずに家の奥へ引っ込んでしまった。
「あ、あのう」
女性はどうして良いかわからない様子で、建物の奥に向かっておそるおそる声を掛けた。
「――どうぞお入りください」
おそらくは先ほどの女の子とは別の女性のものと思われる声が、廊下の向こう半分開いた扉を抜けて聞こえてきた。
傘を立て掛けて靴紐を解き、揃えてあったスリッパを履くと、相変わらず青ざめた表情のままゆっくりと廊下を進んでいった。
「ようこそ、メリーヴェール探偵事務所へ」
中世の可憐な女騎士を思わせる凛とした顔立ちの、美しい人物が改めて彼女を出迎えた。色白で細身で、フリルの付いた華やかな衣装を着ている。その中性的な顔に見せる花が咲くような笑顔は向けられた人の警戒心を無条件に解く不思議な魔力が感じられた。
「おや、具合が優れない様子ですね。そこのソファに腰掛けて。すぐに温かい紅茶と甘いお菓子を用意します。メル、君のお気に入りのやつを持ってきてちょうだい」
直ぐに赤毛の女の子が、頬をもぐもぐと動かしながら紅茶の入ったティーカップを2つとファッジが盛られた小皿を運んできた。机に並べると、何も言わずにさっさと引き返した。
「あの子は僕の助手で、メリーヴェールといいます。無愛想だけどヴァイオリンとピアノの演奏は達者で美味しい紅茶を入れてくれます。僕は探偵の椋露路朱寧です」
椋露路の自己紹介を聞くと、向かい合った女性は口を開いた。
「こんな朝早く、突然押しかけてしまってすみません。でも、どうしてもお願いしたいことがあって、じっとして居られなかったんです」
「構いませんよ、僕もメルも朝は早いんです。さあ、まずは紅茶を一口とそこの砂糖の塊を一つ摘んで、それから話を聞かせてください」
彼女は椋露路に勧められたとおりにカップを口元へ運びメープルファッジを一つ頬張ると、幾分落ち着いた様子になった。
「それじゃあ、まずはお名前から伺えますでしょうか?」
「わたし、花門莉紗と申します。こちらへ伺ったのは一昨日から行方が分からない兄――和十を探して頂きたくて、昨夜友人から椋露路さんの噂を聞いたものですから、夜が明けるのを待ってこちらへ参りました」
「お兄さんが行方不明……失礼ですが、莉紗さんの様子から察するにもっと窮迫した事情があるように見受けられたのですが、それだけですか?」
椋露路の言葉に、莉紗は首を振った。
「実は……」
莉紗は言いかけた言葉を引っ込めると、瞼を閉じて、ソファの上に身体を縮めて浅い呼吸を繰り返した。椋露路は何も言わず彼女をじっと見守る。
「兄は……兄は、多分人を殺してしまったと思うのです」
暫くすると、彼女は意を決したようにその言葉を放った。椋露路は驚いた様子もなく、彼女の息が整うのを待った。
「何故、お兄さんが人を殺してしまったと思うのですか?」
「一週間ほど前から兄の様子がおかしかったのです。家族の前ではいつもどおりに振る舞うのですが、自分の部屋に篭ると落ち着きなく部屋中を歩き回ったり、興奮して声を荒らげたり。普段は物静かな兄なので、気になって聞き耳を立てていたんです。私の部屋は兄の隣でしたので……そしたら、越野司を殺してやるって兄の声がはっきり聞き取れました。決意を込めたような声で、とても冗談に聞こえませんでした」
「それで?」
「何日かそのようなことが続きました。私は兄の様子が不安でしたが相談できる相手もいなくて……そしたら、一昨日の真夜中過ぎに、玄関の扉が開く音に目が覚めて部屋から出ると、兄がどこからか帰ってきたところでした。全身黒尽くめの格好をしてひどく興奮している様子で、その時の兄の顔は言いようもなく恐ろしく感じました。兄は私が見ていることに気付かずに自分の部屋に入ったので、私はおそるおそるドアの隙間から部屋の中を覗きました。すると、兄は上着のポケットから拳銃を取り出して机の上に置いたんです」
「なるほど、お兄さんが行方不明になったのも一昨日のことでしたね」
「そうです……私はそのあと、恐ろしくなって布団を被りました。一時間ほど経ったと思うのですが、兄が再度こっそり家を出て行く気配を感じました。それっきり帰ってきません」
「ふうむ、しかし、お兄さんが口にした越野司という名前の人が殺されたなんていうニュースは耳にしませんね」
莉紗は頷いた。
「でも、兄が消えたあとで銃殺死体が見つかったとテレビで流れているのを見て、兄がやったのではないかと気が気じゃなくて」
「警察には今の話をしましたか?」
「いえ……わけが分からなくて、兄は行方不明だし、とにかく早く兄を見つけたいんです」
莉紗の話を聞き終わると、椋露路は立ち上がって窓から外を見やった。人気のない道路にしとしとと雨が降り続いている。
「わかりました、越野司さんに合ってみましょう。お兄さんの行方を知っているかもしれない……その間に、メル、君に夢中の例の刑事から、一昨日の銃殺事件について詳しい情報を聞いておいておくれ」
椋露路が隣の部屋に声をかけると、返事に代わってチョコレートファッジが一粒飛んできた。
「どうやら、越野さんはお兄さんの勤めている会社の同僚のようですね。ご存知でしたか?」
花門和十の部屋で、机の引き出しに散らばっていた名刺の一つを片手に椋露路は莉紗に尋ねた。
「いえ、兄は会社や友人の話は滅多にしないので……初めて聞いた名前です」
「そうですか。ううん、最近の通話履歴、メールの記録が消されてる。お兄さんはやはり人に知られてはまずいことをしていたようだ。それにしても、端末を置きっぱなしにするのは妙だ」
椋露路は花門和十の携帯電話を鞄にしまうと、床に四つん這いになった。
「あ、あの、椋露路さん?」
ドアの前に立って、椋露路の様子を見守っていた莉紗が不思議そうに呼びかけたが、椋露路は至って真剣な面持ちで、慣れた様子で隅から隅まで部屋を観察していく。
「うん。お兄さんは今時手紙を書いたりするのかな? 便箋と封筒を買ったようだけれど、日付が五日前というのが気になるね」
椋露路がゴミ箱に捨ててあったレシートを拾い上げて、莉紗に尋ねた。莉紗は首を傾げる。
続いて椋露路はノートパソコンの電源を入れた。この部屋にパソコンは一台だけだ。
「やっぱりこっちのデータも消されている。お兄さんはコンピューターには詳しいのかい?」
「詳しくはないと思いますが……会社で事務をやっているのでそれに支障が出ない範囲じゃないでしょうか」
「文書の作成はパソコンでもできるわけだね、ふうむ。このパソコンはあとで知り合いに解析してもらうとしよう。それじゃあ次は越野司さんの家を尋ねるとしようか、といっても今は仕事中だろうけれど、その方が調べるには都合が良さそうだ」
花門宅はメリーヴェール探偵事務所から徒歩十五分ほどの距離に位置していて、椋露路と莉紗はそこから最寄り駅である京王線府中駅まで歩いて移動した。越野司は調布駅近くの賃貸マンションに住んでいるようだった。府中駅からは特急で一駅の場所だ。
電車内はまばらだったが、椋露路は人目を避けて車両隅の優先席に腰を下ろした。それにしても目立つらしく乗客たちはちらちらと彼女に視線を送った。莉紗は隣に座ると遠慮がちに言った。
「その、仕事中ならきっと鍵が掛かってますよね、家に」
「ふふっ、僕は閉ざされた扉を開ける技術に関しては自信があるんだ。 一般的な住宅の玄関扉なら三秒もあれば解錠できるし、警察の鑑識にも僕が立ち入ったことを気付かれることなく部屋を物色し、気配の一欠片も残さずに――必要ならば置き手紙と薔薇の一輪でも添えて、その場を去ることができるよ」
「でもそれって……」
「しかし、僕でも欺くことのできない苦手な相手がいるんだ。莉紗さん、それは誰だと思う?」
「え? ええと……猫とか、だったりして」
椋露路は感心したように莉紗に視線を送った。
「そうなんだ、彼女らは生まれついての名探偵だからね。犬はやかましく吠え立てて不審者が侵入したことを宣伝するし、猫に至っては驚いたことに一度交番まで警官を呼びに行ったことがあるよ。探偵だって説明してその場はどうにか上手く収めたけれど、それ以来、僕は上等なペットフードとそれを入れる小皿を持ち歩くようにしてる。尻尾を振って召し上がった後はすやすやと眠るものだから、安心して調査できるよ」
「は、はあ……でも、それって不法侵入じゃ……」
「おっと! 着いたようだよ、降りよう、莉紗さん」
椋露路は慌てて立ち上がると、莉紗の手首を掴んで電車を降りた。
ところが、今回に至っては椋露路の解錠術もペットフードも全く役に立たなかった。何故なら、普段ならこの時間は会社にいるはずの越野司が二人を出迎えたからだ――物言わぬ死体となって。
「至近距離から左胸を撃ち抜かれたみたいだ」
椋露路は真剣な面持ちで莉紗に玄関から離れるように注意してから、慎重に死体を調べた。
「殺されてからまだ三十分も経ってない」
「ま、まさか、あ、兄が……?」
莉紗は通路の手すりに掴まって身体を支えながら、真っ青な顔を死体の転がったワンルームマンションの一室に向けている。
「莉紗さんはこっちを見ない方がいい、倒れてしまうよ。でも悲鳴を上げてくれないのはとても助かるよ、人が来る前に現場を調べておきたいから」
椋露路は白い手袋をはめた手を、死体が身につけているスラックスの右ポケットに伸ばした。
「やったのはお兄さんか? 親切にもその回答がポケットに挟んである――死んで当然の人間が死んだ。悲しむことはない。嘆くことがあるとすれば、それによって私が悪魔に身を堕としてしまったことだ。これで匂坂直行と越野司の二体を始末した。あと三体を葬ろう。一体は私自身、残り二体は簡単に見つかるだろう。裁きを受けなければならない奴らが平然とのさばっているのだから。花門和十」
「そんな……」
ワープロで印字された文章を読み終えると、莉紗は絶句して膝を落とした。
椋露路は素早く死体周辺を調べ、落ちていたボールペンを拾い上げてビニールの袋に入れると、立ち上がって写真を三枚撮った。
「よし、あとは警察に任せよう。さあ、莉紗さん、気を強く持って。まだお兄さんの犯行と決まったわけじゃない」
莉紗を励ましてどうにか立たせると、椋露路は急いで現場をあとにした。
椋露路は黒色に銀の装飾が施された小さめのパイプを咥えて慣れた手つきで煙草を詰めると、シュッというマッチを擦る音に続きパイプの口からもくもくと煙が立ち昇った。彼女はソファに深く身を沈めて静かにそれを眺めた。
「依頼者はどうしたの」
メリーヴェールはそんな彼女の様子を見てしばらく放っておいたが、頃合いを見て声をかけた。
「家に帰した」
うわのそらで返事をしてから、椋露路は気だるく身体を起こした。
「推理小説的探偵の現実社会における存在意義とは」
椋露路は誰にともなく問いかけたが、メリーヴェールは仕方ないといった調子で応えた。
「犯罪を未然に防ぐこと、でしょ。でも朱寧は抜けたところがあるから」
「うん。泣き言を言っても仕方ないしやるべきことも判っているけれど、こういうことがあると気が滅入るよ」
椋露路がメリーヴェールをちらりと見やると、不吉な予感を感じ取ったらしく赤毛のメリーはくるりと踵を返した。
次の瞬間、椋露路はにやりと笑い、メリーヴェールに抱きついた。
「ふわぁ」
「ふふふっ、もふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふぅ」
抱き締めて頬擦りされている間、メリーヴェールは無駄な抵抗をやめて嵐が過ぎ去るのを待った。
「ふう……」
「その抱き締めた後でため息着くのはやめてくれないかな」
解放されて揉みくちゃになった服と髪を直しながら、納得いかないといったふうにメリーヴェールは抗議した。
「それはそうと、君の彼氏から一昨日の事件について聞いてくれたかい?」
彼氏じゃないと断りを入れてから、メリーヴェールは左手に掴んでいたレポート用紙を渡した。それには刑事から集めた一昨日の銃殺事件に関する情報がまとめられている。
椋露路は改めてソファに腰を下ろすとペラペラとレポート用紙を捲った。
「殺されたのは匂坂直行という四六歳の男性。古い木造アパートで一人暮らし。死亡推定時刻は夜十一時半から十二時半の間。熟睡中に拳銃で頭を撃ち抜かれた模様。犯人はベランダから音を立てないように窓を割って侵入したものと思われる……花門和十が犯人と仮定して莉紗さんの話と合致するね。歩いて移動したと考えて時間的にもぴったりだ。凶器も四五口径の拳銃で一致している。ただ……」
彼女はレポート用紙を机に置くと、後ろにもたれ掛かって手足をぐぐっと伸ばした。
「んー、なぜ犯人は一人目を殺した時に手紙を置いていかなかったんだろう?」
「あとから思いついたんじゃない」
「しかしね、メル、置き手紙には“これで匂坂直行と越野司の二体を始末した――残り二体は簡単に見つかるだろう。裁きを受けなければならない奴らが平然とのさばっているのだから”と書かれているけど、これは生きる価値がない者を見つけて四人殺すという意味に解釈できる」
「だから?」
「事前に全体像を描き実行された連続殺人のはずなんだ。現に二つの殺人は被害者の行動やスケジュールを把握したうえで実行されてる。それに、警察の捜査によれば一昨日殺された匂坂直行の交友関係は非常に狭く花門和十と直接面識が合ったとはとても思えない。思いつきで殺すなら個人的な恨みを持つ越野司を先に殺すはずだ……もっとも、花門和十が犯人とは限らないけれどね」
「殺された匂坂直行は元受刑者だったね」
「そう書いてあるね。五年前に酒気帯び運転で事故を起こして小学生の子どもを死なせている。殺されるだけの恨みを買っていたわけだね。さてさて」
椋露路は机の上に並べた証拠品たちをぐるりと眺めた。
「メル、そこのボールペンの指紋を取って置き手紙と一緒に彼氏の刑事に渡しておくれ。それと……」
「また現場から勝手に持ってきたの?」
「できるだけ早く情報は入手したいからね。それと、そこのノートパソコンとスマートフォンの消去されたデータを復元して調べてほしい。ついでに指紋も取ってちょうだい」
「復元できるとは限らないけど」
椋露路はメリーヴェールに指示をすると、立ち上がって帽子掛けからミニハットを取った。
「なるべく早くお願いね、なにせあと三人命を落とす予定だから。僕はちょっと依頼者の様子を見てくる。夕飯までには帰るから」
メリーヴェールは椋露路の背中を見送ると、指示されたとおりてきぱきと手配を始めた。
翌朝、メリーヴェール探偵事務所内にチャイムが響き渡った。
「朱寧、お客だよ」
メリーヴェールが椋露路の部屋を訪ねると、案の定、彼女はあられもない姿でベッドに横たわっていた。すやすやと寝息を立てている。
メリーヴェールは彼女の口にチョコレートを一つ詰め込むと、ペチペチと頬を叩いたが、うめき声を漏らすだけで目覚める様子はない。
仕方ないといったふうに椋露路をベッドから転がり落とすと、ちょっと考えてクローゼットから水色の衣装を取り出して、慣れた様子で下着姿の彼女に着せた。
手順はこうだ。まず、上半身を起こして左肩がベッドに着くように立て掛ける。この時、左腕をバンザイさせておく。右腕を持ち上げながら衣装の肩紐を通し、次に頭、最後に控えめな胸を絞るように背中でリボンを結べば完了だ。
くちゃくちゃの髪にブラシを当て終わった時点でまだ椋露路が起きない場合、もう二つチョコレートを追加してから、渾身のビンタをお見舞いすることになる。
バチン――という何かを叩く音が聞こえた後、ドタドタと走る音がして年季の入った木製の扉が開いた。そして直ぐに引き返す足音。訪問者は赤毛の女の子の後ろ姿を確認した後、くすりと笑って建物の中に入った。
ゆっくりと時間をかけて靴を脱ぎスリッパを履くと、女の子を追いかけた。
「ようこそ、メリーヴェール探偵事務所へ……って君か」
すっかり澄まし顔の椋露路が、訪問者を見て落胆したように言った。頬に赤く小さな手形が付いている。
メリーヴェールはさらにその隣で肩で息をしながらため息をついた。
「朝早くごめんね、近くに来る用事があったものだから」
小林秋彦はそう言って思わず腕時計をちらりと見た。長針は三七、短針は八を示している。
「いや、例の事件の進捗状況を聞きたかったしちょうど良かった。メル、今朝は珈琲が飲みたいな」
「あ、俺も手伝うよ」
秋彦はメリーヴェールと一緒に台所へ向かった。椋露路は横目で彼の表情が硬くなっているのを見て微笑した。
珈琲の入ったカップを机に二つ並べるとメリーヴェールは隣の部屋に引っ込もうとしたが、椋露路が引き止めた。
「なんで」
「ほら、彼が落ち着かない様子だからさ、僕の横にお座り」
しぶしぶといった調子でメリーヴェールが腰を下ろすと、小林秋彦はソファの上でそわそわと所在なさげに身体を揺らした。
「うう、メルさんはいつ見ても可愛い……じゃなくて……ええと……おほん。つまり、今日来たのは昨日メルさんから連絡を貰ったからで」
うっかり心の声をもらしてしどろもどろになった若手刑事に苦笑しながら、椋露路はメリーヴェールを肘でつついた。当のメリーは照れ隠しか全くそうでないのか無表情で天井に出来たほくろみたいな黒ずみをじっと見つめている。
「三日前の事件について何か分かったかい?」
椋露路が尋ねると、小林刑事は安堵したように息を吐いて懐から手帳を取り出した。
「ええと、被害者の匂坂直行は五年前に飲酒運転で子どもを死なせていて、それが原因となって子どもの両親は離婚してるんだよ。父親は再婚して新しく子どももいるが、母親はショックから立ち直れずに現在生活保護を受けながら心療内科に通っている。人生を滅茶苦茶にされたわけだから被害者のことを殺したいほど憎んでいたはずだね」
「事件当時のアリバイはどうなんだい?」
「母親はパニック障害を患っていて、前日の夕方に発作で倒れて事件当日の朝までかかりつけの病院に入院している。ちょうど前日に定期診療の予約を入れていて待合室で発作が起こったらしいよ、薬が切れてたんだね。まあ、アリバイは完璧だ。父親に至っては子どもが亡くなってから名古屋に引っ越していて、事件当日は自宅で眠っていた。こちらにも犯行は不可能だ」
「ふうん、それが本当なら、二人に匂坂直行は殺せないね。ちなみに母親の名前は?」
「渡瀬知奈未だ。裏も取ったから間違いないよ。困ったことに、他に匂坂直行を殺す動機を持つ者が見つからなくて、行き詰まっていたところに昨日メルさんから連絡をもらったわけさ。それまで捜査線上に花門和十のかの字も出てこなかった」
「その様子だと、有力な証拠を見つけたみたいだね」
意気揚々と語る秋彦を見て椋露路は先を促した。
「そうなんだ、花門和十の写真を持って近隣の住民に聞き込みをしたところ、有力な証言を得られた。事件の二日前に被害者のアパート付近をうろついている加門和十を見た人がいるんだ。おそらく下見をしていたんだろうね。捜査本部は花門和十を匂坂直行殺しの犯人と見て捜査を進める方針だよ」
「ううん」
椋露路は秋彦の話を聞くとうなり声を上げた。
「それと、昨日朱寧さんが通報してくれた事件だけど、知ってのとおりボールペンから花門和十の指紋が見つかった。監視カメラには犯人らしき姿は映ってなかったけど、事件直後にマンションの階段を駆け下りる運送会社の配達員を見たという目撃情報がある。おそらく、犯人は配達員に変装して被害者の部屋を訪ね、被害者が油断している隙に射殺したんだ。ボールペンは被害者が偽造の受取証にサインをするときに犯人が渡したものだと見ているよ。遺留品は犯行直後に動転してうっかり残されるものだからね」
「なるほどね、状況証拠及び物的証拠から犯人は花門和十の線が濃厚なわけだ」
「断定したわけではないけどまず間違いないと見てるよ。問題は花門和十が何処に潜伏しているかだ。捜査本部は今日中に指名手配する予定だけど、犯行声明によればあと二人殺すつもりらしいからね、のんびりはしてられない」
「動機はどうなんだい? 花門和十が越野司を恨んでいたという情報は聞いているけれど、具体的には分かってるのかい」
「うん、会社の同僚に聞いたところ、恋愛関係のもつれがあったらしい。詳しくはこれから調べるところだけど、長年付き合っていた彼女を寝取られたとかって話だよ――ちょっと失礼」
小林秋彦は立ち上がると、ポケットから携帯電話を取り出して耳に当てた。わかりました、すぐに戻ります――と短い返答をして通話を切った。
「ごめん、捜査に戻らないと。今日ここに来ることは言ってないんだ。何かあったら連絡する」
未練がましくメリーヴェールの横顔をちらりと見て、小林秋彦は出ていった。
小林刑事から三人目の犠牲者が出たことを知らされたのはその日の夜だった。
椋露路は小林刑事からの電話を切るとすぐにタクシーを呼んで事件現場に向かった。
「朱寧さん!」
白金にある公園前でタクシーから降りると、進入禁止のテープの前に立っている小林刑事が声をかけた。
「まさに今朱寧さんが通った道だよ」
「うん? なんだって」
公園を突っ切った反対側の出口付近に、青色のビニールシートで覆われた遺体が転がっていた。椋露路は小林刑事の言葉に眉を寄せる。
「被害者はタクシーから降りて、公園を横切って出口まで来たところを背後から撃たれたようだ。道路から自宅のマンションへ行くのに公園を通るのが近道のようで、毎日ここを通っていたらしい」
「どうしてわかるんだい?」
「撃たれた時、被害者である平山美佐子は会社の顧問弁護士と仕事のことで電話で話をしていたみたいで、その弁護士から聞いた。あの人だよ、名前は佐野隆雄」
そう言って彼は少し離れた電灯の傍で警官から質問を受けている男を指差した。
「ふうん、遺体を見れるかい?」
小林刑事は遺体に被せられたビニールシートを持ち上げた。椋露路は懐中電灯を受け取ると、屈んでうつ伏せに倒れた女性の遺体を確認した。生きてる時はそこそこ美人だったであろう顔は今では驚きで目が見開かれ、口元は歪んでいる。スーツの背中にどす黒く血が広がっていた。
「佐野隆雄弁護士によれば、被害者である平山美佐子の父親は資産家で、被害者は三十九歳の若さで大企業の取締役をやっていたようだ。父親が大株主なのでその影響だとか。経営を知らないのに随分な我儘を言ってひんしゅくを買ってたみたいだよ」
「前の二件と凶器は同じなのかい?」
「四五口径の拳銃、今回犯行声明はないけど花門和十の仕業と見ているよ」
椋露路は遺体にシートを被せて立ち上がると、警官と話をしている佐野弁護士をしげしげと眺めた。
「どうもね、はっきりしたことは言えないけれど前の二つの事件とは少し毛色が違う気がするよ。先入観を捨てて、彼女に恨みを持つ人物と死んで得をする人物を調べてくれるかい、お金も絡んでるようだから後者を念入りにね。それともう一つ……いや、二つ」
椋露路は微笑みを浮かべると、右手の人差し指と中指をぴんと立てた。
「お願いがあるんだ」
椋露路が戻ると、事務所の奥から子犬が跳ねるような陽気で軽快なピアノの音色が響いてきた。お菓子を焼く芳ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。
彼女はソファに腰を下ろして静かに耳を傾けた。暫くの間聴き入っているのかそれとも眠ってしまったのかじっと動かなかったが、演奏が終わると楽しげに瞼を上げた。
「帰ってたんだ、おかえり」
「ただいまメル。ちょっと話し相手になってちょうだい」
メリーヴェールは紅茶と長方形に積み重なったバタ―クッキーを用意して机に並べ、椋露路に横顔を向ける形で安楽椅子に腰掛けた。
「この事件は単純のようでいて、なかなか変わった構造をした事件だよ」
嬉しそうにメリーヴェールお手製のお菓子をかじりながら、椋露路は言った。
「すると、あの置き手紙に書かれていたとおりに花門和十が殺して回ってるんじゃないんだね」
「うん、例えば三件目の殺人は、ろくに視界の利かない暗闇の中で被害者の背中を撃ち一発で致命傷を負わせていた。前の二件のように至近距離からならともかく、これは銃の扱いに慣れてる者でなければ不可能だ」
「けど花門和十は被害者の自宅付近をうろついていたり、ボールペンから指紋が見つかってる」
椋露路はメリーヴェールに笑みを見せると、少しのいじわるを含ませた声色で楽しそうに課題を出した。
「事件の数日前に花門和十は封筒と便箋を購入している。ワープロではなくわざわざ手書きで書かなければいけなかったものとはなんだろう」
メリーヴェールは少し考えると。
「手紙か、それとも遺書とか。そういえば、ワープロで書かれた置き手紙には、自殺を仄めかすようなことが書いてあったよね」
「うん、その置き手紙だけど、自分も含めて合計で五人の人間を殺すと書かれていた。なぜ明確に人数が決められているのか。ここに大きなヒントがある」
「人数が決められている……殺す相手が予め決まっているとか? うーん、わかんないけど、真犯人は花門和十に罪を着せようとしてるんだね。でもどうやって遺書を書かせたんだろう」
「それも重要なヒントだよ。遺書なんて人に言われて書くようなものじゃないからね。こう考えるんだ、花門和十には遺書を書く理由があった」
椋露路はメリーヴェールが頭を悩ませているのを嬉しそうに眺めた。いつものこととはいえ、メリーヴェールはそんな椋露路に顔をしかめて見せた。
「そして最後のヒント。二件目の殺人で、花門和十が恨みを持つ人物が、殺されているんだ」
渡瀬知奈未はJR渋谷駅の改札を抜け、人混みに紛れるようにして目的の場所へ向かっていた。神経質なほど人目を気にしているため逆に目立っているくらいだ。
並べられた数字の中から探していたものを見つけると、ポケットから鍵を取り出した。再度首を巡らせて周囲を確認すると、緊張した手で鍵穴に差し込んでロッカーの扉を開ける。
その中には白い布で包まれた物体が一つ置かれていた。
震える手でそれを掴んで鞄にしまうと、通ったばかりの改札を急ぎ足で引き返した。
「逃すな! 確保しろ!」
改札口に男の怒鳴り声が響いた。
渡瀬知奈未はびくりと身を震わすと、振り返って自分に走り寄る男達の姿を見た。
次の瞬間には、鞄を放り出して彼女は駆け出した。もはや人目は気にしていない。人混みをかき分け、呆気にとられているカップルを突き飛ばして階段を一段跳ばしで駆け上がった。
「なんで……なんで……なんで……」
うわ言のように繰り返しながら、必死の形相で逃げる。後ろを振り返ると、男が階段を登り切ったところだった。完全に補足されている。
「危ない!」
渡瀬知奈未は窮屈なホームから降りて、線路の上を走っていた。息も絶え絶えで今にも倒れそうだった。
彼女は後ろを振り返った。男は追ってこない。諦めたのか、ホームから彼女を見下ろしている。何か叫んでいる様子だったが、彼女の耳には届かない。酷く不吉な金属音にかき消されていた。
突然視界が光で覆われた。一瞬、男の形相もホームで電車を待つ人々の顔も見えなくなった。
勝ち誇ったような笑い声が、彼女の口から漏れた。
その頃、メリーヴェール探偵事務所では依頼人である花門莉紗と小林秋彦刑事が椋露路からの呼び出しを受けて、紅茶の入ったティーカップを前に腰を下ろしていた。
「平山美佐子を殺す動機と、佐野隆雄弁護士のアリバイはどうだった?」
椋露路はいつになく引き締まった面持ちでソファに腰掛けていた。緊張しているのか、そわそわと咥えたミニパイプを揺らしている。
「平山美佐子に殺すほどの恨みを持つ人物は見当たらなかった。会社にとって彼女は目の上のたんこぶだったようだけど、殺すほどのものじゃないだろう。それと、彼女が死んで得をする人物だけど……これもいない。彼女自身に大した資産はないし、資産家の平山源蔵の相続人になる可能性があったのは一人娘の平山美佐子だけだった。彼女が死んでほかの誰かが遺産を相続するということもない」
小林刑事の言葉に椋露路は顔をしかめた。
「それは妙だね。そうだとしたら平山美佐子は殺される理由がないことになるよ。佐野弁護士との関係はどうだった?」
「佐野隆雄弁護士は平山源蔵が大株主になっている会社の顧問を務めていて、その関係で取締役となっている平山美佐子と連絡を取っていたようだよ。それと、平山源蔵は現在七一歳で認知症になっていて、佐野弁護士が彼の成年後見人になっている」
それを聞くと、椋露路はパイプを片手にゆらゆらと煙を揺らした。
「なるほど、佐野弁護士のアリバイはどうだった?」
「平山美佐子が殺された時間、佐野弁護士は被害者本人と電話をしていたそうなんだが、事務所にいたようで事務員からの証言も取れている。供述に不審な点もなかったよ。それと、前の二件についてもアリバイを調べたけど、一件目については夜遅くまで顧問先で会議があったようで、犯行時刻には飲み屋にいた。二件目については弁護士会の研修に参加していたようだが、こちらは裏が取れていない。佐野弁護士には二件目の犯行は可能だったかもしれないが、一件目と三件目は無理だっただろう」
「ううん、ありがとう」
椋露路は小林刑事の報告を聞くと満足そうに頷いた。
「それと、朱寧さんに頼まれたとおり渡瀬知奈未には監視を付けてある。動きがあれば連絡が来るよ。しかし、どうして彼女を?」
「僕の推理では、近いうちに彼女が人を殺すからさ」
小林秋彦は驚きの表情を浮かべ、椋露路を見た。
「なんだって、彼女が……?」
「兄は、無事なんでしょうか」
莉紗は依頼に来た時と比べて言葉少なく、塞ぎがちな様子だった。顔色は依然として優れない。
「お兄さんを自殺にみせかけて罪を着せるつもりだとしたら、四人殺してからだ。まだ大丈夫だよ」
椋露路の励ましもあまり効果があったようには見えず、莉紗は両手を膝上に揃えて肩を震わせた。
「なぜ兄がこんな目に」
「お兄さんは……」
着信音が椋露路の言葉を遮った。携帯電話を取り出して応答する小林刑事を椋露路はじっと見つめる。彼の顔には落胆の表情が浮かんでいる。
「どうしたんだい、まさか取り逃がしたとか」
小林刑事が乱暴に通話を切ると、椋露路が尋ねた。
「そのまさかだよ。きわどいところを線路からホームに飛び乗って、電車から降りた乗客に紛れて姿を消したらしい。一応、渡瀬知奈未が放り出した鞄の中から布でくるまれた拳銃が見つかった。例によって携帯の履歴は消されていたが、住所が書かれたメモがあった」
椋露路はため息をついた。
「それは殺す予定だった相手の住所だろう、すぐにその住所へ警官を回して住人に話を聞くべきだね」
小林刑事は頷いた。
「さてさて、困ったことになった」
椋露路はそう呟いて、睡魔と奮闘中のメリーヴェールをちらりと見た。
渡瀬知奈未の死体が発見されたのは二日後だった。
ホテルの一室で毒を飲んで、椅子に座ったままドレッサーの前に突っ伏していた。その傍らには自身の一連の犯行を認める自筆の遺書があった。それと一緒に花門和十の監禁場所と思われる場所を示した地図が置かれていた。
椋露路はひどく陰気な風体でパトカーの後部座席に腰掛けていた。
「朱寧、まるであなたが犯罪者みたいだよ」
メリーヴェールの言葉に、助手席に座った小林刑事は地雷を踏んだかのように身を縮めた。
椋露路は言い返す気力も湧かない様子で、苦しそうに首を動かした。
「みすみす犯人を死なせるなんて、無能もいいところ、探偵失格」
「うう……」
「面倒くさがりなくせに見栄っぱりなんだから、私が普段どれだけ苦労しているか。とにかく、依頼人の兄を死なせるわけにはいかない、しっかりしろ、馬鹿」
椋露路の喘ぎに構わずメリーヴェールは容赦なく言葉を浴びせる。
「ま、まあ、渡瀬知奈未を逃したのはこっちの不手際だし、朱寧さんのせいでは」
小林刑事が恐る恐る椋露路の顔を伺うと、しかし、彼女も幾分気を取り直した様子で、先ほどまでは焦点の定まっていなかった瞳で景色を眺めていた。
「メル、もふもふさせて」
びくり、とメリーヴェールは身を震わせた。
「や、やだ」
椋露路が不気味な笑みを浮かべながらメリーヴェールを強引に抱き寄せて、暴虐を尽くしている様を、小林刑事は黙ってバックミラー越しに眺めた。
「到着しました」
運転手の警察官が事務的な口調で告げ、車を停めた。
二時間近く山道を走っていただろうか、渡瀬知奈未の遺した地図に記されていた場所に着いたようだ。そこには人里離れた山中に不釣り合いなコンクリート造りの建物がぽつりと建っていた。
「ふう、さてさて」
涙目になったメリーヴェールを車内に残して外に出ると、椋露路はいつもの調子で建物を観察した。窓はなく、壁は塗装もされておらず少し大きめの頑丈な倉庫といったものだった。金属製の扉が一つ、石段の上に付けられている。
「鍵がかかってる、参ったな。壊して入ろうにも骨が折れるというか、無理だなこれは、頑丈すぎる」
小林刑事が金属製の扉を叩いてぼやいた。
「ん、開いたよ」
椋露路がそんな小林刑事を横へやって、あっさりと鍵を開けた。
建物の中にはその外見と同じで必要最小限のものしかなかった。隅に無骨なベッドが一つ、反対側にむき出しの便器、天井に電球がぶら下がっている。その狭い空間の中央に男がしゃがんで本を読んでいたが、椋露路の姿を見ると突然立ち上がって襲いかかった。
「わわっ」
椋露路は後ろへ退ろうとしたが、驚いて足がもつれ、その場に尻もちを着いた。小林刑事がその頭上を跳び越えて立ちはだかった。
花門和十は構わずに、彼の顔面めがけて殴りかかった。
小林刑事は冷静に拳を避けると、伸びきった花門和十の右腕を肩で担ぐようにして身体を入れ、袖口を両手で掴んだ。
次の瞬間、男の身体が宙に投げ出された。鈍い音とともに花門和十が仰向けに倒れる。一本背負いだ。
「いてて……びっくりした」
尻もちを着いた椋露路に小林刑事が手を伸ばして、引き起こした。
「あ、ありがとう。意外とやるんだね、君」
恥ずかしそうに椋露路がお礼を言うと、何故か小林刑事も照れたように口を濁した。
花門和十はコンクリートの床に転がって、苦痛に顔を歪めている。
「ちょうどいい、この野蛮な男に手錠を掛けたまえ」
冗談だと思ったのか、小林刑事は彼女の言葉に笑い声を返した。
「本気だよ、この男は今回の事件の犯人だ」
「なんだって。一体どういう……」
椋露路は怪訝そうな表情を浮かべる小林刑事の懐から手錠を取ると、不慣れな手つきで花門和十の両手を繋いだ。
「一人目の被害者、匂坂直行を殺したのはこの男だ」
花門和十は椋露路の言葉を聞き、悔しそうに顔を歪めた。
「ロシアンルーレットという、弾を一発だけ込めた回転式拳銃を自分のこめかみに当てて、順番に引き金を引いていく死のゲームがあるだろう? 今回彼らはそれをしていたのさ。といっても、実際に犯行に使われたのは消音に向かない回転式拳銃ではないけれど」
「彼ら?」
小林秋彦は状況が飲み込めない様子で、開け放された扉の前に立って彼女の話を聞いている。
「犯人たちさ、今回の事件を計画した犯人は全員で四人だ。自殺に見せかけて殺された渡瀬知奈未に、この男」
椋露路はすっかり大人しくなった花門和十を指さした。
「佐野隆雄弁護士、そしてもう一人は渡瀬知奈未が殺す予定だった者に恨みを持つ、銃の扱いに慣れた人物さ。佐野弁護士に監視をつけてもらっているのはそのためだ」
椋露路が視線をやると、小林刑事はわからないといったふうに首を振った。
「一つ目の事件、犯人は花門和十だ。被害者のアパート付近をうろついているところを目撃されているし、妹の莉紗さんの証言も合わせて考えれば間違いないだろう。この男が身につけている服は犯行当時に着ていた物に違いない、調べれば犯行の証拠が見つかるはずだ。
「二つ目の事件、犯人は佐野弁護士だろう。花門和十の指紋の付いたボールペンが残されているが、それは置き手紙と併せて花門和十に連続殺人の罪を着せるためのフェイク。花門和十と被害者の越野司は顔見知りなんだ、配達員の変装なんかしたって一発でバレる。横恋慕をして恨みを買った相手が変装をして押しかけてきたら、あんなふうにすんなり殺されたりはしないさ。
「三つ目の事件、犯人は銃の扱いに慣れた人物だ。暗闇の中で一発で致命傷を追わせるなんて芸当、一般人にはできない。誰なのかは四件目の被害者に恨みを持つ人物を絞り込めばじきにわかるはずだ。
「未遂に終わった四つ目の事件、渡瀬知奈未が犯人になる予定だった。ところが犯行前に見つかってしまい、犯人たちは予定を変更した……いや、もともと途中で犯行が発覚したら変更する計画だったんだろう。罪を背負って自殺する役が花門和十から渡瀬知奈未になった」
その言葉を聞いても、花門和十は観念したようにじっとして動かなかった。椋露路は解説を続ける。
「犯人たちはそれぞれ恨みを持つ相手を、一つずつ後ろにずらして順番に殺していったのさ。頭のいかれた同一犯の仕業に見せかけてね。そうすることで完璧なアリバイを作ることができ、動機があっても犯行は不可能と判断されることになる。
「すべての殺人が終わったあとで、犯人の一人がすべての罪を背負って自殺する。正真正銘紛れもない自筆の遺書を残してね。それによってほかの三人は罪を免れる事ができる。ロシアンルーレットといったのはそういう意味だ」
椋露路の話に静かに耳を傾けていた小林刑事は、ここで言葉を挟んだ。
「そのはずれを引き生贄になるはずだったのが花門和十なわけだな」
「そう。ただし初めは、はずれを引いたことが本人にわからないように工夫したはずだ。全ての罪を背負うことになったあとで殺人をする気にはならないだろう。僕の予想では、殺人をする順番をくじで決めて、一番を引いたものを生贄にしたんだ。そうすることで翻意の可能性を潰せるし、指紋の付いたボールペンのような証拠を残すこともできる。全ての犯行後に生贄を決めるのでは、証拠を残しようがないからね」
「犯行声明が一件目ではなく、二件目の犯行時に残されたのはそういうわけか」
椋露路は頷いた。
「犯行声明には捜査を誘導する効果があった。事実警察は花門和十を指名手配して、彼を犯人と見て誤った方向に捜査を進めていたからね。
「この計画の肝は、生贄となる犯人の自筆の遺書だった。計画を立てた段階で予め犯人全員に用意させたんだろう。具体的な計画を立てて、メンバーを募ったのは佐野隆雄弁護士だと僕は考えているよ」
「なぜ佐野弁護士だと? そういえば、三件目の被害者の平山美佐子だけは、殺される理由が見つからなかったな……順番からいって佐野弁護士のターゲットは彼女だ」
「うん、動機はちゃんとあったのさ。ただし、前の二人とは違って金だけどね」
得心がいかないといった様子の小林刑事を見てから、椋露路は話を続けた。
「佐野弁護士は資産家である平山源蔵の後見人をやっていた。後見人ということは資産を管理できる。家庭裁判所のチェックはあるが、年に一回だし、書類を偽造して辻褄を合わせれば誤魔化せないことはない。おおかた使い込みでもしたんだろう。ところが、被後見人平山源蔵が死んで相続が発生すれば使い込みがばれてしまう」
「だから平山美佐子を殺したのか。平山源蔵に兄弟はいないし、一人娘がいなくなれば相続人はいなくなる」
「そういうこと、これが今回の事件の全貌さ。佐野弁護士ともう一人の犯人を捕まえて、家宅捜索でもすれば何かしら証拠も出るだろうさ」
説明を終えて、椋露路はあくびをした。
「そろそろ帰ろうか、メルも退屈してるだろうし」
小林刑事が花門和十を立たせ、椋露路に続いて建物を出た。椋露路はパイプを咥えてマッチを擦った。
「その男と同じ席に座るのはどうもな。トランクに詰めるのは駄目かい?」
先ほど尻もちを着かされたのを根に持っているのか、椋露路がそんなことをいいながらパトカーに歩み寄った。
車内にメリーヴェールの姿がないのを見て、首を傾げる。
「メルは退屈してお散歩に行ったようだよ。あれ、運転手もいないね」
椋露路は振り返ると、驚きの表情を浮かべた。小林秋彦はそれを見て眉を寄せる。
「どうしたんです……」
「動くな、クソッタレども」
椋露路の視線の先、小林刑事の背後から、獣の唸り声のような狂気に充ちた声が響いた。
運転手がメリーヴェールを抱き上げて――そのこめかみに拳銃を突き当てて、目を血走らせて立っていた。
「まったく、クソッタレの探偵が、何もかもむちゃくちゃにしやがって。俺はもう終わりだ。いや……ここでその探偵を殺して、小林刑事を殺して、ここにいる奴全員殺せば……」
「そんなことをしたってすぐにばれる、馬鹿なことはよせ」
手負いの獣をなだめるように、椋露路はつとめて冷静に穏やかな口調で語りかけた。
「その人を離せ!」
「よすんだ、小林刑事。刺激するな、銃を捨てるんだ」
懐から拳銃を抜き、犯人に向けようとする小林刑事に椋露路は告げた。小林刑事は歯ぎしりをして一瞬考えたが、おとなしく言葉に従った。
「さあ、メルを離すんだ。ここで逃げたって僕たちは君を追わない。だから、その子は解放してくれ」
椋露路の態度に犯人は戸惑いを見せた。しかし、依然として銃口はメリーヴェールに向けられている。彼女は怯えて、助けを求めるように椋露路に視線を向けている。
「大丈夫だ、メル、僕の命に代えても、君は助ける」
突然、犯人は拳銃を持つ手に力を込め、メリーヴェールの額に擦りつけた。メリーヴェールは痛みに顔を歪める。
「信じられるか! 俺を追わないだと? お前らには車がある……いや、俺が使えば……ダメだ! どうせすぐに応援を呼ぶに決まってる」
「携帯は捨てる! ほら……」
椋露路はゆっくりと鞄を肩から外し、犯人に向かって放り投げた。小林刑事もそれに続いて無線機、携帯電話を投げた。
犯人は尋常じゃなく興奮して、十メートル以上離れた椋露路にまで荒々しい息遣いが聞こえてくる。
「もし、服の下にほかに無線機を隠してると思うなら、裸になる」
椋露路の言葉に、犯人は理解できないといった様子で眉を寄せた。
「あ、朱寧さん……?」
「君は見るな。じっと前を向いていろ」
椋露路は小林刑事を一喝し、深呼吸をして、両手を背中に回した。
「う、動くんじゃねえ!」
犯人は銃口をメリーヴェールから椋露路に移し、叫んだ。
「服を脱ぐだけだ」
椋露路は微かに笑みを見せると、背中のリボンを解いた。ドレスがふわりと膨らむ。
犯人はわけがわからないといった表情で小林刑事を見た。小林秋彦も同様に、理解不能の様子で、椋露路の命令どおり前を向いている。
椋露路が肩紐を外すと、ドレスがばさりと地面に落ちた。と同時に、椋露路は太ももにベルトで止めてあった小型拳銃を抜くと、電光石火で引き金を引いた。
パン――という小さな炸裂音のあと、男のうめき声がこだました。
犯人の手から拳銃が落ちるのと同時に、止まっていた時間が動き出したかのように、小林秋彦は跳び出した。
出血した手を地面に伸ばした犯人よりも早く、小林秋彦は跳躍し、仰向けに倒れこんで拳銃を確保した。
犯人が舌打ちして顔を上げると、真っ白な太ももが容赦なく、彼の顎にめり込んだ。
犯人は勢い良く仰向けに倒れ、後頭部を強く打った。その視界には青空と、下着姿の美しい探偵が、悪夢のように脳裏に焼き付いた。
連載小説として投稿し直しました
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