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愛してそのひとを失うことは最高の自己愛なのだと思う。もし、どんな形だろうと、誰かを愛することができたなら、それを失ったとき、えてして人は捧げたもの、犠牲にしたものがあまりにも大きくて、自分という存在をとうに飲み込んでしまっていることに気づく。愛することに没頭するあいだは見えないことが、失うことではじめて明らかになる。
失った人が悲しみに暮れることはありえない。彼はひとを愛することで、暗がりに落ちた自己をまばゆく照すことができたし、拾い集めて理解することができたからだ。でも彼はそこでまた、彼がそのひとのことを愛してはいなかったことに気づく。失った人は自分自身のすべてを手いっぱいに抱え込んで、最初からここにひとりしかいなかったことを知るのだ。
僕が高校生になってはじめての夏、あの公園は油を揚げる虫の声の合唱がとにかく響いて、うだるような熱気と日差しで噴水は枯れ、石畳が歪んで見えたのをよく覚えている。
僕は家に帰るときいつもそこを横切っていたのだけど、雑木林の脇を通る細い道に、ある日ひとが倒れているのを見つけた。ただごとじゃないと思って、もちろん僕は駆けよってそのひとに声をかけた。
そのひとはただならぬ雰囲気の僕の声を聞いてはじめて、自分が倒れていたことに気づいたらしく、また、それに対してまったく動揺する様子もない。ゆっくりと立ち上がって、僕のほうに顔を向けた。
目があった瞬間、僕はその少女がとんでもなく美しいことに気づいた。制服は僕の学校と同じだったけど、こんな子は見たことがなかった。
「ごめんなさい。病気がちで、たまにこういうことがあるんです」
今思えば――とても恐ろしい目論見だけど、きっとそれはわざとだったのだろう。むろん僕は知る由もない。あぜんと立ち尽くすあいだに、彼女はすっかりいつもの調子といった様子で僕に話した。僕のほうがなぜか動揺してしまって、「ああ、はいそうですか」とかひどく飾り気のない返事をしてたと思う。
「ふふ。高校同じですよね? 良かったらお名前、教えてください」
「あ、えっと……小川諒人 (おのがわあきと)……です」
「わたしはシドウ。シドウ・シェーファー。ありがとう、諒人くん」
たとえそれが思い出すのもいまいましいような恥ずかしい記憶でも、はじめて出会ったときのことはよく覚えているものだと思う。




