9章
庄左衛門の髪には白いものが混じり、背も少し曲がっていた。歩みはゆるやかで、声にはかすかな震えが混じっていたが、その眼差しは若き日と変わらず、商いの未来を見据えていた。八幡の町はさらに繁栄を増し、江戸や大坂へ広がった商圏は近江商人の名を世に知らしめていた。庄左衛門の暖簾は風に揺れ、そこには「三方よし」の理念が刻まれていた。
晩年の彼は、子や弟子たちを集めて語った。
「商いは己のためだけではない。売り手よし、買い手よし、世間よし――これを忘れるな」
弟子の一人は問いかけた。
「師よ、利益を追う商人に負けぬためには、どうすればよいのでしょうか」
庄左衛門は静かに答えた。
「利益は一時のもの。だが信頼は永遠のものだ。人を生かし、世を潤す商いこそが未来を育てる」
その言葉に弟子たちは深く頷いた。彼らの眼差しには決意が宿り、理念は次の世代へと受け継がれていった。庄左衛門は、かつて武器商人として人を殺す道具を売っていた過去を思い出し、胸に痛みを覚えた。だがその痛みこそが理念を生み、未来へ託す力となった。彼は弟子たちに「心得帖」を書き残した。そこには「三方よし」の言葉とともに、商人としての心構えが記されていた。
「商いは人を生かすためにある。信頼を失えば商いは滅びる。誠実を忘れるな」
弟子たちはその心得帖を胸に抱き、未来へと歩みを進めた。
町の人々もまた、その理念を共有した。大工は「材木を売れば家が建ち、人が住む」と語り、鍛冶屋は「農具を売れば田が耕され、食が満ちる」と笑った。商人は「布を売れば人が着飾り、町が華やぐ」と語り、農民は「肥料を買えば田が肥え、子らの腹が満たされる」と喜んだ。船頭は「荷を運べば町が潤う」と声を上げ、子どもたちは「父母の商いが町を育てる」と誇らしげに語った。江戸の町人も「近江商人の品は信頼できる」と口にし、理念は町全体に浸透していった。群像の声が交錯し、庄左衛門の心を支えた。
晩年の庄左衛門は、過去の後悔と未来への希望を胸に抱いていた。安土の炎の記憶はまだ胸に残っていたが、それは理念を生む土壌となった。八幡堀の水面に映る月は、理念の象徴であり、未来への希望であった。彼は静かに呟いた。
「理念は人から人へ、世代から世代へと受け継がれる。これこそ近江商人の誇りだ」
弟子たちはその言葉を胸に刻み、町人や農民もまたその理念を共有した。理念は個人の誇りから共同体の遺産へと昇華し、世代を超えて生き続けた。




