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錠の落ちる音が鳴り渡って、はじめて「僕」は自分の無防備さに気づいた。慌ててシャツの襟元と肌蹴を直して、平静を装う。
「ただいま」
お決まりの文句と一緒に、スラックスとブレザーを纏った、丸顔の少女が現れた。言うまでもなく、彼女は「僕」たちの娘だ。名前はアレクサンドラ・マルティーニと謂う。語呂が悪いから、「僕」だけじゃなく、面識のあるひとは誰もが、彼女のことをティナと縮めて呼ぶ。
「おかえり。そろそろ夕飯作るね」
「うん」
愛想のいい返事をくれながら、彼女は部屋へ向かっていった。
彼女の学校の制服にはスカートとスラックスがあって、どちらかを選択することができるから、たいていの生徒は季節によって履き分けるのだけど、ティナはどういうわけか一年中スラックスを履いている。休みの日なんかは、たまに丈の短いスカートを穿いていることもあるから、苦手ということはないのだろう。理由を聞いてみたいけど、父親に「なんでスカート穿かないの」なんて聞かれる年頃の女の子の気持ちを鑑みてやめた。
とりあえず、宣言したからには夕飯を作ろうと思った。もっとも、今日はいやにやる気が起きないから、あまり凝ったものを作ろうという気にはならず、おとといに作っておいたハンバーグを解凍するくらいの手間隙しかかけるつもりはないのだけど。
「あ、そうだ。お父さん」
呼び掛けがあって、「僕」は台所へ向かう足をいったん止めた。
「ん?」
「ズボンのチャック、開いてるよ」
そう言い残して、部屋の中へ消えていった彼女の横顔には、ほんの少し淀みが見えた気がした。乾いた笑いが反射的に出たけど、ひとつも面白くないし笑えなかった。




