本当にバカな人ですね
彼との結婚が決まったのは、わたしが十四歳になって間もない頃だった。
実母が亡くなり、父が再婚し、継母に家を乗っ取られ、厄介払いで嫁ぎに出されたのだ。
相手は、我が家と同格のイザード子爵家の嫡男、ティム。
年齢はわたしより八歳上の二十二歳。
彼がわたしに笑顔を見せた事は一度もない。
結婚前の顔合わせの時も、結婚式の時も。
王国の慣習にのっとり、幸福な結婚と領地の平和を願うため、庭にオリーブの苗木を植えた時も。
初夜の時など、虫けらを見るような眼差しで「俺に愛されようと思うな」と言い残し、自分の寝室へ行ってしまった。
衣食住などの生活面については、何不自由なく必要なものを与えられている。
まだ幼く未熟なわたしに必要な教育も、数名の家庭教師をつけてくれている。
日々の食事は時間をずらして別々にとる。
朝晩の挨拶をするために彼の部屋を訪れるのも拒絶されるため、屋敷の中で偶然会った時くらいしか彼の顔を見る機会はない。「ごきげんよう」と声をかけるわたしを、彼が無視して通り過ぎるのが日常だった。
彼から名前を呼ばれた事は一度もない。
わたしの名前を、「エライザ」という名前を、彼が覚えているかも分からない。
二年が経ち、十六歳の時に一度だけ舞踏会に夫婦そろって出席した。社交界デビューという体面を保つために。
それからは一度も彼と外出する事はなく、パーティーへの出席は夫婦のどちらか一方と決められていた。
社交シーズンが終わると二人で領地へ戻る。
わたしと一緒にいるのが嫌なら、領地の屋敷と王都の屋敷で別々に暮らした方がお互いに気楽なのではないかと思うけれど、世間体を気にする彼のプライドが許さないらしい。
互いの誕生日も祝った事がない。
わたしの誕生日には、実家の父と兄が継母に内緒でプレゼントを贈ってくれる。社交の場で仲良くなった友人たちからも可愛らしい小物や王都で人気のお菓子などが贈られる。
彼の誕生日は、騎士学校時代のご同輩同士でお祝いをしているのか、毎年、朝まで帰ってこない。
気が付けば、形式だけの結婚から五年という歳月が流れていた。
彼が二十七歳。わたしが十九歳。
出会った時と変わらない希薄な関係。
彼と少しでも心を近付けようと努力をするのを諦めた分、わたしたちを隔てる壁は氷のように冷たく厚い。
結婚したあの日から比べて、わたしの背丈はずっと伸びて、身体つきも大人になった。
彼も、少年のようなあどけなさを持った青年から、精悍な大人の男性になった。
二人とも外見は五年の歳月を重ねているのに、距離は縮まるどころか離れていくばかり。
領地経営は順調で、良家の関係性も友好が保たれている。
何も問題はない。
あるとすれば世継ぎの問題だけれど、彼には外に女性が複数人いる。
屋敷ですれ違うたびに、違う女物の香水が染みついているのをわたしは知っている。
誰かとの間に子供を授かったら、すぐにでもわたしと離縁をして、相手の女性と再婚するだろう。
身の振り方は、もう考えてある。
夫の不貞で一方的に離縁されるとしたら、わたしの実家が黙ってはいないだろう。それを盾にして、慰謝料と住居を提供してもらう。
静かな場所でゆっくり暮らして、一人で食べていけるだけの畑を作るのだ。
今のわたしの密かな夢。
☆
一か月後。
夫が家を出る事が決まった。
周辺諸国の情勢が急速に悪化し、同盟関係にある隣国が異国の侵略を受けた。
隣国の防衛にあたるため、国中の若い男性が戦地へ赴く。
彼は後方支援を担当するらしい。
本来なら、旅支度をするのは妻であるわたしの役目。
でも、彼はこちらが申し出る前に拒絶してきた。「荷物は自分でまとめる。お前は手を出すな」と。
領地経営の代行は、義父が務める事が決まった。
ことごとく、わたしに手を出させたくないらしい。
出立の日。彼は太陽が昇る前に屋敷を出ようとした。
「見送りは不要だと伝えたはずだが」
わたしの顔を見るのも嫌だったようで、彼は心底嫌そうに眉をひそめた。
「戦地へ赴く旦那様を見送るのは、妻の役目ですわ。わたしにも体面がございますので、形式だけでも受け入れて頂かなくては困ります」
わたしたちの不仲は使用人たちの間で黙認されているけれど、今生の別れかもしれない場面に立ち合わないのは彼らに示しがつかない。実家の評判にも関わる。
「こちらをお持ちになって下さい」
この国では、妻が着古した衣服の生地を用いて守り袋を縫い、戦地へ向かう夫に託し、無事に帰還したら妻へ返す――というしきたりがある。
毛嫌いしている妻が身に着けていた布を持ち歩くのは、彼にとって不本意だろう。
「道端に捨てたりなさらないで下さいね」
「そんな事をしたら天罰が下るだろうな」
夫はしぶしぶ守り袋を受け取った。金糸のような髪に縁取られた端正な顔が苦い表情を浮かべている。
「見送りはここまでだ。もうついてくるな」
玄関から外へ出る事は強く拒否された。
誰かに見られるのがそれほどまでに嫌なのかしら。
別れ際に言い合いをするのも大人げないし後味が悪くなってしまうので、彼に従った。
閉じられた扉の前で、彼が馬に荷を積み、やがて駆けて行く蹄の音が遠ざかるまで、じっと待った。
彼の気配が屋敷から消えた事を感じ取ったところで、わたしは扉を開けて外へ出た。
吹き込んでくる風が冷たい。一瞬、腕で顔を覆い、風が通り過ぎてから目を開けた。
そして、目を見開く。
「……バカな人」
結婚式の日に植えた、まだ若いオリーブの木。
風にそよぐ枝を見つめて、ぽつりとつぶやいた。
☆
夫が家を出て三年の月日が過ぎた。
わたしは二十二歳になっていた。結婚した当時の彼と同じ歳。
彼は、生きていれば来週、三十歳を迎える。
この三年間、一通の手紙も葉書も届いていない。
同じく夫の帰りを待つ貴婦人たちは、自分たちのもとへ届いた手紙について嬉しそうに、そして寂しそうな表情で愛する人の話に花を咲かせている。
お茶会の席で、夫からの手紙が届いていないのはわたし一人。
仲の良い友人は、わたしを慰めようと「便りがないのは元気な証拠ですわ。お帰りを待ちましょう」と言葉をかけてくれた。
夫婦間に愛はないのだから寂しさはないのだけれど、感謝をこめて微笑み返した。
義父は、領地経営代行の補佐をわたしに任せてくれた。彼に内緒で。
わたしが何もさせてもらえず、一人きりで屋敷に閉じ込められた憐れな妻だと思ったらしい。
仕事を教えてもらえるのはありがたかった。今後の人生の糧になるから。
一度だけ、彼との離縁の意思について聞かれた事がある。
わたしは「家のための結婚です。実家に不利益があるようでしたら離縁はいたしません」と答えた。
後継については何も聞かれなかった。きっと、イザード子爵家の親類縁者から養子を迎えるのだろう。
そして、隣国と侵略国の間に不可侵条約が締結され、長く続いた戦争は終わりを告げる。
戦地から生還した家族を迎える者は、庭の木に白いリボンや紐を結ぶならわしがある。
一通の手紙も寄越さない相手のために祈りを捧げる必要はないのに、わたしはオリーブの木にお気に入りのリボンを結んだ。
一つに結んだ髪には、古びた青いスカーフを結んだ。
来る日も来る日も、同じスカーフを髪に結んで過ごした。
彼の帰還の連絡は、わたしではなく義父宛てに届いた。
その手紙には「俺が帰るまでに離縁の準備を進めてほしい」と書かれていたらしい。
わたしは呆れてものも言えなかった。
彼と義父が定期的に手紙のやり取りをしているのは知っていた。
妻へ向ける言葉はなくとも、父親への手紙は筆が乗る様子。
義父は今一度、わたしに離縁の意思確認をしてきた。
「貴女の実家へは私が話を通そう。あちらの家に負担のかからぬよう尽力する」
「お気遣いありがとうございます、お義父様。その件につきましては、ティム様と直接お話をさせて下さいませ」
わたしは彼の言いなりになるつもりはないし、思い通りにさせてあげない。
彼の記憶の中で、わたしは十四歳の無知な小娘のままで止まっているから、侮られているのだ。
ティム様。貴方の魂胆はすべてお見通しです。
それから半月ほど経ったある日の昼下がり。
わたしは庭の畑に出て野菜を収穫していた。
夫が家を出てから、畑の作り方と、収穫した野菜の調理法を使用人たちから教えてもらった。小麦からパンも作れるようになった。
今日も、長い金茶色の髪を青いスカーフで結んでいる。
「なぜ、まだこの屋敷にいる? 離縁に必要な書類は送ったはずだが」
畑仕事に夢中で、蹄の音に気付かなかった。
ひどく機嫌の悪そうな、冷徹な声。
けれど、風に乗ってよく通る朗々とした声。
「おかえりなさいませ」
「質問に答えろ。なぜここにいる?」
「わたしの家だからですわ」
「お前はもう俺の妻ではないだろう。離縁したのだから」
彼は馬を執事に託して、渋面でこちらへ歩み寄った。
「いいえ。わたしはあなたの妻です。あなたが一方的に送り付けてきた書類でしたら、お義父様にお願いして薪にくべていただきましたわ。お陰様で美味しいパンが焼けましたの」
「父は、お前の側についたというのか……?」
彼は忌々しげに歯噛みした。
「ティム様。わたしたちは、話し合うべき事がたくさんあるようですわ」
「お前と話す事など何も……」
「いいえ」
わたしは一歩、前へ進み出た。
「ひとつ、あなたは外で複数の女性と関係を持っていた」
「それがどうした。妻が好みの女でないのだから仕方ないだろう」
「嘘ですわよね? お相手にお金を払って、既成事実を作るのに協力してもらった。指一本触れていない。お相手の皆様全員に確認を取りましたもの」
「何……!?」
夫は明らかに狼狽えた。
「あなたは初めからわたしと離縁するつもりで政略結婚を受け入れた。でも、わたしはまだ十四の未熟な小娘。実家にいた時よりも高等な教育を受けさせてくれました。別れた後にわたしが自分の力で生きていけるように。すぐに離縁しなかったのは、わたしが実家で継母から手酷い仕打ちを受けていた事を知っているから。わたしを匿って下さっていたのですね?」
「そんな事は……お前の憶測にすぎない。ただの妄想だ」
「わたしに冷たくなさっていたのは、別れがつらくならないように。違いますか?」
「……八つも年の離れた子供と結婚させられたのが気に食わなかっただけだ」
それならどうして、頬が赤いのだろう。
明らかに図星をつかれて、きまりが悪くなっている表情なのに。
「では、これはどういうおつもりでしたの?」
自分の髪を結んでいた青いスカーフをほどいて彼の眼前に突き出した。
「あなたが出立した朝、オリーブの木に結ばれていたものです。青い布を木に結ぶのは『永遠の愛』という意味でしょう? わたしがこんな事も知らない子供だと思っているのですか?」
「そんなものは知らない。誰かのいたずらだろう」
「わたしの目を見て言ってください、ティム様」
目を逸らす彼を咎めるように言葉を放った。
「木に結ばれた青い布を受け取って髪に結ぶのは、承諾の証です」
ほどいた青いスカーフを、今度は彼の右腕に結び付けた。
「……俺の腕は、木の枝ではない」
彼はまだわたしと目を合わせようとしない。
「わたしは八年もの間、あなたの深い愛情に守られていた事に気付けずにいました。本当に愚かな事です」
でも、と続けて、彼の手を取る。
「愚かなのはお互い様ですよね」
「何だと?」
ようやく、彼はわたしと正面から目を合わせてくれた。頬も目元も、耳までも赤い。
「お義父様から聞いています。お手紙ではいつも、わたしの様子を気にかけて下さっていたと」
「……あのクソ親父め」
顔を真っ赤にして照れながら吐き捨てる表情は、三十歳の大人の男性とは思えないほど、あどけなかった。
わたしは彼の両手をぎゅっと握りしめて微笑みかけた。
「本当に、バカな人ですね」
愚かで、不器用で、愛しい人。
彼はきっとまだ気付いていない。
背後にあるオリーブの木に結ばれた、無事を願うための白いリボン。
数えきれないほどの願いをこめて結んだリボンは、満開の木蓮の花のように風に揺れていた。
「ところで、ティム様。何か大事なものをお忘れではありませんか?」
「……渡す暇を与えなかったのはお前だろう」
そう言う彼の表情は、どことなく柔らかなものに変わっていた。
出立前にわたしが託した守り袋。無事に帰還したら返す約束のしるし。
「ただいま、エライザ」
初めて名前を呼ばれた嬉しさと驚きで、思わず目尻に涙が浮かんだ。
「おかえりなさいませ、ティム様」
おわり
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