第1話「泳げぬクジラ」
空は今日も、完璧だった。
雲は定められた形を崩さず、風は過不足なく循環し、太陽光は均一に地表へ降り注ぐ。海面は鏡のように滑らかで、波はただ「あるべき周期」をなぞるだけ。
それが、この世界の正常だった。
薄暮は都市上空に浮かびながらログを確認していた。
地球を任されている天使。
それが、彼女の役割だ。
気温、湿度、大気組成、地殻振動、個体数、精神安定値。
すべてが誤差ゼロに収束している。
人類は老いない。死なない。争わない。壊れない。
ただ、存在し続ける。
「……異常なし」
そう呟いた瞬間だった。
視界の端に、ノイズが走る。
ほんの一瞬。だが確実に、空の一部が“遅れた”。
本来、ありえない現象。
時間の流れはこの惑星において均一であり、遅延や歪みは発生しないはずだった。
薄暮は目を細める。視界が展開され、世界の裏側…構造式としての現実が露出する。
そして、見つけた。
それは、海の中にいた。
巨大な影。
だが、生物ではない。生命反応が存在しない。
にもかかわらず、それは「そこにいる」。
形状は不定。だが強いて言えば、クジラに似ていた。
ただしそれは泳いでいない。
いや、泳げていない。
水という媒体に存在しながら、運動の法則から外れている。推進も、浮力も、抵抗も、何一つ適用されていない。
ただ、空間に引っかかっている。
「……バグ、か」
薄暮は静かに呟いた。
記録上のみ存在していた概念。
この宇宙が構築された初期、神が定義した例外。
発生するはずのない誤り。
だが、それは確かに存在している。
海面が、わずかに歪む。
その瞬間、遠くの都市で一人の人間が足を止めた。
彼は転倒した。
転倒するはずのない存在が、だ。
膝を擦りむき、血が滲む。
そしてほんの一瞬だけその傷は「治らなかった」。
薄暮の視界に警告が走る。
【修復遅延】
【時間同期ズレ:0.003秒】
ありえない。
この世界に「遅れ」は存在しない。
すべては即時に修復され、均一化される。
だが今、確かに“ズレ”が生じた。
原因は一つしかない。
海中のそれ。
「対象を……識別」
言葉と同時に、対象にタグが付与される。
名称が必要だった。
未知の存在を処理するための、最初の枠組み。
薄暮は一瞬だけ思考し、そして決定する。
「泳げぬクジラ」
それが、このバグの名前になった。
その瞬間、クジラがわずかに“動いた”。
いや、動いたのではない。
位置が書き換わった。
前触れもなく、数メートル分だけ空間がズレる。
海水が遅れて流れ込み、波が崩れる。
完全だった海が、初めて“乱れた”。
「……排除対象に指定」
薄暮は静かに告げる。
その声に感情はない。
ただ、役割があるだけだ。
秩序を守る。
それが天使のすべて。
例外は、許されない。
同時刻。
白い部屋で、薄暮は画面を見つめていた。
「え……なに、これ……」
彼女の前に浮かぶのは、エラー表示。
宇宙ネットワークのログ。
だがそこに表示されているのは、ありえない内容だった。
【未定義オブジェクト検出】
【発生源:不明】
【関連プロセス:薄暮/バックグラウンド処理】
「……え?」
自分の名前。
なぜ、ここに表示されているのか。
理解が追いつく前に、画面が一瞬だけ歪む。
その歪みの奥で、何かが“こちらを見た”。
巨大で、形の定まらない影。
クジラのようで、そうでない何か。
薄暮は息を呑む。
そして、無意識に呟いた。
「……私、関係ないよね……?」
その問いに答える者はいない。
だが海の底で、泳げぬクジラが静かに“ズレた”。
ほんのわずかに。
世界を壊すには、十分な量だけ。




